語り部と魔女
――イヴ・グランテーゼ。
目の前の少女が語ったその名を聞いたカイトは心の内に生じた驚愕をどうにか抑えながら思考をめぐらせる。
かつてトアル村で過ごす中で幾度となく語り聞かされたその名前。迷いの森には魔女がいる。ミンシアの花を越えた先は魔の領域。そこにはかつてこの世界で暴虐の限りを尽くした魔女が存在し、境界を越えた迷い人を手招きする。
〝いばら姫〟。〝鮮血の女王〟。聞くだけで物騒な印象を与える二つ名に違わぬ実績がイヴ・グランテーゼには確かにある。それは地方によって内容が変わる言い伝えなどといった曖昧なものではなく、この国の歴史書にしかと刻み込まれている。
かつて王都に存在した王立魔道学院を主席で卒業し、宮廷魔術師としてその名を馳せた栄光の軌跡から一転。何があればそのような変貌を遂げるのかというほどの悪逆の限りをある日突然イヴ・グランテーゼは引き起こした。
それはまさに青天の霹靂。当時の人々は英雄に限りなく近い存在でありながら、光り輝く世界から闇へと転落した彼女の存在を嘆き、悲しみ、そして嫌悪した。
怒号漂う戦渦の中、何の前触れもなく味方を虐殺し、その死骸を己のもっとも得意とする魔術で串刺しにして野に晒した彼女はいつしか〝いばら姫〟と呼ばれるようになった。
闇へと落ちた彼女を討伐するための隊が組まれ、幾度となく戦いを挑むも、ついにはその存在を滅すること叶わず。討伐に向かった兵士の鮮血を全身に浴びながら恍惚の笑みを浮かべる彼女には畏怖をこめてもうひとつの二つ名である〝鮮血の女王〟が名づけられた。
暴虐の矛先が己に向けられるのか当時この世界に存在していた人々はいつ起こるとも知れない恐怖の日々に怯えて過ごしたという。
しかし、ある時を境にイヴ・グランテーゼは忽然とこの世界から姿を消す。
一説では当時存在していた〝英雄〟がその身を打ち滅ぼしたとも、闇に落ちた代償に寿命を迎えたとも、この世界に飽いて別の世界に旅立ったともいくつもの風説が流れた。だが、誰も真実に辿り着くことはなかった。
それから幾年が過ぎ、その存在が人々の中から薄れ始めた頃、当時の恐怖を決して忘れてはいけないと当時の王はかつて彼女が在籍してた魔道学院の閉鎖を決めると共に歴史にその名を刻むことを決定した。
そして彼女は歴史にその名を残した。〝魔王〟とはまた別種の突如として世界に傷を残した災禍の化身として。
たとえ悪事を働く人間とてその名の恩恵に預かろうと思ったとしても、決して口にすることはない禁忌ともいえるその名を自ら語る少女。
見た目からはとてもそのような悪逆の人物には見えない少女。だが、漂う雰囲気はその見た目にそぐわない老獪さを感じさせる。
「ん? なんじゃ、呆けた顔をして。まさか我が本物ではないと疑っておるのか?」
反応を見せないカイトを見て、もしやと思ったのかイヴと名乗る少女はそう口にした。そして、未だに全身に走る痛みから身動きの取れないカイトの傍へと近づく。
「ククッ。まあ、この見た目ではそう感じるのも仕方があるまい。じゃが、こう見えても我は見た目以上に長いこと生きておる。
お主のようにまだ幼い子供では知らぬことも遥かに多く経験しておるぞ?」
カイトのいるベッドにイヴは腰をかけると蛇に睨まれた蛙のように身動きの取れなくなっているカイトの頬に手を伸ばし、スッと撫でた。そして、もう片方の手でカイトの腹に手を伸ばし、ひんやりとしたその手でカイトの熱を奪う。
目の前の少女から感じる圧倒的な存在感から感じる恐怖と同時に、未だ幼いカイトが経験したことのない不可思議な快感が彼の背筋に走る。
このままではいけない。そう思うものの、身体は指一本も動かない。
「ククク。まだ精通も迎えておらんような未発達の果実。
いかん、いかん。今すぐにでも喰らってしまいたいくらい魅力的じゃ」
うっとりとした表情を浮かべるイヴを見てカイトは先ほどまでこの少女に対して抱いていたイヴ・グランテーゼの名を語る偽者ではないかという考えはいつの間にか霧散していた。
目の前にいる存在はかつてこの世界にその名を轟かせた悪逆の徒、そのものなのだと本能的に理解する。
「あ、あなたは……」
「ん? どうした?」
「なぜ、僕を助けたんですか?」
恐怖と快楽に身を委ねそうになりながらも、カイトは必死に言葉を搾り出した。それは確かにもっともな疑問であった。
迷いの森の奥へと傷ついた身体で歩を進め、倒れこんだ時に自分の人生はこれで終わり。先に旅立ったアレンの後を追うことができるとカイトは密かに期待していた。
だが、目を開けてみれば無様にも未だ自分は命を繋いでいる。しかも、目の前にいるのはあのイヴ・グランテーゼだ。暴虐の限りを尽くした〝鮮血の女王〟が自分のような凡人を生かす心あたりなどカイトにはまるでなかった。
そんなカイトの当然の疑問にイヴは笑いながら答えた。
「なんじゃ、そんなことか。
まあ、よい。さして特別な理由もあるわけでもない。答えてやろう。
お主を助けた理由、それはな、そうしたほうが〝面白そう〟だと思うたからじゃ」
「……え?」
「クク。理解できぬか? ならば教えてやろう。
お主は気づいておらんようじゃが、この迷いの森は文字通り訪れた者を迷わせる結界が張られておる。
境界となるのはミンシアの花が咲く生息地。そこから先には普通の人間は基本的には奥へと進めぬ。
じゃが、稀に結界を越えて迷い込む人間も現れる。大抵そうして森の奥へと迷い込んだ人間はこの地に生息する魔獣の餌になるのがオチじゃ。
だが、お主はそうならなかった。なんの変哲もない子供が偶々この森の奥地へ足を踏み入れ、結界を超え、そして魔獣の餌にならない。
そんな偶々があると思うか? あるわけがあるまい。
それに、精霊共がこの森の空気をざわつかせておったからな。これは何かあると思い、久方ぶりに森の中を散策してみればお主が倒れておったというわけよ」
「でも、だからって助ける理由は」
「ああ、そうじゃ。普通ならばそのまま放っておくじゃろうな。
だが、先ほども語ってやったであろう。偶々の重なりでこんな場所に、お主の様な子供が迷い込むわけがあるまい。
厄介ごとの臭いがプンプンと鼻をついたわ。それも極上の……な。
さて、せっかく助けてやったのじゃ。お主の様な子供が何故、こんな場所に迷い込んだのか。今から語ってみせよ。
なあに、時間ならたっぷりとある。それこそ、この日を迎えるまで何百年という月日を過ごしてきたのじゃ。丸一日時間を使ったとしても我にとっては瞬きに等しいほどの時間よ」
交わる瞳と瞳。選択の余地など初めからカイトには与えられていなかった。彼にできるのは目の前にいる停滞した時間に変化をもたらした存在への興味で溢れる少女の好奇心を満たすことだけ。
そうして、カイトは語りだす。己のこと、そして英雄となるべき存在だった亡き親友の話を。