〝魔王〟降臨
流れる日々は穏やかに過ぎ、このまま永遠にこの平穏な日々が続くのだと誰もが感じていた。
大地に恵みを与える太陽の光。村を流れる川のせせらぎ。迷いの森から村に飛んできた小鳥の囀り。〝英雄〟と〝精霊士〟の天職を手にした二人の少年は、ウィングラムが送った王都からの使者とロットンが送った教会本部からの手紙の帰還を待っていた。
きっと、使者と手紙がトアル村に到着してしまえばこれまでと同じような日々は望めない。二人とも心のどこかでそれを予感しているからこそ、これまで過ごしてきたようになんでもない毎日を今だけでもと甘受していた。
特にアレンはもしかしたら母と別れることになるかもしれないと思ったのか、これまで以上に母に寄り添い、彼女の手伝いをする姿が増えた。そして、それは母であるフィオナも同じなのか〝英雄〟の天職を授かった息子を愛しく思いながら、残された時間を噛み締めるように大事に過ごしていた。
――その日は強く雨が降っていた。
ここ数日の快晴が嘘のように降りしきる大粒の雨。藁で編んだ家の屋根を吹き飛ばすほど強い風がビュウビュウと吹いている。
子供たちは両親と共に家に閉じこもり、急に訪れた風雨をそれぞれの自宅で凌いでいた。いつものように外に出かけて遊ぶ事が出来ず、子供たちの多くは退屈そうに家の中で過ごしていた。
そして、それはこの村でかなりの月日を過ごしているイオナも同様であった。
「はぁ~……」
村長が用意した村の宿のベッドに寝転がりながらイオナは深い溜息を吐いた。それもそのはず、彼女はウィングラムが使者に出した騎士が戻ってきたら領地に帰らなければならなかった。
なぜなら、彼女もまた今年に七つを向かえ、先日〝英雄〟と〝精霊士〟の天職を授かったアレンやカイトと同じように父であるウィングラムが治める直轄の領地で彼らと同じように神託の儀を受けなければならなかったからだ。
だが、トアル村を訪れた時に父から告げられたように、イオナは神託の儀を終えたその時より貴族としての振る舞いをその身を持って実践しなければならない。
これまでのように、ただのイオナとして村の子供たちと共に遊んだりすることはもうできなくなるのだ。
楽しい時間を過ごし、素晴らしい思い出をこの村で作ってきた分、己自身の手でそれを手放さなければいけないと思うと、イオナの心が宿の外を降りしきる天気のように暗く沈むのは至極当然のことであった。
「どうした、イオナ?」
そんな娘の心情を察してか、部屋にある椅子に腰掛け、自宅から持参してきた本を静かに読んでいたウィングラムが声をかけた。
「お父様……」
「ここで過ごした日々が惜しくなったか?」
父の問いかけを肯定するようにイオナは頷く。
「……お父様の言うとおりです。
わかっていた事とはいえ、あと何日かして屋敷へ戻った後、神託の儀を受けたら私はもうこれまでのようにみなさんと一緒に遊ぶ事ができないと思うと胸が苦しくて……」
「仕方のないことだ。貴族としてその生を受けた以上、守るべき民が安心して日々を過ごせるように立派な貴族として振舞うことは我々に課せられた義務だ」
「それは! ……わかっているのです。でも」
「でも?」
「その、村の皆さんとお別れするのも、これまでのように接する事ができなくなるのは当然のことなのですが……」
言いよどむ娘の様子に思い当たる節があったウィングラムは続く言葉を代弁する。
「アレンともこれまでのように接する事が出来なくなるのが嫌なのか」
「……はい」
イオナにとって一番恐れているのは、まさに今父が口にした事であった。神託の儀を終えてしまえば、自分は貴族としての振る舞いを求められる事になる。そうなれば、アレンともこれまでのように気軽に付き合うことができない。
それを彼女は恐れていた。だが、そんなイオナの懸念を吹き飛ばすような明るい笑みをウィングラムは浮かべ、彼女が安心する言葉を口にした。
「なに。そう心配する事もあるまい。むろん、トアル村に住む者とはこれまでのように接する事はできなくなるが、アレンとカイト彼ら二人は別だ。
何せ、人類史上初となる七つの神託の儀で宣告を受けた〝英雄〟と精霊を降臨させた〝精霊士〟なのだ。
むしろ、中位貴族である我らがその接し方を改めなければならないほど人物なのだ。
人目がある公的な場ならまだしも、彼らの身柄はしばらくの間私たちル・ローゼス家が保護することになっている。
少なくとも、王都に座す我らが王と教会本部にいる教皇様の元へ彼らを連れ行く時までは……な?」
父の言葉を聞いたイオナは目を見開いて驚いた。
「アレン様と一緒に屋敷に帰れるのですか!?」
「ああ、そうだ。使者に出した騎士が戻り次第アレンとカイトを連れてル・ローゼス家の屋敷に戻る予定だ。
これほどの出来事だ。王や教皇様、そして王都に住む貴族たちも歓待の準備に時間がかかるだろう。
少なく見積もっても半年近くは彼らと共に私たちの屋敷で共に過ごすはずだ」
そこまで聞いてイオナの表情は先ほどまでの不安が嘘のように晴れた満面の笑みとなった。
「お父様! 大好き!」
ベッドから飛び起き、椅子に腰掛けるウィングラムの元へ駆け、飛びつくイオナ。
己に甘える娘に「こらこら」と微笑みながらも口にするウィングラムであったが、娘がここまで喜ぶ理由が離れたくなかった一人の少年とまだしばらくの間一緒にいられることを喜んのことだと思うとその心境は複雑だった。
おそらく、まだ幼い娘にとっての初めての恋。その相手がよりにもよって人類史上初めて、最初の天職で〝英雄〟を授かった少年だと考えるとウィングラムは己の娘は難儀な相手に恋をしたものだと内心で溜息を吐いた。
きっと、娘の恋の行く末は茨の道だ。今はまだ誰よりもアレンの傍にいるために彼の持つ価値の大きさに気がついていないが、このままアレンが現存する他の〝英雄〟たちと同じような功績を挙げたのであれば、彼を手に入れようと画策するものは数え切れないほど多く現れる。
もしかしたら既に王都に到着した使者からその話を聞いた貴族たちがそのように考えている可能性もあるのだ。
だが、それを敢えて娘に言う必要もないと彼は考えていた。時が経てば自ずと分かる事であるということが理由のひとつではあったが、それ以上に初めての恋に心躍らせ、浮かれる自分の娘に水をさして嫌われたくないというのがウィングラムの本音であった。
浮かれる娘と父。今だけは貴族であることを忘れ、二人はどこにでもいる親子として流れる穏やかな時間に身を委ねていた。
◇
「雨、やまねえなぁ……」
イオナがこの先もしばらくアレンと共に過ごせる事を喜んでいた頃、当の本人であるアレンはウィングラムから話を聞かされる前のイオナのように退屈そうに椅子に座り、テーブルの上に寝そべっていた。
こんな天気ではどこにも出かける事ができない。仮にアレンが一人で外に出たところで他の子供たちはでないであろう。
こうなってしまえば、〝英雄〟の天職を持つアレンといえど形無しだった。退屈のあまり先ほどから何度もバタバタと足をバタつかせており、度々母であるフィオナからアレンは「埃が舞うからやめなさい」と中位を受けていた。
テーブルの上に突っ伏したままチラリと横目で母の姿を盗み見ると、フィオナが集中した様子で薬の調合をしていた。
(母さん……頑張ってるな)
時に人の生死にも関わる薬の調合を行うものとして、簡単な傷薬を作る際でも手を抜かない母の姿をこれまで幾度となく見てきたアレンは改めて己の母に対する強い想いを抱いた。
流行病により父を亡くし、自身もその後遺症に苦しみながら、それでも女手一つで必死になってアレンを育ててきたフィオナにアレンは心の内で何度も感謝していた。
言葉にするのはなんだか照れくさく、これまで己の内でだけ感謝の言葉を述べてきていたアレンであったが、己がこの村を離れる予感をどこかで感じていたからだろう。これまで口にしたことがなかった感謝を彼女に対して示した。
「母さん」
「なあに? アレン」
アレンの呼びかけにフィオナは薬の調合を一時止め、彼の方へ視線を向けた。
「今まで言葉にしたことなかったけどさ、ありがとう。たった一人で俺の事を育ててくれて」
アレンから告げられた突然の感謝の言葉にフィオナは驚いた。最愛の息子からの感謝の言葉を嬉しく思うと同時に、その言葉にどこか別れの気配を感じて彼女の涙腺に涙がジワリと滲む。
「いいの。あなたを一人で育ててきた事を、一度だって私は苦に思った事はないわ。
だって……大事な私とあの人の子供なんだもの。私が望むのは今も昔もあなたが元気で、健やかに育ってくれれば。ただ、それだけよ」
「でも……」
「その先は言わなくていいわ。あなたが〝英雄〟の天職に選ばれても、そうでなかったとしてもアレン、あなたは私にとって大事な息子。それ以外のなんでもないの。
だから、もしあなたがこの先私の元から離れてしまっても、風の噂でどこかで元気に過ごしていることが分かれば、それが私にとって何よりの幸せだわ……」
言葉の端々から感じる母の強い想いを受け止めたアレンは、椅子から降りてフィオナの元へと駆け寄ると彼女の胸の内に飛び込んだ。
村の子供の前では決して見せない、ただの子供としての態度。母であるフィオナの前でだけ見せる年相応の甘えた姿。
そんな息子の甘えをフィオナはただ黙って受け入れていた。
「アレン……。かわいい、かわいい私の息子」
しばらくの間二人は互いに抱き合っていた。だが、不意にアレンがフィオナの胸の内からガバッと飛びのき、険しい顔つきで何かを探る様子を見せた。
「アレン? どうしたの?」
急変した息子の様子に戸惑ったフィオナはそう問いかける。だが、集中した様子のアレンにフィオナの声は届いていない。
「なんだ、これ? 胸の中がすげえザワザワする」
己の胸の内に突如として湧き上がった嫌な予感。初めは小さな胸騒ぎに過ぎなかったそれは時間の経過と共に頭痛を伴うほどの警告となって、アレンを急かす。
この場にいてはダメだ。なぜだかは分からないがアレンは本能的にそう思った。
母を連れ、この場から離れようとした次の瞬間、まるで雷が近くに落ちたかのような轟音が村中に響き渡った。
「なんだ!?」
轟音の正体を確かめるべく、アレンはすぐさま家を飛び出した。降りしきる豪雨の中、狭くなる視界で必死に先ほどの轟音を起こした原因を確認するアレン。
雨雲に覆われ空は真っ暗だというのに、そんな暗闇を照らすようにアレンの視線の先には先ほどの轟音を起こした原因と思われる空に上る火柱が見えた。
離れた距離で燃え盛る火柱はその熱をアレンの元にまで届ける。チリチリと肌を焼く熱さは飛び散る火の粉だけのものでは決してない。
己が授かった〝英雄〟の天職が教えてくれる。視線の先にある火柱の奥にいる存在から浴びせられる敵意が火の粉に混じり、アレンの肌を突き刺す。
「……〝魔王〟!」
誰に教わったわけでもない。ただ、本能的にアレンはこの異常事態を起こしている相手を呼んだ。
それは〝英雄〟にとっての天敵。人類の歴史上幾度となく繰り返された宿命の螺旋。
〝英雄〟あるところに、〝魔王〟もまた存在する。
「ふむ、どうやらうまくいったようだな……」
火柱の中から一つの人影が現れる。身の丈二メートルほどの長身。鋭く引き締まった体躯。アレンと同じ、それでいて深い色をした深紅の髪。そしてその髪と同じ色をした体皮。
人間のように見えて人間でない存在。知性を有し、人類を滅するため闇の精霊より生まれた出来損ない。
その出来損ないである魔族。その頂点に存在する〝魔王〟はなんの前触れもなくトアル村に降臨したのであった。