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少女海賊シャーロットが死んだ日  作者: NOTAROU
Chapter 1
8/13

8:カウンター・インテリジェンス


 ほんのすこし触れるだけのやわらかなキス。

 シャーロットは瞑っていた目を開き、顔を離した。


「あはは、きみったらすごくびっくりしてる」


 シャーロットはほほえんで、彼女を呆然と見上げる黒髪の少女の頰に手を当てた。


 左手に触れるひんやりとした石垣と、右手が触れるあつあつのほっぺた。


「マリー、なんで抵抗しないのさ?」シャーロットはぽかんと少し開いた少女の唇を指でなぞった。「きみはシスターだろう? こんなこと許していいのかい?」


「……だめ、にきまってるでしょ」


「ほんとう?」


 シャーロットはうつむいてしまった目の前の少女をじっと見つめていると、急に彼女を押し倒して唇を貪り、自分のものにしたいという衝動に駆られた。


 ――おかしいな。ただこの子をちょっとからかって、様子を見るだけのつもりだったんだ。


 好きだなんて、真っ赤なウソ。でまかせだ。

 そもそもこれは作戦の一部なのだから。


 この島にロンドンから誰かがやってくると聞き、策を練っていた。忠実な郵便班の子供たちを日頃から商会船の貨物室に忍ばせて、シドニーからウポル島までの数日間の船旅のあいだに封筒の中身をこっそり探らせていたおかげで、シャーロットが情報を掴むのはおそろしく早かった。


 それで面白いことがわかった。テリーザが現金を受け取っているのだ。あの人嫌いで銭嫌いのシスター・テリーザが、ロンドンの知人から「見習い修道女」を預かるという。そんな胡散臭い来訪者をここ商会領に連れてきて、どんな奴か調べ上げ、変な真似ができないようにコントロールしてやる、というのが彼女の策だった。


 策は完璧に作用した。捕まえた、と思った。修道女でないことくらい、簡単にわかった。なぜなら、この世界には鞄に聖書の代わりにピストルをしまい込み、おなかいっぱいに食べ、ましてや鶏肉を口にするシスターはいないからだ。少なくとも、シャーロットが読んだ本にはそんなシスターはいなかった。


 このいかにも怪しげなマリー・ロイドと名乗る16歳の少女に愛をささやく。自身が嫌われ避けられるならば好都合、相手もむやみに商会を嗅ぎまわれなくなる。逆にノッてくれるならそれもまたやりやすい。自分の目の届くところに留まらせ行動を縛ることが出来、監視もしやすいからだ。まあそれでも普通は後者を選ぶだろう、とシャーロットは思っていたのだが……。


 ――この子はなんなんだ、うぶ過ぎる。本当に刺客か間諜のたぐいなのか? だとしたら、その、あまり優秀じゃないのかも。


「ねえ、こういうのは初めて?」


 かちこちに緊張したマリーこと「猫」はこくりとうなづいて、縮こまった。その姿を見てシャーロットは、先ほど頭のなかに湧き上がった嗜虐心が冷え切り、なんだか自分でも理解できない変な気持ちになった。とりあえずキスの続きはやめようと思った。


「怖かった?」


「……ん、別に」


 同情だろうか、いや保護欲か? シャーロットは冷静に自身の感情を分析していた。彼女は顔になだめるような笑みを貼り付けて、困ったように顔を背ける少女を眺める。輪郭を目でなぞり、何かを探すように見つめ続ける。


 ――やっぱり、この子は似ているんだ。


 このにせ修道女の顔はシャーロットの心のどこかにひっかかるものがあった。初めて少女を見たとき、何となく浮かんだ言葉は「妹」だった。もうずっと昔、ちいさいころに別れた妹がいた。生きているのか定かでない。でもあの大火事のなか助かったとは思えない。死んだはずだ、とシャーロットがもう何年も前に自分の心の中で決着させていた妹が。


『びっくりしたよ。だってこの子の顔が僕の別れた妹の顔にそっくりだからさ』


『そんなわけないですよ。そういうことはもう、やめてください』


 浜辺に寝転ぶ少女を見て思わず声を上擦らせたシャーロットに、彼女の事情を知るヤシュパルは悲しげな顔をしてそう言っていた。ヤシュパルは正しかった。なぜならシャーロット自身、人生の僅かな期間を家族として共に過ごした幼い妹の顔を、すでに思い出せなくなっていたのだ。だから本当に似ているのかどうかはわからない。ただの思い込みだとシャーロットはすぐに我に帰り、そのことは頭から追いやっていた。でも……。


 ――馬鹿だな、これじゃまるで本当に彼女にひとめぼれしてしまったみたいだ。


 なぜだかシャーロットは少女のそばにいることに違和感を覚えなかった。自分たちを嗅ぎまわらんとしているであろう人間に対して、それも出会ってから幾日も経たない相手に対してそんな感覚はあり得ないはずだった。それでもシャーロットは今これだけは確かに思う。こんなこと、してはいけないんだと。


 背景は胡散臭いことこの上ないのに、本人は真っ白なシーツみたいに無垢で、他人に簡単に騙されそうな純朴の不思議な子。


「かわいいな、きみは」シャーロットは少女の逃げ道を塞いでいた腕を退けて、そのまま黒髪を撫ぜた。


「……う、うるさい! さっきはいきなりなんてことを……」


 ようやく元気を取り戻しだした少女が真っ赤な顔をして睨みつけてくるのを見て、シャーロットは苦笑した。「戻ろう。海風が強くなってきた」


 戸惑う少女の手を引いてシャーロットは石垣を降り、道を引き返した。屋敷へ向かう黙りがちな道中でシャーロットはようやく自分の気持ちの正体に気が付く。それはいたいけな少女に対する保護欲でもない、ただの罪悪感だった。


 上辺だけのキスをして純粋な少女を汚してしまった、その後味の悪さ。


 ――キスなんて、大嫌いなのに。でも、これも計画を守るために必要なことさ。


 久しぶりに心を乱されたシャーロットは、遠くの赤屋根屋敷を見て自分がどんな人間であるかはっきりと思い出させられた。


『結局お前は僕から逃げられないんだよ』


 海中で鮫の餌となって消えたはずの赤ガラス船長の甲高い声がすぐ耳元で聞こえる。


 ――四年前の過ちも、今思えば船長の呪いだったのかもしれない。

 そう四年前、私はまだ浅はかだった、軽率だった。あそこでまた、殺してしまったんだから。


 それは無人島生活を捨て、命からがら島へやって来て、しばらく経った頃。シャーロットはイヴァを連れて島のある屋敷に押しかけたのだ。



『ここの土地と、屋敷を売ってよ』


 島の海岸に住み着いたシャーロットたちは屋根のある家を欲しがっていた。何しろ大所帯だし、ヤシで作った即席の小屋なんか南国の暴風雨の前には砂れき同然だったから。無人島では重石にしかならなかった金色の石を使ってみたかった、というのもある。ヤシ林の中にそびえる立派な屋敷の使用人は、夜半に突然訪れた水兵服の二人組を気味悪がってなかなか主人に話を通さなかった。


『何だお前らは。こんな時間に押しかけやがって』


『この時間ならあなたの主人がいるでしょう? 主人と話がしたい』


 そう言われて中年の使用人は昼間にもふたりがやって来たことをようやく思い出した。ぼろぼろの布を纏った半裸のガキどもが来て、主人の不在を理由に話も聞かずに追い払ったのだ。どうせいたずらか物乞いか、こんな奴ら通せば俺がどやされる、と。


『昼間のガキどもだな。この馬鹿野郎、……って何だそりゃ』


 それは玄関灯の煌めきを映して夜闇に異様な輝きを浮かべていて、どんな人間でも魅入らせることができた。男も例外なくその魔力に囚われ、釘付けとなった。『おい、これは……』


『まあ、持ってみなよ。すんごく重いからさ』


 シャーロットが大男のイヴァに目くばせすると、イヴァは片手に持っていた金塊ひとつを中年男に渡した。男は近ごろヤシ農園の帳簿付けにかかりっきりで机仕事ばかりだったから、その重みに耐えきれずに床に転んだ。イヴァはそれをさっと拾い上げて、大事そうに胸に抱えた。男は呻いた。


『なんてこった。本物のインゴッドじゃねえか!』それから話が早かった。



『君たち。どこでそれを』


 アメリカ人の若い館主人は寝巻きのガウンを羽織ったまま食堂のテーブルについて、上擦りそうな自分の声をなんとか抑えていた。テーブルのまんなかには置かれた金石から目を離して、反対側に座る不気味な二人組と相対する。『金メッキ、ではないようだが』


『あなたたちもしつこいね。で、売ってくれるの? 売ってくれないなら他をあたるけど』


『ちょ、ちょっと待て』


 そのとき、主人は金塊を載せたまま消えたローズ号の噂を思い出した。目の前の子供ふたりは何か知っているに違いない。


 大儲けを企んでアメリカから身一つでやって来た勇気ある若き開拓者は、全ての金塊を独り占めするために持ち前の頭を働かせ、瞬時に計算を済ませた。そして一芝居打つことにした。


『魅力的な提案だが……、ここを売るのはやっぱり無理だ』


『どうして。これいっこでもっと立派な屋敷が三、四軒は建つと思うよ』


主人は首を横に振って笑ってみせる。


『なあ、そもそも君は誰だ? いくら金があっても、素性が知れないんじゃ信用しきれないだろう』


『私はシャーロット。こっちはイヴァ。海賊に襲われたパトリック・ヘンリー号の生き残りさ』


これはその難破船が打ち上げられたとき見つけたものだと少女は言う。


『それがほんとかどうかは調べればすぐにわかるぞ』


『じゃあ、調べれば?』


 薄気味悪いガキめ。主人はぴくりとも動じずに自分を見つめ続ける緑眼にぞくりとしたが、何事もないように振る舞った。金の方が肝心だ。


『すまない、疑ってるわけではないんだ。その、少しびっくりしていてね。なにしろいきなりの話だから』


 主人はコップの水をひといきに飲み干した。『そうか、君たちは家が無くて困っているんだな。だからここが欲しいのか』


『私たちは他にも大勢仲間がいる。大きな家が要るんだ。いまから全員呼んでこようか?』


 長い麦色の髪をいじりながら少女は薄く笑った。それでも主人は覚悟を決めて芝居を続けた。


『シャーロット。君は素晴らしいリーダーだ』


『そりゃ、どうも』


『たくさんの子供たちを守ってきたのだね。辛かったろう。大変だったろう。でも心配いらない。皆うちに来るといい』


『いや、土地と屋敷だけくれればいいんだけど』


『ここを君にあげたとして、使用人や食べ物もないのにどうやってここで暮らしていくつもりだい? 君はこの島のことを何にも知らないだろう? しばらく僕が君たちの面倒を見てあげるよ。帰るあてがあるなら船も手配してあげよう』


 シャーロットは目を細めた。『ありがたいけど……、それは本気で言っているの?』


『困っている子供を助けるのは大人として当然のことだ。損得の問題じゃない。でもまあ、君たちがどこでそれを見つけたのか、少しばかりは知りたいものだな』


『それは話せない』シャーロットは鋭く言い放った。


『さっきも言ったけど、"難破船から拾った"。それ以上のことを言うつもりはない』


『わかった、わかった。言わなくていい』


『で、そんな私たちを養おうとして、あなたに何の得があるのさ?』


 館主人は首をすくめて、へらりと笑った。


『その金塊、そのままじゃ扱いに困るだろう? 僕がシドニーで札束に替えてきてやろう。そのかわりと言っちゃなんだが……、そこからほんのちょびっとだな、僕にくれ』


『なるほど。あなたが万一そのまま金を持ち逃げしても、ここを買ったことと同じというわけか』


『心外だな、僕はそんなことはしないぞ。金持ちだからな』


 内心、シャーロットは思いがけない館主人の提案に呆気にとられていた。それでも彼女はすぐに極めて戦略的な思考を巡らせ始めた。


 ――この男をうまく使えば、私たちが島の中で目立たずに計画を進められる。今はまだ私たちに力はない。こういう隠れ蓑はあるに越したことはない。


 この判断に「軽率」な主観が混じっていたことが、後々シャーロットにとって汚点となる。彼女は優しげに笑うその男を、ほんの少しだけでも信じたくなっていた気持ちを否定できなかった。でもそれは、55人の命を預かる身として許しがたい愚考だった、甘かった、そうシャーロットは自己嫌悪することになる。


『わかった、当分あなたの世話になるよ。夜が明けたらみんなを連れてきていいかな』


『ああ。歓迎しよう』


 それからの日々、それは一見平穏そのものに過ぎていった。


 この男がまあまあ我慢強かったからだ。彼は初めのうちは約束どおりシャーロットにローズ号のありかを尋ねることはしなかった。それは彼なりの計算によるものであり、要は信頼関係構築のための投資だった。屋敷に招いた少年たちに食事と子供部屋を与え、農場での仕事を与え、正当な賃金を出した。シャーロットには彼らの世話と使用人の手伝いをさせ、彼の持つ書物を与えた。シャーロットも、無償で自分たちの面倒を引き受けてくれるなら、と角を丸めておとなしく働いた。


 でも雲行きはやっぱり怪しくなる。だんだん館主人はシャーロットにローズ号についてさり気なく尋ねるようになった。


『それは聞かない約束だったはずだ』


『僕は少し言ってみただけじゃないか。そんな目で見るんじゃない』


 けれどその興味は次第に隠されもしなくなり、とうとうある晩、シャーロットは館主人に呼び止められた。


『今夜、僕の部屋に来なさい』


 男は振り返ったシャーロットから目をそらし、暗い顔をして言った。


『話があるんだ。前に少し話した君たちの進学推薦状について……な。みんなが寝たら来なさい』


『わかりました』


 シャーロットは男の意図を察したけれど、別段驚きもしなかった。この主人は子供たちの前では善良な教養ある大人として振る舞ったし、シャーロットがこれまで見てきたたくさんの大人たちのなかでは紳士とすら呼べる人物だった。だから、自分が少し我慢して今の平和な日々が続くのならば、彼女はそれで良いと思った。いっぽうで良くないと思う者もいた。


『今晩は何があっても、私が良いというまでこの部屋から出ちゃだめだからね』


『いや、行ってはダメです。絶対に駄目だ』


 イヴァは唸った。屋敷二階のいちばん奥がシャーロットとイヴァの部屋だった。他の部屋はひと部屋あたり7、8人の少年たちが使っていたけれど、その部屋は狭くてふたり使いが限界だった。したがって、部屋を出るには警戒心の強い大男のイヴァを説得する必要があった。『どいて』


『こんな館、さっさと出て行きましょうよ。俺たちは金塊を持っているんだ。あんな男に従わなくったって……』


『あの男はまだ使い道があるんだ。だから、こういうのは必要なことなのさ』


『行かせるもんか』


『イヴァ、二度は言わない。そこをどきなさい』


 シャーロットの静かな圧に、イヴァはずっと掴んでいた少女の手首をしぶしぶ離して扉の前から退き、歯を食いしばった。


『心配してくれるのは嬉しいけど、詮索無用だよ。こっそり着いてきても、聞き耳を立ててもわかるからな』


『あなたは、いつもそうやって……』


 イヴァは憎しみさえ込めてシャーロットを睨んだ。『なぜひとりで被ろうとする? 俺はそんなに役立たずか! そんなに頼りない男だってのか!』


 シャーロットは首をゆっくり横に振った。『違うよ。そういうことじゃない』


『だったら! 』


『ねえイヴァ。お願いだから、今夜はおとなしく寝てて』


 険しく引き締まった頰をはにかむ少女にきゅっとつままれて、イヴァはもう何も言えなくなる。


『そんなカオすんな。私は大丈夫だよ』


 シャーロットは階段を降りて館主人の寝室に入った。すると、ベッドに腰掛けていた男は舐めるような目で彼女を見やった。


『子供たちの進学推薦状のこと、それと僕の養子にするという話だけど、これは流石にただという訳にはいかない』


『お金が必要なら、払うよ。なにせ金塊があるんだから』


 すると男は喚いた。『馬鹿にするな! 』


『……金のためにやっている訳じゃない。僕にだって良心というものがあるんだ』


 だいぶ酒が入っているらしく、見るとベッドの脇の机の上にはグラスと空のボトルが乗っている。


『かわいそうな君らのために、僕が骨を折ってやっているんだぞ』


 男はシャーロットを隣に座らせ、馴れ馴れしく彼女の肩を抱いた。


『なあ、そろそろ教えてくれたっていいだろう? ここまで君らの面倒を見ているんだからさ』


 けれどシャーロットはにべもない。『しつっこいな』


『君らに何一つ不自由はさせていないし、必要なものは与えてやった。シドニーで君らの金を崩すのにどれだけ苦労したか。それでも僕は1ペニーたりとも誤魔化しちゃいないんだ』


『おっしゃってることはわかります。感謝だってしている。でもね、これは言えないの』


『それ聞き飽きたなあ! 船はどこだ? どこかの島にあるのか?』


『探したければ勝手に探せばいい。無駄だと思うけど』


 シャーロットは面倒そうに呟いた。『お金は居候代として毎月あなたにたくさん渡してるじゃん。はじめは手数料だけで良いと自分で言っていたくせに。欲張りだね』


『なんだと?』


『話してみてわかった。もう潮時だよ。私たち、明日ここを出て行くから』


『おい待て。僕の話を聞くんだよ』


『いや、自分たちのことは自分たちで何とかする』シャーロットは顔を上げ、自分に言い聞かせるように呟いた。『誰かに頼ろうだなんてさ、やっぱり間違っていたんだ』


『くそっ、澄ましやがって』


 我慢強かった主人も、とうとう堪忍袋の緒が切れた。彼はベッドに華奢なシャーロットを組み敷いて、唇を押し当てた。シャツを破いて胸のふくらみに爪を立てて掴み上げ、伸びた長い髪をむちゃくちゃに引っ張った。


『この館の主であるこの僕を、駒使いみたいに扱いやがって。コケにしやがって』


 こいつを泣き喚かせたい、男はその一心で少女の身体を嬲り続けた。けれど例の瞳が、その大きくて澄んだ緑の瞳が凪いでいるのだ。それは嵐に耐える草木とも、点火を待つ爆破材とも違う、諦観したような、それでいて何も考えていないような。男はだんだん無様になってきて、折檻をやめた。そして、ベッドの脇の机の上から小振りのペーパーナイフを素早く拾い上げると、シャーロットの細い首に突き立てようと腕を振った。


 つい、かっとなってしまったのだ。自分が合理的でないことはナイフに触れた瞬間から気づいていた。


 はじめはただ金が欲しかっただけだったのに、人助けという善行に酔っておかしなことをしているという自覚があった。これなら奴の言う通り、屋敷を売ってしまえば、少なくとも国に残してきた莫大な借金は返せるだろうし、ニューヨークで一等の屋敷を建て直すことも出来ただろう。でも、この欲しがりな男は少女の心まで求めてしまったのだ。


 欲をかきすぎた。それが赤屋根屋敷の若主人がこの世で思考した最後となった。


『もう、こんなことはしたくなかったんだけどな』


 シャーロットは血しぶきのかかった頰を手で拭った。はだけたシャツの前を留め、洗面所でえづいた。


『これだから……、大人の男は嫌いなんだ』


 でも鏡に映る少女は『まあいいか』と満足気に微笑んだ。


『屋敷がただで手に入ったわけだし、あいつのおかげで現金もだいぶ集められた。これで計画がまた一歩進む』


 すべては理想郷建設のために。すべては仲間たちのために。


『私はその駒であっていい。だから私に感情はいらない。でも……、私はまた殺した。やっぱりここでも変われなかったんだなぁ』


シャーロットは笑みを消して鏡から目を背けた。自分がひどく汚らしいものに思えてならなかったのだ。


部屋に戻るなり仁王立ちしていたイヴァに詰め寄られた彼女は、その時彼らが置かれていた非常にまずい状況について淡々と説明した。


『あの野郎……』


『怒るのは後にして。夜が明けたらそれどころじゃなくなるから。このままじゃ私は島から追放される。イヴァたちも追い出される。そうなれば全て終わってしまう。言うことを聞いて』


 シャーロットは血に塗れたまま、冷静に喋った。『丘の上の小さな教会を覚えているよね。テリーザという修道女がいる。彼女は医学の心得があるという。人が死んだ、と伝えてここに連れてきて』


『人に知れて良いのですか? 俺が死体をばらばらにして埋めてきましょうか? キッチンと納屋から道具を持ってきて明け方までに片付ける』


『やめて、もうそんなことは二度と口にしないで。あんたたちをもう汚させるもんか』シャーロットは自分の手を睨みつけて言った。


『策があるんだ。大丈夫、だから早く行ってくれ』


 数刻して白衣を身に纏った険しい顔の女が屋敷の玄関を叩いた。


『ご遺体はどこでしょうか?』


 イヴァに連れられてテリーザが死の匂いのする部屋に入ると、そこにはすすり泣く髪の長い少女と、呆然と立ち尽くす使用人の男がいた。彼らの足元には血だまりのなか、事切れた半裸の若主人の死体が転がっている。『なんてことを』


『私、襲われたんです。だから怖くて、とっさに……』


『この下衆野郎が悪いんだ! こいつが先に仕掛けてきたんだからな』ついでにイヴァは部屋を覗きにやってきた少年のひとりに怒鳴った。『お前らは部屋で寝てろと言ったろうが』


 テリーザは死体の側にやって来て、床に落ちたナイフや深い傷口を見やって首を横に振った。そして臨終の祈りを捧げ、ぽつりと呟いた。『ほぼ即死でしょう。苦しみは少なかったと思います』


 それまで黙っていた使用人の男がシャーロットに指差して吐き捨てるように言った。


『……気前の良いご主人さまを殺しやがって、お前らただで済むと思うな。警察なんかなくったって、賢人会議に報告すりゃあお前らみんな追放だ』


『みんな黙りなさい。ご遺体の前ですよ』


 テリーザの一喝で場はしんと静まり返った。『それで、私は何をすればいいのですか? この期に及んで私にできることはありません。ましてや人が人を殺めるような惨事をいち修道女が裁くことなど罷りなりません』


『修道女様、私はあなたに検死の調書を書いて頂きたいのです。それをアピアに提出しましょう』


 シャーロットは涙を拭ってまっすぐにテリーザを見据える。そして彼女の前で片膝をつき、頭を垂れた。『お願いします。あなたの協力が必要なのです』







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