7:商会領
朝は苦手だ。
食肉市場のいちばん鶏が鳴いたら、気だるい一日が始まる。
体が勝手にベッドを離れ、顔に水に付けて猫は無理やり自分を叩き起こす。居間のテーブルに置かれた銅貨を取ってそおっと玄関を出たら、まだ薄暗い路地を抜け、近くの広場で朝刊と揚げたてのフィッシュアンドチップスを買って帰る。急いでクッキングストーブに薪をくべ火をおこし、湯を沸かし、同時にフライパンで目玉焼きをたくさん作る。起きてきたロイド中佐に新聞紙を手渡して、テーブルに熱いココアと多めの朝食を用意するのだ。
たまに、すっかり寝過ごすことがある。
そんなとき中佐は起こしてなどくれず、彼はひとりで近所の軽食屋に行ってしまう。玄関でうなだれる猫に中佐は冷ややかな目を向けて、シンプルな罰を言い渡す。
「明日の朝までなにもしてはいけない」
ベッドのほかに何もない部屋に閉じこもって、ずうっと壁を睨む。やがて裏通りの道路工事が始まり、土工たちが声を張り上げる。そのときの気分の悪いことといったらない。猫にとっては一日中外を眺める「観察」の方がまだぜんぜんましだった。郊外まで駆けていくこともできないし、何も見れないし、逆立ちもだめ。胃はだんだん空腹を叫びはじめ、心はたちまち真っ黒に染まる。
「ごめんなさい……」
中佐に失望された。それが何よりつらい。だから、必死で起きる。深夜の貴重な自由時間を泣く泣く削ってでも睡眠をとる。とれなくても、起きる。中佐をがっかりさせてはならないから。褒められるように頑張らなければいけないから。そんな緊張の日常は朝をもって始まる。だから猫は、朝が苦手だ。
その朝も猫は目覚めた。もうろうとした頭が微かに聞こえる人の声で一気に覚醒する。窓の外が明るい。猫は声にならない声で呻く。跳ね起きた彼女は血相を変えて部屋を飛び出た。
けれどそこに見慣れた貸し部屋の台所はない。ただの廊下だ。
「あっ、そうか」
猫はおかしくなって、口元を押さえた。
「またやっちゃった。わたしって馬鹿ね。もう怒られないのにさ」
「それにしたって寝過ぎじゃない?」
いきなりそばで声がして、猫はぎょっと振り返った。
「ヤシュ! いたのね」
ぜんぜん気がつかなかった。ヤシュパルは紺帽子と制服の白シャツを着けて、もう仕事モードに入っている。胸ポケットから懐中時計を取り出して、ほほえんだ。
「もう9時だよ。お寝坊さん、顔洗ってきな」
1階に降りて、猫は案内された洗面所でぱしゃぱしゃ目を覚まさせるうちに、昨夜のできごとを思い出していた。それはなんだかとても温かい気持ちになるのだった。
「ねえ、ヤシュパル」
食堂の長テーブルに自分ひとりで貴人のような朝食の給仕を受けるうち、その居心地の悪さに耐えかねて、猫は喋りかけた。
「なんだか、こんなにしてもらって悪いわ。ごめんなさい」
「謝ることないよ。シスター・マリー、君はお客様なんだから」
焼き魚の骨をナイフで器用に取り除くヤシュパルは、兄が妹に向けるような穏やかな目で猫を見た。
「きょうはゆっくりしてもらうようにと、団長もそう仰っていたしね」
猫はふかした芋のような食べ物を飲み込んで、ひと息ついた。
「ヤシュ。昨日はありがとう」
「ん。大したことはしてないよ」
「あのさ、わたしあなたの友だちになりたい、なんてね」
「奇遇だねえ」
ヤシュパルはちょっと照れくさそうに、でも少し気取って言った。
「ぼくもそう思ってたんだ」
友だちなんて、何年ぶりだろう。街の貧民学校を出てからは遊び歩くことを禁じられて、久しく年の近い相手と喋っていなかった。わくわくする。でも一方では猫は自分に驚いている。この島に来た目的を、あっさり忘れてしまいそうになっていた自分を。いままで思考の対象として心の中に君臨していたロイド中佐は、猫への影響力をわずかに弱め始めているらしい。
「でも、あんまりぼくと一緒にいると団長が拗ねる。食べ終わったら、団長のところへ行ってあげてね。君と話したがっていたから」
“賢人会議”に出席していたシャーロットは夜遅くに帰ってきて、もう朝の仕事に出たという。猫はいつのまにか洗濯されていたグレーチェックのワンピースに着替え、ヤシュパルに連れられて屋敷を出た。
「それで、シャーロットはどこにいるの?」
「たぶんこの時間は市場にいるとおもう。魚の買い付けに行っているはずだよ」
そういってヤシュパルは小道を抜けていく。昨日通ってきた門に続く正面通りから外れた、人や荷車で賑わう路地だ。石畳の道は住人の生活道具に侵食されて、行けば行くほど狭くなる。
「あの、ヤシュパル。市場に行くんじゃないの? 門はこっちじゃないわよ」
「門からは出ないよ。アピアまで行かなくても、ここに市があるんだ」
猫は一瞬理解が遅れてぽかんとした。「この敷地のなかにあるの?」
「うん。ここの居住区と防風林を抜けるとすぐ海なんだ。市場もあるし、貨物船がつけられる桟橋もある。浜辺には石垣があって外から入ってこれないようになっているから、ぜんぶぼくら市民のものさ」
「市民って、この柵の中で暮らす人たちのこと?」
「そうだよ。ここはもともとは商会事務所の……、あの君が泊まったところ、あの屋敷の庭なんだけど、いろいろあってみんなでここに住むことにしたんだよ。今じゃそこらの集落よりもずっと大きな村になってるけどね」
「ここにはどのくらい人が住んでるの?」
ヤシュパルは少し考えてから、「たぶん千人はいるんじゃないかな」と言った。
「ぼくたち商会員だけじゃなく、戦争から逃げてきたサモア人たちもここに集まっているから」
「そんなにたくさん」
「すごいだろ。でもそろそろ家を建てる土地が無くなってくるころかもしれないね」
歩きながら、猫はきょろきょろ辺りを見回した。通りを挟むのは、煉瓦で出来た歪な形の平屋に、今にも崩れそうな二階建ての木造の長屋、その少し傾いたベランダから頭に花飾りを挿したサモア人の幼な子が物珍しそうに見下ろしていた。
この諸島では数年前から戦いが続いているのだとヤシュパルは言う。
「敷地を囲う高い柵も物見櫓も、それからぼくらの銃も、ぜんぶ戦争から身を守るためのものだよ」
「誰が戦争をしているの? サモア人同士で争っているの?」
ぼくも詳しいことは知らないんだけど、とヤシュパルは前置きをして言った。
「マリエトア家の称号を引き継ぐ者を巡って、氏族のなかで殺しあっているらしいんだ。ひとつ確かなのは、ラウペパが、つまり副団長の腹違いの兄さんがそれに負けたってこと。彼の配下の村が潰されて、散り散りになった人たちが、ここを見つけて逃げ込んでくるんだ」
マリエトア家はナビゲーター・アイランズで最も力があり、いちばん大きな一族なのだという。確か中佐からもらっていた事前資料にも記されていた。
その昔、隣の諸島トンガの支配者たちをこの地から追い出した英雄の家系。その名声はいまも衰えることはなく、当然後継者争いも過熱する。
「争いは三年くらい前から始まって、ひどい時はアピアまで戦場になった。イギリス領事館の歩哨が首を落とされたこともあるんだ」
「この島って、思ったより物騒なのね」
「安心して。ここは絶対に安全だよ」ヤシュパルは自信ありげだった。
「誰もここを攻めようなんて思わないよ。なにせぼくらは、大英帝国海軍すら欺く海賊らしいから」
「親切な海賊もあったものね」
猫は笑ったけれど、それが冗談でないことを知っていた。ロイド中佐はシャーロットたちが赤ガラス海賊の残党だという。海賊団を煙に巻き、金塊の山を奪って逃げ出したのだと。
――中佐の言うことは正しいに決まってる。でもいまいち実感が湧かないよ。
残虐非道の赤ガラス。ロイド中佐の推論が正しければシャーロットは8年もそこに身を置いたことになる。シャーロットを慕うヤシュパルも海賊船に乗っていたのだろうか。シャーロットも、ヤシュパルも、とてもそんなふうには見えないや。
でもわたしがそれを見極めるのだと猫は密かに決心をする。
「まあ、安全なのは本当だって。ぼくたち警防班が昼夜ここを警戒しているし、いざとなれば市民全員に持たせられるくらいの鉄砲と弾も蓄えている。だからもし部族の戦士が束になって攻めてきたって陥ちないよ」
「それは頼もしいけど……」
同時に恐ろしくもある。猫は自分に銃口が向けられないことを心から願った。
話しているうちにふたりは窮屈な路地を抜けて原っぱに出た。道なりに進んで、何かの畑や円形の広場のそばを通り過ぎる。すると線路が道の脇からカーブを描いて線路が現れた。その二本の線は道の真ん中をなぞって、正面に見えてきた大きな平屋に続いていた。
「この線路はなに? まさか列車が走るわけじゃないよね?」猫はもう何を見ても驚かない心の準備をしていた。
「いや。これは馬に引かせる運搬用のトロッコのレールだよ。ずっと遠くの森にあるライム農園から、ここの桟橋まで敷いてあるんだ」
そういえば。昨日シャーロットとここに来るときもヤシ林のなかに敷かれた鉄路を見たと猫は思い出した。確かにそれは柵の中まで続いているみたいだった。
「なるほどね。馬もいると」あとでレポートに書いておこう。
「そりゃいるよ。まあ馬を扱えるやつはまだそんなにいないけど……ぼくも乗れないし」
「わたし、実は乗れるのよ」猫は得意げな顔をしてほほえんだ。けれどヤシュパルは大真面目に「それはすごい。でも時代は馬よりも機械さ」と言って猫を閉口させた。
「ぼくは蒸気機関車ってやつを走らせてみたいんだ。小さいものでいいから」
「機関車のことを知っているの?」
「本を読んだり旅人に聞いたりして勉強したから、それがどういうものかとか動作の理論は分かっているよ。馬力だと一度に動かせる貨車の数が限られて効率が悪いし、絶対に機関車があると良いと思うんだ」
「ヤシュ……あなたって都会にいたわたしよりもよっぽど物知りね」
「あはは。そんなことないよ、ぼく本物は見たことないもの。でもさ、団長が今度シドニーで中古の鉱山用機関車を探してみるって言ってくれたんだ」
早く見てみたいなぁ、とにこにこして喋るヤシュパルに猫は目を白黒させる。
「それを買うお金は? その財力はどこからくるのよ」
――赤ガラスから奪った、金塊の山かな。
「それは団長に直接聞いてみるといいかもね」
着いたよといってヤシュパルは立ち止まった。濃い潮の香りのなか、そこは人でごった返している。白人も褐色肌のサモア人も、男も女もみんな混ぜこぜになり盛況を呈している。
「人がいっぱい」
「今日は市の日だからね。日が沈むまでは柵を開放して、外から人を呼び込むんだ」
「はぐれるといけないから」と彼は猫の手を取り、人ごみをかき分けて壁のない平屋に入っていった。
平屋は綺麗な四角形で中央に太い道が走っていた。入ってすぐのところは青果市になっているらしくそれぞれの店の前には商品が盛られたバスケットが並んでいた。若い褐色肌の女性が果物を売っていて、その隣では草色の大きな実を持ったおばさんが島の言葉で客とやりあっている。
「ねえ、あれはなんていう実なの? あの緑の表面がつぶつぶしている、あれ」
「ああ、パンの実だよ。焼くとパンそっくりの味になるんだ。朝食で出したんだけど、わかったかな」
「そういえばそういうものを食べたような……」
どちらかといえばパンよりもジャガイモみたいな感じだったわねとのんびり店を眺めていると、「そんなのはいいから早く団長を見つけよう」とヤシュパルに手を引っ張られる。
石畳に敷かれた線路に沿って市場のなかを進んでいくと、床に無数の魚が並べられた広いところに出た。目の前が砂浜になっていて、漁師たちのカヌーが陸揚げされている。海のすぐそばだ。
「団長!」
ヤシュパルが手を振ると、魚の間を歩き回っていた人の中から長い髪のすらりと背の高い少女が出てきた。彼女は黒い布の胸当てとベージュの布の腰巻きを着けた島民風の格好をしていた。
「ヤシュパル、彼女を連れて来てくれてありがとう。それにマリー、おはよう」
にっこりほほえむシャーロットに猫は思わずどきりとする。今日は紺の帽子は被っておらず、赤みがかった黄色の柔らかそうな毛が、剥き出しの白い肩にかかっていた。
「お、おはよう。ええと昨日は泊めてくれてありがとう。今日は髪を下ろしているのね」
「うん。今日はアピアまで行く用事がないから堅い格好はしなくていいんだ。こっちのほうが楽なのさ」
「団長は柵の内側ではだいたいこんな格好だよ」とヤシュパル。
「なに? もうふたりは仲良しになったのか」
シャーロットはにやりとして言う。
「でも彼女は僕のものだよ。ヤシュパルには渡さないぜ」
「はいはい。それはどうぞご自由になさってください」
猫はあっという間に茹でダコになった。
「勝手に自由にしないでよ!」
「それで、今日の魚はどんな具合ですか? 団長」
シャーロットは手招きして、ふたりを大きな魚の入った編みかごの前まで案内した。編みかごは足元にたくさん並んでいる。
「久しぶりにマグロが大漁だったから、5匹も買っちゃった。当分うちはマグロ料理だな」
「糧食班の腕がなりますね。ぼくは赤身のステーキにしてほしいな」
「ねえ、これってあの屋敷の食料になるの?」
猫は目を丸くする。「多すぎじゃないかしら?」
「これでも少ないくらいさ」とシャーロットは笑った。
「これは屋敷だけじゃなくて、うちの商会員全員の給食になるんだ。みんなよく食べるからさ。数日でなくなっちゃうかもな」
「団長もがっつり食べますよね」
「……まあな、食事がおいしいからな。だから、その食材は支配人であるこの僕が、ちゃんと見極めて調達するのさ」
さて、とシャーロットは手を叩いた。「屋敷まで持って帰ろう」
「ヤシュパル、僕の財布は持ってきた?」
「もちろんです」
ヤシュパルは腰にぶら下げた弾薬ポーチを開けて、分厚い革財布を取り出した。シャーロットはそれを受け取ると、中から紙切れの束を抜き取り枚数を数え始める。それは列車の切符のような小さな白いチケットだ。ヤシュパルは猫の視線に気づいて説明をしてくれた。
「これは柵の内で使われてるお金だよ。タブレットというんだ」
「……すごい、そんなものまで作ってるのね」
シャーロットたちの“商会領”では物々交換や帝国通貨の使用は禁止されているのだと彼は言う。代わりに商会が発行する、この金券を使わなければならないらしい。
「1タブレット券は1ペニー、10タブレット券は10ペンス。どう? 簡単だろう」
シャーロットはにんまり笑って一枚を猫の手に握らせた。
「お小遣いだよ。シドニーには負けるけど、ここにはアピアじゃ手に入らない舶来品の店だってある。それでいろいろ面白いものが買ってくるといい」
猫はその小さな10タブレット券をぽかんと見つめていた。
「これが帝国通貨と交換できるってこと?」
「そうさ。タブレットは僕の持つ金のインゴッドに裏付けされた、正当な貨幣だ。希望すれば月に一度の換金日に帝国通貨に替えることもできる」
ただし、1回あたりの交換金額には上限があり、かつ交換ができるのはここの住人に限られるという。
「こうしておかないと外部の人間に際限なく換金されて、うちの金庫がすっからかんになってしまうからな」
「……でも、どうしてわざわざお金を作ったりしているの? なんだかすごく面倒くさそうだけど」考えただけで、頭が痛くなりそうだ。
もちろんちゃんと理由がある、とシャーロットは言う。
「この島にはもともとコインや紙幣を使う文化がない。代わりにサモア人たちは大きくて立派な花ござを交換物として使うんだ。でもタブレットがあればそんな重たい不便なものを取り回す必要はなくなるし、モノの売り買いも簡単になって、結果として商売が活発になる」
すると生活が豊かになっていく、らしい。
「ここでは、なんだってタブレットでしか買えないけど、逆に言えばタブレットを持てば色々なモノが買えるんだ。誰でも自由に、そして簡単に欲しいモノが買える。これがお金の素晴らしいところさ」
「でも自分でお金を作る理由にはならないわよね。ここに住むサモア人やあなたの部下たちに帝国通貨を使わせた方が簡単じゃない?」
珍しく頭が冴えた猫に、シャーロットは一瞬目を細めて、くすりと笑った。
「それだと儲からない。これは慈善事業じゃないからね。ヤシュパル、説明して差し上げなさい」
漁師にタブレット券を支払いに行っていたヤシュパルが戻ってきて、猫の質問に答えた。
「帝国通貨を用意するより、自前の通貨を作ったほうがおいしいんだよ。だって、柵の中では全ての支払いがタブレット券で済むんだから。商会員への給与も、食料の調達もぜんぶタブレットだ。交換されない限り、商会の金庫の中身は減らない」
タブレット券で出費しても、金庫の中のインゴッドが削られるわけじゃない。だから、商会は浮いた資金を他に回すことができる、というわけらしい。
「それでみんなは怒らないの? ちゃんとしたお金で支払えって。まあヤシュたちはいいかもしれないけど、ここの他の住人は納得しているのかしら」
「それがここに住むルールだから」ヤシュパルは微かに語気を強めた。
「ここはたぶん、島の中でいちばん安全な場所だと思う。ぼくらが昼夜守りを固めているから。そこに住みたいなら、ルールには従ってもらわなきゃ」
「ま、タブレットを使うことに不自由も損もないけどな」とシャーロット。「ここの市場はなんでも揃うし、物価も安定しているし、それに……口うるさい宣教師の連中もいないし。アピアよりよっぽど暮らしやすいはずさ」
市場では商会も出店して食品を決められた価格で売っているため、価格が不正に釣り上がる心配がないという。さっきのシャーロットは厳密にはマグロを買ったわけではなく、自分が雇った漁師に給料を渡していた、ということらしい。
「最近じゃあ、ここに買い物のためだけにやってくる人たちもいる。このあいだ試しに僕がアピアでタブレット券を“販売”してみたら、あっという間になくなったよ」
彼女の目標は、サモア全土に貨幣経済を導入すること。そしてその貨幣はタブレットでなければならない。
「じつはまだ流通しているタブレットはぜんぜん少額だ。増発する余裕はある。もし島から帝国通貨やドイツマルクを駆逐できれば、この地で買い物をしたい人はみなタブレットに両替するしかなくなる。そうなれば外貨を稼げるようになる」
「……よくわからないわ」
「いいよ、未来の話だから。今はまだ僕に島全体の通貨を統制する権限なんかないからね。出来ることといえば地道に近くの村の首長たちにばらまいて、うちの市場で売り買いをしてもらうように仕向けるくらいだし」
しかめっ面で聴いていた猫はシャーロットの解説がほとんど理解できなかったけれど、それでもやはり引っかかるところがあった。「ねえシャーロット」
それはいちばん肝心なところであり、猫の任務に関わること。猫は本命の質問をする前につばをごくりと呑んだ。
「なんだい?」
「金塊のことよ。あなた、そんなものどこで手に入れたのよ」
猫はずいっと目の前の少女に詰め寄った。「ねえ、あなたはいったい何者なの?」
ただの好奇心、に見せかけたある意味当然の疑問だった。さあこの人はなんて答えるのかしら。猫は精一杯の笑みを浮かべてさりげなさを演出しながら核心に迫る。けれどその内心はばくばくしている。危険な会話だ。
けれどシャーロットはあっさりと答えた。顔色ひとつ変えずに、にこやかに、そして軽やかに。
「盗ってきたんだ。海賊からね」
「あれ、団長。それは言っていいんですか?」
「こんなのいまさら隠さないよ。僕が公にしていないだけで、アピアの人々もシドニーの提督たちもみんなそう思っているさ」
浜の風がシャーロットの長い髪をもてあそぶ。それはだいぶ熱くなってきたけれど、市場の屋根の下はまだ涼しかった。
「マリー、僕らはむかし海賊船に乗っていたんだ。赤ガラス……、きみも聞いたことがあるだろう。金塊輸送船を屠った悪名高いやつらさ。そいつらに虐げられていたんだ」
猫は絶句していた。まさか、そのまま言うなんて。
「本当のことだよ。信じられないかもしれないけどね」
「……海賊たちを倒して、金塊を奪ったということ?」
「そうだ。正当な暴力を振るったんだ。びっくりしたかい?」
「ええ、かなり。でも信じるわ」
ここを見たら、嫌でも信じざるを得ない。やっぱりロイド中佐の言う通りだ。金塊はシャーロットの手にあるんだ。どこまでも続く木柵、立派な商館、そして独自の貨幣が使われる市場、そうとしか説明がつかないことだらけだ。
「もう四年になるな。僕らがこの島にやってきてから」
シャーロットはヤシュパルと確かめ合うように目配せをした。
「船を奪って太平洋を彷徨ううちに、僕らはある無人島に着いて、そこで暮らすことを決めた。追手を撒くために海賊船は船底に穴を開けて沈めた。でもそこで生きていくのは本当に大変だった。いくら金があっても無人島ではまったく無価値だからね」
無人島、という言葉に猫はぴくりと耳を立てる。
いったいぜんたいそれはどこにあるのか。喉元までその問いが出かかった。ナビゲーターアイランズの他に海賊島は存在し得ないと中佐は言うのだけど……。
――とにかく、これは新情報ね。中佐もこの話は知らないはずだし。
「逃げ切ることは考えなかったの? ほとぼりが冷めたところで遠くのどこか、たとえばアメリカへ向かえばもっと金塊を捌きやすかったんじゃないかしら」猫は例の謎の行動の真相、給炭をせずに南太平洋に留まったわけを知りたかった。
「僕もそれは考えたけど……太平洋を渡りきれる自信も航海術も持たない僕らにはそれができなかった。でも今思えばそれで良かったんだ。もしもそんなことが出来ていたら、アメリカ人に海賊船の情報が伝わっていて、向こうで簡単に捕まっていたかもしれない。僕らは大所帯だから、動けばどうしても目立つんだ。かといってクイーンズランドやシドニーには帝国海軍が待ち構えている。だから、しばらく身を隠せそうな島の多いこの海域に逃げ込んだのは間違っていなかったと思う」
シャーロットは遠くを見つめていた。視線の先は、何もない真っ青な広い海。
「でも僕らは未来のためにその無人島を出ることにした。すると新しい船が必要になった。だから海賊船に付いていたボートを真似して筏を作ったんだ。けどさ、航海ってのはそう簡単じゃないんだ。潮に流されてあっというまに位置が分からなくなった」
「それから、どうなったの?」
「ある日遠くの海原に帆が見えた。それはサモア人の外洋カヌーだったんだ。彼らに見つけられたのは幸運だった。親切にも彼らは僕らを先導してこの島まで連れてきてくれた」
サモアの別名航海士の諸島とは、むかしこの地を訪れた西洋人が人々のたくみな航海術を称えて名付けられたものだという。
「このウポル島こそ、僕らにとって最高の逃避地。拠点たりうる聖域だったのさ」
シャーロットはにやりとした。
「この島の入植者たちのごたごたが上手く僕らを守ってくれているんだ。島を植民地化したい新興のプロシアン、彼らに出しゃばって欲しくない帝国政府、中立派のアメリカ領事、ローマ・カトリックのフランス人にイギリス国教会の宣教師たち……。いろんな国の人間がいて、みんな違う方を向いているから、僕らはそうそう手を出されることはない」
「ここでなら、自由に生きていけるって訳ね。あなたを捕まえる人がいないから」
なんて、したたかな。
でも僕は限りなく黒に近いグレーなのさ、とシャーロットはうそぶいた。
「そもそも僕らと赤ガラスを結びつける証は何もない。僕らはどこかの無人島で難破した移民船の生き残りで、島に偶然流れ着いた海賊船から金塊を拾ったのかもしれない。だから、今きみに喋ったことはすべて空想なのさ」
きみだけに教えた秘密だよ、そう言ってシャーロットは猫の肩に手を乗せて頰を少し赤らめ、黒髪の少女を見つめた。
「あの、団長。ぼくはもう帰ります。そろそろ交代の時間だから」
ヤシュパルは気まずそうに目を逸らして青果市の人ごみを見つめていた。シャーロットはヤシュパルに近づいて彼の頰を撫ぜた。
「いつもより元気がないな。昨日ちゃんと寝たのか? 朝はしっかり食べてきたか?」
「ぼくは大丈夫ですよ。子供扱いしないで、って痛ひゃい!」
シャーロットはヤシュパルの柔らかそうなほっぺたをつまんで、にっこり笑った。
「姉ちゃんの言うことは聞くもんだぜ。僕はなんでもわかるんだからな」
「わかったって、昼はちゃんと食べるから。団長こそ、寝てないでしょ」
「ぼくは平気さ。愛しいマリーがいるのに寝てられるかってね」
「マリー、この人に気を使いすぎることはないから」
「う、うん」
ヤシュパルはぶつぶつ言いながらも姿勢を正し、シャーロットに敬礼をしてその場を後にした。去り際、ニッと猫へ笑いかけて。
「彼ってとてもいい人よ。とても落ち着いているし」
あんなに大人びた彼は、まだ14なのだ。
猫のつぶやきにシャーロットはうなずいた。
「血は繋がってないけどさ、ヤシュパルは僕の自慢の弟だ。頭が良くって、人をよく見て、みんなを引っ張っていく力がある。頼れるかわいいやつだよ」
「彼は警防班、とか言っていたわね。彼の仕事はここを守ることなの?」
猫はさりげなく、シャーロットから距離をとりながら聞いた。「そうさ」
「商会には色々な仕事がある。ライム農場を管理するライム班、ここでモノを売る商店班、商品や荷物を運ぶ航海班に、タブレット印刷班。あとは……、郵便を管理する郵便班とか、教室を運営する学校班や会計班、他にも数人単位の細かい部署がたくさんある。警防班はそのなかで最も人が多くて、そして最も重要なセクションだ。彼にはそこの作戦参謀を任せている」
「警防班って、あの兵隊みたいに銃を背負ってた、紺色の風船帽を被った男の子たちのことよね?」
私兵団。彼らの監視は猫に与えられた任務のひとつだ。
「ご明察だよ。ほかの班とちがって、警防班は昔から僕のそばにいた弟たちだけで構成されている。ここを国に見立てるなら、彼らは軍隊。信頼がなければとても任せられない」
総兵力は40名。副支配人イヴァを隊長としたふたつの小隊からなり、交代で商会領のいたるところを警備する。それだけでなく、最近では定期的にアピアの町を集団でパトロールして、町の治安維持に貢献しているという。
「でも、アピアの人たちは怖がったりしないかしら? ほら、ライフルなんか担いでいるとさ」
「まあ、たしかに僕らにいい顔をしない奴らも多い。とくにゴーデフフロイ商会の連中には疎ましがられているしな。でもパトロールのおかげで町の秩序が保たれているのはみんな認めるところだろう。少なくとも、アピアが部族の戦士たちに踏み荒らされることはなくなった」
町で役に立つことで賢人会議での発言力を得る。それが狙いだとシャーロットは言う。パトロールについてはアピアの各勢力からいちおう認められたものらしい。少なくとも表向きは。
アピアには警察、武力が存在しなかった。そこに数十人とはいえ同じ制服を着て、新式銃を担いでうろつく武装集団が出現した。そういうふうにみなすならば、なかなか怖い存在だ。ロンドンに警告が届くくらいには。
どこの勢力にも属さない、中立であるからこそ、ぎりぎりのところで存在が許容される。
それが、シャーロットたちのやり方なんだわ。
「みんなちっちゃいくせにしっかり仕事をしているのね。年上のわたしよりずっと」
「ふん、マリーだってシドニーからひとりで島に来たんだろう? きみも大概しっかりしているよ」
「そんなの、べつに大したことじゃないわ」
目を伏せてしまった猫に、シャーロットは明るく声をかけた。
「まだ、一日は始まったばかりだよ。元気だして、見せたいところがいっぱいあるんだ」
付いてきて、と言って手を掴んでぐいぐい歩き始める。
「ちょっと、この魚はどうするの?」
「大丈夫。あとで屋敷まで荷馬車で送ってもらうからさ」
そうして猫はシャーロットに“商会領”のなかを連れ回された。ずっと手を握られたまま。珍しい東洋の剣が並んだ店や、焼いた鶏肉を売っている露店、はたまた射撃場にも連れて行かれる。
どこにいてもシャーロットはまるでロビンフッドのような人気者だった。みな笑顔で駆け寄ってきて、何か持っているものを渡していく。猫も食べ物をたくさん握らされて、嬉しいやら、でも貰い過ぎて困るやら。途方にくれる猫がシャーロットを見上げると、少女は平然としている。慣れた様子で領民に愛想を振りまき、島の言葉で返事をして、子供の頭を撫でていた。
昼下がりになってようやく領内を一周したふたりは、市場の近くの静かな桟橋に腰掛けて、やっとゆっくりすることができた。シャーロットはちょっと待ってて、と言うとしばらくして両手にアイスクリームを持って戻ってきた。
「別に毎日食べたっていいのさ」シャーロットは少しおどけていった。
「これって、昨日アピアで食べたのと同じもの?」
「そう。昨日のアイス店はここの2号店なんだ」
何も考えずに永遠に食べていたい、とシャーロットはぼやいた。カップに盛られた白い小山をスプーンも使わずに赤い舌で舐めている。はしたないはずなのに、その姿がやけに様になっていた。
「そういえばマリー、僕の話はけっこうしたけど、きみの話をほとんど聞いていないな」
「わ、わたしの話はいいよ」
「きみって、いくつだっけ。ヤシュパルよりは上なんだよね?」
猫は仕方なく答えた。「16よ」
「ふうん」
シャーロットは一瞬、目線を猫の身体に走らせた。つま先から顔までさっと眺め、真面目な顔つきで猫の目を見つめる。「なによ」
すると彼女は我にかえったように目を逸らし、口先で笑った。
「いや、年の割にはちっちゃいなと思って」
「こらっ、気にしてるのに」
「ごめんよ。つい」慌ててシャーロットは話題を変えた。
「それにしても、射撃場ではすごかったね。まさかあんなにぽんぽん的に当てるとは思わなかったよ」
「ああ、あれは別に……」喋りながら猫は背筋が凍るのを感じた。久しぶりに銃を使ったことが嬉しくて、ついつい調子に乗ってしまったのだ。
仮にも16歳のシスターなのに、ライフル銃をうまく扱えるというのは、設定上ぜったいよろしくない。
「まぐれよ。たぶん」
「僕、惚れ直したよ。マリーがシスターでなければうちの商会に引き入れていたな」
「また、そういうことを言う」
「ねえもっと話して。きみのことが知りたい」
潮風になびいてシャーロットの髪が猫の頰をかすった。顔を近づけるシャーロットに猫はどぎまぎしてしまい、いつもより口が軽くなって喋ってしまう。自分が育ったスミスフィールドの街、楽しかった貧民学校の思い出、ここに送り出してくれた人のこと、そして家族がいないということ……。さすがに肝心な部分はでっち上げを混ぜてぼかしたものの、後々猫はこの時の発言を悔やむことになる。
――情報。それは軽々に伝えてはならない。誰であっても
「きみの育て親はずいぶん思い切ったことをしたものだね。ロンドンからシドニーに移り住むなんて」
「彼はアイルランド人なの。イングランドじゃカトリック教徒は居心地が悪いのよ。だから思い切って新天地で生きることを決めて、わたしを連れて移住したわけ」
ロイド中佐がアイルランド人というのは本当だった。そして40年前のカトリック解放法いらい表向き差別が消えたとはいえ、本国ではカトリック教徒、もっと言えばアイルランド人に向けて大成功への道は示されないことも。そういった夢想家は海を渡る。これはべつに珍しいことではない。
「そこで彼は同郷のテリーザに知り合った。不出来なわたしを彼がテリーザに押し付けたってことね」
これもほとんど本当。テリーザはアイルランド系の修道会に所属する正真正銘のシスターだ。押し付けた目的に秘密めいた香りがしなければ。
「そして、きみは今ここにいる。なるほどなあ」
「わたしの話はこれでおしまい。ねえ、あなたはわたしにずっと構っていていいの? お仕事は?」
猫は立ち上がった。日差しに焼けて鼻の頭が痛かった。「わたしはそろそろ教会に戻らないと。テリーザが帰ってきているかもしれないし、あまりここで厄介になるわけにはいかないわ」
「まあ、待ちなよ。今日はたいした仕事は残ってない。きみだってそんなに急ぐことはないだろう?」
最後に見せたいものがある、といってシャーロットは猫の手を握った。
海岸を歩いていくと、ヤシュパルが言っていたとおり領境に石垣が組まれていた。高さは背の高いシャーロットが縦にふたり分くらい。縄ばしごをよじ登ると上が狭い通路になっている。防壁は波打ち際まで続いていて、その先端にはさらに上に向かって木の物見櫓がそびえていた。
「こんにちは。団長」
「警備ごくろうさま。僕はこの方と少し話があるんだ。ここをしばらく貸してくれるかい?」
「やった。どうぞごゆっくり」
喜んで休憩に向かった紺帽子の少年を見送ってから、シャーロットは猫を石壁に押し付けた。
「な、なに話って?」
「きみってひどいや。僕が勇気を出して告白したっていうのにさ。そっけなさすぎるよ」
逃げ場をなくした猫は固まって、目の前の少女になんら有効な抵抗がとれなかった。
「えっ」
夕陽に染まったくしゃくしゃの長い髪が肩にかかってくすぐったい。シャーロットは少し背をかがめて嬉しそうに微笑む。
僕が本気だってことを教えてあげる。そう言って少女は猫のくちびるを奪った。