6:ひとり旅の終わり
まばらなヤシ林を進んだ先に現れた高い木柵。その防壁に囲まれた内には多くの人々の生活が営まれる集落が広がり、中心に建つ赤屋根屋敷の二階の窓辺にて、星を眺める夜着すがたの少女がひとり。
彼女は首にかかるその黒髪を指でいじりながら、呟く。「早すぎるわよ」
「まだ夜は始まったばかりじゃない。なのにもう寝てくださいだなんて」
彼女の後ろで客用ベッドの用意をしていた紺帽子にブラウンの肌の少年が、真面目そうに返事をする。
「暗くなったら寝るものでしょう? 灯りの油がもったいないし、夜更かしは体に良くありません」
「夜更かしって、ねえ。まだ7時くらいでしょう」
あきれ顔で振り返った少女に、少年は白いシャツの胸ポケットから懐中時計を出して見せた。
「正確には午後7時45分です。シスター・マリー」
「それでもぜんぜん早いってば。ロンドンじゃあまだ列車だって動いている時間だわ」
既に屋敷周りの灯りは落とされ、月のない晩ゆえ外は真っ暗闇に包まれていた。商会の広大な敷地を取り囲む柵に沿って、規則的に配置された物見櫓のかがり火だけが漆黒に光点を浮かべている。
無音、みな寝静まっているのだ。
大人びた聡い少年は少女の発言を受けて理知的な顔に疑問の色を浮かべた。
「あれ、ロンドン? シスターはシドニーから来られたと聞きましたが」
「いいいい、いい間違えただけよっ。ほらっ、都会の話をしたかっただけだから」
少女はこほんと咳払いをした。「そんなことはいいの。それよりもさ」
「あなたのボスはさっきどこに出かけていったの? たしか会合とか言っていたけど」
「ああ、団長は町に行かれたのです。賢人会議に出席するために」
「賢人会議? なにそれ」
「アピアの有力者たちが月にいちどアメリカ領事館に集まって、町の運営について話し合いをします。今日はその日なのです」
「へえ、やっぱりすごいのね、シャーロット」
少女は素直にそう思った。こんな広い土地や屋敷を治めていたり、ロンドンに報告が届く程度には警戒されていたりするのだし、当然ではあるけど、でもなんだか実感が湧かないや。
「そう。団長はすごい人です。かっこいいし、頭もいい」
「それはまあ、確かに」
「それだけじゃなくて、とてもぼくたちに優しい。それに、それに……」
少年が薄茶の目をきらきら光らせて喋るのを最後まで聞いて、少女は呟いた。
「でも、変わっているよね」
「……まあ、少し。あの人は変なところで情熱的なので」
じいっと少年は目の前に立つほとんど同じ身長の、垢抜けない、そして少しだけ年上らしき少女の顔を見た。
「な、なによ。わたしだってなにがなんだかわからないわよ」
「いえ、なんでもないです」
「ふん、どうせ団長が変なやつを連れ込んだって思っているんでしょ。いいわよ、きっとシャーロットも今頃わたしをひっかけたことを後悔し始めているに違いないわ。あの人が帰ってきたらもういちどちゃんと話してみるから」
上官の溜息を思い出して少女は俯いた。すると「顔を上げて」と少年は少しぶっきらぼうに言った。その顔を見上げると、少年はくしゃりと笑みを浮かべた。
「ぼくはあなたに来てほしくなかったなんて思っていませんよ。大事な団長のお客さんだもの。それにテリーザ先生の弟子にもなるのしょう」
「……ありがとう」
「ああ、でも団長はたぶん、遅くまで帰ってこないですよ。会議はいつも長引くので」
「あの小さな町でそんなに話し合うことなんてあるの?」
少年は理知的なカオを少しこわして溜息をついた。「そりゃもうたくさん」
「あなたは島に来たばかりだからまだ知らないんだ。この地は話し合いで簡単に解決できないことだらけです。ここウポル島は、いや隣のサバイイも、このナビゲーター・アイランズ全体が問題だらけ」
「それってさ」少女はもう遠い昔にすら思える今朝のできごと、ドイツ桟橋での憎々しい徴収人のにやけ顔を思いだして言った。「ゴーデフフロイ、っていう人と関係がある話?」
少女は若干むかむかしながらその嫌な思い出を説明した。
「それは、はるばるやって来て早々にひどい話ですね」
「でしょう?」
「ええ。シスターの言う通り、その名前にも関係があります。まあ本国にいるゴーデフフロイ氏というより彼の商会がやっていることに問題があるんだけど」
少年は語る。
ゴーデフフロイ商会。島内でいちばんの財力を持つ外国人商会であり、この島だけでなく、南太平洋中を股にかけた巨大なドイツ系貿易商社。ヤシの白い果肉を乾燥させたコプラを商材とした交易を主とする云々。
「コプラ交易自体はいい。でもサモア人たちから土地を奪って無理やり農地を広げようとするから、同じようにヤシ栽培林や畑の土地が欲しい他の商会と対立するんです。賢人会議ではいつもイギリスとドイツの領事が言い争っているらしくて、それで遅くまで伸びてしまうのです」
「ふうん、それでシャーロットはどちらの領事の味方に付くの?」
「いや団長はどちらにも味方しません。団長は帝国国籍を持っているから、一応うちはイギリス系なんだけど、あの人は他のイギリス商社のこともよく思っていないんです。結局程度の差はあってもドイツ人もイギリス人もやっていることは一緒だから」
少女は薄緑の目を少し細めて、シャーロットを慕う少年の顔を眺めた。
「ここに来てからずっと思ってたけど、あなたたちって島の先住民に協力的というか、仲良くしようとしているというか。何て言えばいいのかしら……、変わってるのね」
「そうですか?」
「だってふつう先住民と積極的に関わろうとはしないものでしょ? こんな海の果てまで人がやって来るのはお金儲けのためなんだし、それには元々住んでいた彼らの土地を使うことになるわけで……」少女は喋りながら、ぎこちなく言葉を探す。
「それって先住民にとっては侵略みたいなものよね。きっと商人が憎らしいはずだわ。逆に商人たちにとっては先住民たちが居座るのが邪魔に思える。つまりね、商人と先住民が上手くやれるはずがないのよ」
入植者の目的が金儲けのためというのは、上官の受け売りである。彼は少女にこう言っていた。
『ナビゲーターアイランズの島民はアメリカ開拓におけるインディアンに等しい。せっかく神から与えられた豊かな土地を耕しもしない怠け者。帝国人が進んだ文明を持ち込んでやろうとしているのに、その邪魔だけはしてくる目障りな野蛮人たちだ』
こういった異民族への優越意識は近代英国人たちのなかで決して珍しいものではなかった。
「だからこそ、団長はそんな商人たちのやり方をしないんです。侵略者みたいな真似をするのは賢いとは言えません。そんなの野蛮です」
「じゃあ、あなた達はどうやって商売してるのよ? ライム園を持っているってシャーロットが言っていたけど、それはどうやって手に入れたのかしら」
少女ははっと閃く。「わたし分かった! 先住民たちになにか価値のあるものを配ったのね。例えば……金塊とか」
少年はあっさりそれを否定する。
「違いますよ。農園は副団長のイヴァが腹違いの兄ラウペパから貰った土地です。イヴァは島の名門マリエトア家の生まれですから。言ってしまえば、そのコネですね」
「なあんだ」
「そういうこともあって、ぼくたちはこの島にやって来たとき、島の人たちにだいぶ助けてもらったんです。だからぼくらも彼らが困っていたら助ける。それにぼくらの仲間には島の生まれもいるから、アピアの商人たちよりも彼らの方がよっぽど身近です」
少女は目を閉じる。途端に体から疲れが出てくるような気がした。今日は頭を使いすぎた。
「なんだか、思っていた感じと違ったわ」
シャーロット・ビーティーは島の商業を妨害している、中佐はそう言っていた。ここに来るまでは彼女がその私兵を率いて町で悪さでしているのかと思っていたけれど、それは違った。むしろ話を聞いている限り、島の商業を妨害しているのはドイツ人であり、ほかのイギリス人なのでは。少女は分からなかった。
「へえ」少年はベッドの用意を終え、動きを止めて少女の目を見据えた。
「じゃあ、ぼくたちのこと、どんな風に思ってたんですか?」
しまった。
わたし、喋りすぎた。
少年は目線を外さないまま、ふっくりとした、まだ幼さの残る口元を緩めた。
「ぼくたちは、自分たちや団長がアピアの白人たちからどう言われているのか、全部知っています。そしてなぜそう言われてしまうのかってことも。たぶんあなたもどこかでそれを聞いたのでしょう」
少年はくすくすと笑った。そして楽しげに呟いた。
――赤ガラスの生き残り。
「あなたたちは、海賊なの?」咄嗟に口に出た。
「ここでぼくがどう答えても、あなたはきっと信じられないよ。だから言わない」
「はあ?」
「だいぶ夜更かしをしましたね。ではそろそろお休みの時間です」
燭台の灯りが吹き消される。少年はテーブルの上のランタンをとった。少女もしぶしぶベッドに入る。
「良い夜を。シスター」
「あなたもね、ええと君のなまえ……」
「ヤシュパルですよ。ではこれで」
「ヤシュ、また話をしてよね。ちょっとずるいわ」
少年はにっと笑みを浮かべてランタンを手に部屋を出ていく。彼の退出によって寝室は今度こそ外の闇に飲み込まれた。
廊下の足音、次いで階段を降りる音がわずかに響いたのち、完全な無音となる。
時間が引き伸ばされ、いつからか耳鳴りが聴こえている。半刻は経ったころ、闇の中で微かな星空の明かりを映すエメラルドの瞳がふたつ、パチリと開いた。
「まだ寝るには早いんだから」
スパイ候補生、猫はあどけない少女の顔に悪い笑みを浮かべた。
せっかくシャーロットの城までやって来れたのだ。この機会を無駄にするのは惜しい。昼間は見れなかったところも心置きなく見てやろう。
「さあて、仕事しようか」
猫はそろりと起き上がり、木のベッドの脇に置いた旅行鞄を開けて中をまさぐった。マッチ箱を取り出して、テーブルの上の燭台に火をつける。つけたかったのだが……
「あれっ、おかしいわね」
マッチ棒の赤リンが湿気っているのだ。猫はさっそく慌て始めた。最後の一本を祈りながら擦ると、何度か試した後ようやく点火した。それをロウソクの一本に移して猫は弱い光源を得た。
猫は部屋の木の扉を音もなく開き、細い廊下に出た。その左の突き当たりには下への階段があり、常夜灯のランプが仄かに照らしている。ちなみに階段を下りたすぐ脇に便所があると昼間に教えられている。もし、誰かに見つかるようなことがあれば、それを言い訳にしよう、と猫は思っていた。
結局やっていることは泥棒と同じである。猫はその習わしに無意識に沿って階段とは反対の真っ暗闇へ廊下を歩いていった。
廊下はそれほど長くはなかったが、左右に扉が対になって並んでいて沢山の部屋があるようだ。ルームプレートを照らしていくと、「客室」、「書庫」、「ライム班会議室」、「会計班出納係室」、「船積書類室」、「物品倉庫」云々という面白くもない文字が続き、しかもきっちりと鍵がかかっている。あまり興味をそそられない。探し物は金塊、もしくはそれに繋がる何かである。
「まあ、とりあえず今は下見だけね」
廊下の奥へ進んでいくと、突き当たりは窓だった。相変わらず外は濃い夜闇に包まれており、ところどころにある櫓のかがり火しか見せてくれない。左右の扉のプレートにはそれぞれ「支配人執務室」と「副支配人執務室」とある。もちろんどちらも施錠されている。
「まずはシャーロットのお部屋から」
猫は躊躇いもなく白い夜着のスカートを捲って太ももを露わにした。そこには小さなポーチが付いたベルトが巻きつけられていて、猫はそのポーチから二本の針金を取り出した。二本とも先端がL字に曲がっていて、その内の一本はさらに細かく枝分かれしている、奇妙な道具である。猫はしゃがみこんで鍵穴にそれを差し入れ、弄りだした。すると1分もしないうちに針金の一本が回った。
「甘い錠前ね。防犯管理がなってないわ」
中は意外にもがらんとしていた。机と戸棚があるだけで、机の上にはペンすらない。あまり使われていないようだ。殺風景な部屋である。
「まあ、流石にこんなところに金塊を隠したりはしないよね」
猫は戸棚を開けてみる。特にめぼしい物はない。何やら分厚い難しそうな本が並んでいる。「ライム栽培法」に「王立ライフボート協会発行 海難救助手引き」、「ロイズ海上保険制度あらまし」に「帝国版図拡張史」、「最新プロシア情勢」など。猫はタイトルを見るだけで嫌になってくる。おおよそ18歳の少女が好んで読むようなものではなかった。
戸棚を注意深く確かめてみても、本の奥に隠し扉があるわけでもなく本当にただの本棚で、猫は興味を失った。そして何気なく机の引き出しを開けてみた。
「ここにも、何にもないか」
空っぽ。聖書すらない。けれど何かに引き出しが引っかかっているらしく引き出しが全開にならない。不思議に思って猫は奥に手を突っ込むと、指先に痛みを感じてぱっとそれを引っ込めた。「痛っ、何よ」
親指の腹が縦に薄く切れて血が出ている。それを口に咥えながら、燭台の明かりをかざすと引き出しの奥にナイフのようなものが見えた。燭台を机に置いて、ゆっくりと取っ手を引くと今度はなぜかすんなりと開いた。
「なんでこんなものを入れているのかしら。危ないじゃない」
それは銀のナイフの刃だった。柄がないが刃渡りからして調理用のナイフのようだ。明かりを跳ね返す鋭い刃先が猫の血を僅かに吸っている。暗闇の中で存在を主張するそれは、何とも言えない禍々しさを持っていた。
猫は痕跡を消すために刃先を夜着の袖で拭ってから部屋を出て、また針金を使って鍵をかけた。それから「副支配人執務室」も開けてみたが、やはりそこにも何も無かった。
「ここの支配人たちは部屋を飾りつけたり、閉じこもったりするのがお嫌いのようね」
猫はため息をついて元の客室に戻った。一階にはヤシュパルたちが詰めているということは確認済みだ。間取りがまだよく分かっていないのに無闇に探索するのは見つかりに行くようなものだ。ここで怪しまれて追い出されたりなどしたら、これまでのシャーロットたちへの接触が全て無駄になり、任務自体が失敗に終わる。
でもせっかくの機会は無駄にしたくない。どうしようか。
「トイレくらいは行ってもいいよね」
猫はロウソクの火を消して真っ暗な部屋を出て、階段をあえて音を出して降りた。歩哨の少年に教えられた通り、階段を下ったところは廊下の突き当たりになっていて、脱衣所の扉があり、そのすぐ隣が便所の扉である。廊下の反対側、昼間入ってきた正面玄関の方に目をやると、まだ広間に明かりが灯っている。外には歩哨に立つ少年たちの姿が見えた。
こちらの廊下にも扉がたくさんあった。猫は鍵穴を覗きたい好奇心を抑えてルームプレートを眺めるだけにしておいた。どうやら一階は部屋は多くが少年たちの居室になっているしい。屋敷の間取りが分かってきたことと、そして二階の探索を終えていたことで、猫は少し大胆になった。
「要は怪しまれるようなことをしなければ良いのよ」
明るい玄関前の広間まで歩いていくと、昼間はよく見ていなかった屋敷の立派な内装に目がいった。建てられて新しく、よく手入れされていてゴミひとつ落ちていない。アピアにあった豪奢な教会にもひけをとらない威厳があった。
「建築費は幾らかかったんだろう?」
これこそ、シャーロットが金塊を持っている証拠なのでは? 中佐の言っていた、シャーロットが金塊を積んだローズ号をどこかに隠しているという説はきっと正しいんだ。
そこは猫が育ったスミスフィールドの狭くて安い貸し部屋とは別世界だった。壁は真っ白に塗られ、床はふかふかの赤絨毯が敷いてある。
「すごい」
猫は楽しくなってきて誰もいない広間で、シャンデリアの下、くるくるとデタラメに踊り始めた。黒髪と白い夜着がひらひらと舞い、はしゃぐ少女の頰は桃色に染まり、そこは舞台となる。
やがて頭の中の音楽が鳴り止み、猫はポーズを取って静止する。すると後ろから拍手が鳴った。
振り返るとヤシュパルが立っている。さっきとは違って半袖の寝巻き姿で、頭には毛玉付きの白いナイトキャップを被っていて、年相応に幼く見える。拍手をやめた彼に、猫はきまり悪そうにへらっと笑った。
「ごめん、起こしちゃったかしら」
「はい。ぼくの耳は人一倍鋭いので、物音に敏感なんです」
意外にもヤシュパルも微笑んだ。ぼうっと眠たげな目で猫を見た。
「今のはなんの踊りですか?」
「あっいや、あれは思いつきでやってみただけよ」
「そうですか。なんだか小さい頃に見た、故郷の踊りに似ていたので気になったんです」
ヤシュパルはインドの生まれだと言った。
「そんなに遠くから来たのね」
「ええ、でもぼくは生まれてすぐに年季奉公をする父さんといっしょに英領マレーへ移り住んだんです。だから本当のインドの踊りはちょっと違うかもしれないけど」
「マラヤだってここから相当遠いでしょう? それにお父さんはどこにいるのよ」
ヤシュパルは本当に眠そうに、大きなあくびをひとつした。目を擦りながら、こともなにげに言った。
「死にました。ぼくは海賊に攫われたんだ」
言葉をなくした猫にヤシュパルはふふっと柔らかく笑みを浮かべた。
「良いのです。ぼくたちには団長がいるから」
「シャーロットが助けてくれたのね?」
「うん、団長はみんなの姉さんだもの。あの人といっしょに居られれば、もうそれでいいんです。だから団長がずっと笑ってくれるようにぼくたちは頑張って仕事するんだ」
幸せそうに微笑む彼に、猫も頰をほころばせる。
「そっか。ヤシュはしっかりしてるのね。きっと――」
神さまはあなたたちを見てくれているわ。そう口にしようとしたとき、猫は不意に喉がつっかえて、声が出なくなった。目の前がぼやけて、涙がぼろぼろと溢れだした。
あれれ、何でわたし泣いてるんだろう。
「どうしちゃったの? 悲しくなった?」
ヤシュパルが近づいてきて、少女の背中を優しく撫で始めた。
「わからない」
「辛いことがあるならさ。話してみたらどう?」
辛いこと。ああ、そうか。
「わたしもお父さんとお母さんがいないの」
「そう」
「でも、わたしはあなたみたいに前を向けない。育ててくれた人の恩に応えられないし、その人もわたしのことをう、疎ましがるし、嫌われているのよ」
言葉が勝手に口から溢れていく。止められない。「わ、わたしもね」
「うん」
「わたしも、優しくされたかった。家族になって欲しかったのに」
わかっちゃった。わたし、この子に妬いてるのね。
いやだな、かっこ悪いや。
「ちょっと、ぼくについてきて」
ヤシュパルは猫の手を引いて広間の近くの小部屋へ連れて行った。中はベッドと椅子と作業机がひとつ、これまた難しそうな本が詰まった小さな戸棚もひとつある。ヤシュパルの部屋だと言う。
彼は泣きべそ少女を椅子に座らせ、「すぐ戻るから、待ってて」と言って部屋を出ていった。ほどなくして戻ってきた彼は水差しと木のコップを持ってきた。水を注いだ。
「はい、とりあえずこれを飲んで」
震える口をつけて、びっくりする。こんな熱帯の島でどういうわけか、それは冷たい水だった。猫は夢中で飲み干して、おかわりもした。「落ち着いた?」
「うん……」
「良かった。それだけ飲めば干からびることもないね」
ヤシュパルはにっこりした。
「ねえ、神さまは君を見ているよ」
「そうかな……」
「そうだよ。だってぼくたちは今日まで頑張って生きているだろ? つらくてもここまで来れた。それは神さまが愛してくださっているからさ」
本当だろうか。シスターとして自分がさっき同じことを言おうとしたくせに、猫はそれを疑っていた。
「だからね、頑張ってる自分をもっと褒めてあげなきゃ。自分で愛してあげなきゃだめだよ。だってほかのみんなも自分のことで精一杯なんだから」
でも寂しいのだと猫は呟いた。
「たまに今みたいに不安になるのよ。捨てられるじゃないかって、思うの。この先――」
任務に失敗したら。それは今度こそボスに見限られることを意味する。すでに制限時間は設定されているのだ。
「捨てられる? 君は君のものだよ。誰も君のことを捨てたりなんてできない」
ヤシュパルは真面目な顔をして言った。
「でも、もしも居場所がなくなったら、ぼくたちの仲間になれば良いよ。団長は仕事と引き換えにぼくたちに役割と居場所を与えてくれる。団長は君に惚れているんだから、簡単さ」
「ふぇっ、い、いやわたしなんか何の役にも――」
「ほら、そういう風に自分を貶めちゃだめだよ」
ヤシュパルは少し顔をしかめて見せた。
「うん。ありがとう、ヤシュ」
まだわたしは諦めないわ。わたしがこの島で頑張って成果を上げれば、中佐も喜んでわたしのことを見直すだろう。昔みたいに笑ってくれるだろう。彼が喜んでくれたら、わたしはすごく嬉しい。それに約束通りわたしは本当の家族に会うことができる。
わたしが努力すれば、幸せになる道がある。
でもそうか。シャーロットと生きてみるって。確かにそういう生き方もあるのね。
「なんだか、気分直しにもう一度踊りたくなってきたわ」
「だめです。もう部屋に戻って寝てください」
ヤシュパルは目をちかちさせた。「ごめんね、ぼくもう限界。眠いや」
机の上に置かれた懐中時計はとうに10時を回っていた。
「ご、ごめんなさい。わたしのせいですごい夜更かしをさせちゃって……」
「いいんだよ」
ヤシュパルはにやっと笑う。
「ところで、さっきはどうして広間にいたの? あれだけ寝てくださいと言ったのに」
「ええと、なんだっけ? そうだ、おしっこ!」
「女の子なんですから、もう少し言葉を考えた方が良いと思います」
「いまさら、何を畏まっているのよ」
「ほら行くよ。便所の場所は階段の――」