5:支配人シャーロット・ビーティー
少女は小さな礼拝堂の入り口に立っていた。ひさしの下にいるにも関わらず、剥き出しの白いふくらはぎに地面を飛び跳ねた雨粒が当たる。雨どいは排水の限界を超えてもはや意味をなしていない。
――まるで滝みたいね。ほんの半刻前まではお天気だったのに。
ずぶ濡れの猫はグレー・チェックのワンピースのすそを絞りながら、ぼんやりとそう思った。いつもの彼女ならちょっと悪ぶって毒づいているところだったけれど、このときは借りてきた「猫」のように大人しく、どこか上の空だった。
ふたりはシスター・テリーザの教会にいる。熱帯特有のスコールに襲われて、森のなかを駆けてきたのだ。どこからともなくやってきた大きな雨雲がもくもくと空を覆い始めるのを見るや、シャーロットは猫の手を引いて走り出した。が、あと少しのところで間に合わず、濡れ鼠になって今に至る。
猫は待っていた。シャーロットが礼拝堂の隣に立つテリーザの家の中に入っていったきり戻ってこない。手持ち無沙汰の猫は服に染み込んだ雨水が床にこぼれないくらい絞ってから、裸足になって薄暗い礼拝堂に入ってみることにした。といっても堂の中はいくつか長椅子が並んでいるほか大したものはない。キャンドルが溶けきっていて灯りはなく、窓枠や講壇は埃をかぶって長らく使われていないように見える。地面に叩きつける激しい雨音はガラス窓に遮られ、心地よいビートとなって少女の眠気を誘った。
――まぶたがくっつきそう。もういいや、戻ってくるまで寝てよ……。
長椅子に腰掛けてうとうとしていると、ガチャリと鍵を回す音がして、だしぬけに十字架のそばの扉が開いてシャーロットが現れた。
「マリー、乾布を取ってきた」
礼拝堂とテリーザの住居はこの扉でどうやら繋がっているらしい。シャーロットは猫の隣に座ってタオルを手渡した。
「待たせちゃってごめん。体を拭くものを探すのに手間取ってたんだ。家の中を濡らすわけにはいかないからさ」
「んぅ……」
「ほら、起きて。そのままじゃ風邪を引いてしまうよ」
今にも寝入りそうな猫を見て、シャーロットはくすりと笑った。
「シスター・テリーザは?」
シャーロットはまだ乾ききっていない髪を後ろに縛りながら、首を横に振る。
「出かけてるみたいだ。アトゥアに、つまりここから東の地域へ往診に行っているらしい。君への書き置きがあったよ」
猫は渡された小さな紙切れに目を落とした。そこにはそっけなく、こう書かれていた。
『シドニーから来る私の新しい助手へ。しばらくここを離れてアトゥアで仕事をする。私が戻る前に着いたなら、ここの物を自由に使いなさい。おなかが減ったら町まで下りてビーティー商会支配人シャーロットに会えば、あいつなら何かくれるだろう』
「聞いているとは思うけど、テリーザは修道女にしてこの島で島民(サモア人)を診る貴重な医師でもある。今日みたくここにいないことも多いんだ」
「そっか。だからわたしが必要になったのね。教会の仕事をずっとほっぽり出すわけにはいかないもの」
たぶんそれは本当なのだと猫は思う。ロイド中佐が言うには協力者テリーザはあくまで猫のサモアでの生活に対する協力者であり、任務については一切伝えていないらしい。金塊探しの突破口は自力で作るしかないのだ。
「あのさ、シャーロット。彼女とはよく会ったりするの?」
「最近はたまに、だね」シャーロットは少し考えて言った。「テリーザはうちの教室の、僕は部下や商会員の子供のための小さな教室を運営してるんだけどそこの算数と読み書きの授業を不定期でやってくれるんだ。先々週も忙しいなか来てくれたよ。まあ、文句ばっかり言ってたけどね」
「ふうん、ふたりは親しいのね」
テリーザは友人だとシャーロットは言っていた。つまり生活の面倒を見てくれるテリーザにも任務を悟られてはならないというわけ。そんな器用なこと、わたしにできるのかな?
「彼女はいい人さ。前は忙しいのに毎日授業を持ってくれていたし、それだけじゃなくて商会を立ち上げるときもだいぶ助けてくれた。ナイチンゲールにも負けない慈善家だよ」
そこでシャーロットは苦笑する。
「でも彼女は自分の生活に犠牲し過ぎるところがある。報酬は絶対に受け取ってくれない。仕事としてやっているわけじゃない、とか言ってさ。本当は苦しいくせに……こういう事を言うと彼女は怒るんだけど」
猫はがしっと手を握られる。
「僕たち長い付き合いになりそうだね。改めてよろしく、マリー」
「ああ、うん。よろしく」
握手を解いたシャーロットはその手を猫の頰に当てて、彼女の目を見つめた。
「君は運がいいね。先回りして僕にも会えたわけだし、とりあえず目的地にも着いた。ちょっと濡れちゃったけど、問題解決だ」
「そ、そうね。本当に助かったわ。本当にね、本当に……」
本当にややこしいことになってたんだった――。
猫はシャーロットの熱っぽい眼差しを向けられて、考えたくないものからついに逃げられなくなったことを悟った。
――どうしよう。
もともとの作戦はすでに台無しになっている。猫がシドニー行きの船内で立案し、上官であるロイド中佐に提出した行動計画に則れば、彼女は宣教にやってきた修道女という肩書きでシャーロットの部下たちに接近し、頂上ではなく周辺から地道に情報を集めていく予定だった。それは何の捻りもない中佐にも鼻で笑われた、ある意味で王道をゆくやり方。かなめは何が何でも群衆のひとりに徹すること、決して目立ってはならないということ。けれど、最重要人物のシャーロットに顔を覚えられてしまった。
――こんなに早く彼女と接触できたこと自体は悪くないはず。でも本当にこれで良かったのかな。だってその、問題は顔を覚えられたどころじゃないってこと。
猫は自分に触れる手と、その主の無邪気な笑顔に捕らえられて動けなくなっていた。逃げ出したいのに、どういうわけか視線を外すことができない。重い風邪でもひいたかのように顔が熱くなってきて、それが手を通してシャーロットに伝わっているということが彼女を居たたまれなくさせた。
「でもね、運が良かったのは僕も同じさ」
「……どうして?」
「決まっているだろう? もう忘れちゃった?」
「え、えーと」
あまり思い出さないように努力していたことが否応なしに思い出され、いちおう猫は自分に言い訳をする。「好きになっちゃった」と宣告されたことじたいに動じているわけじゃあない、と。
出会った親切な青年が実は女性だったという第1の爆弾。しかも例のシャーロット・ビーティーだったという第2の爆弾。そして、みっつめの爆弾に愛の告白を食らったら……。そうよ、あの豪胆なグラッドストン首相だって腰を抜かすにきまってるわ。
だって、わたしは女で、それでシャーロットも女の子なんだ。
「マリー」
「な、なに?」
「僕は君にとても興味があるんだ」
わずかに顔を赤らめながら笑顔でシャーロットはそう言った。揺るがない深い緑色の双眸の輝きが、猫には嘘にも冗談にも思えなかった。
嬉しい。わたしに興味があるんだって。
「それは……どうもありがとう?」
――で、でもどうすればいい? この不利な状況を切り抜けるにはどうすれば? 中佐!
猫は困った。本当に困っていた。経験値がないのである。
少女は貧民学校を12歳で卒業して正規の訓練生に、猫になった。いらい四年間、猫はずっと男の子同然に扱われてきた。色恋どころか友だちさえ作ることを許されなくなって久しい。でも最近シドニーでは水兵マリオンに甘い囁きを受けた。チビで薄汚れて諜報員として少し血の巡りが悪くても、年頃の乙女である限りそういうことはあるのだとようやく気づき始めた。もっとも、まだそういうことに慣れたわけではない。そんな微妙な成長を遂げようとしていたさなかの、斜め上からの不意打ち。「ね、ねえシャーロット」
「ん? なあに」
「なんでそんなにわたしを見るの。お、落ち着かないんだけど」
「へえ、わからない?」
「わからないよ! わたし達はまだ知り合ったばっかりでしょう?」
猫はシャーロットの手を押しのけて少し距離を取った。どこかに行っていた冷めた自分が防戦一方の弱気な自分を下がらせて現れる。流されるな、とそれは騒いで奮い立つ。この女が熾した火が煙を立ててわたしをここにやって来させたのよ。呑まれちゃだめだ、危ない。
「だいたい、あなたはおかしいわ。さっきだってあんな冗談言って――」
「あれは冗談じゃないよ」
「でもわたし達、女同士なのよ!」
「いったろ。僕は男でも女でも大丈夫だって。どこにも問題がない」
「あるわよ。だってあなたは――」
猫は言葉を詰まらせて、黙った。シャーロット・ビーティーはわたしの調査対象者だ。壊滅した赤ガラス海賊団の生き残りで、10トンの金塊を積んだ軍艦ローズ号をどこかに隠しているという。そしてわたしはそれを掻っ攫おうとする、彼女のいう理想郷とやらに居てはならない邪魔者――。
「ごめんね。少し怖がらせちゃったかな」
シャーロットは長椅子から立ち上がって、窓のそばに歩いて行った。
「見てよ。雨が止んでる」
いつからか雨音がしなくなっている。礼拝堂の中が明るくなってきた。太陽が雲から顔を出したらしい。猫はまだ濡れた靴下と革靴を履いて、堂の入り口を出た。
外はそこらじゅう水溜まりになっていて、むわっとした空気が地面から立ち昇る。すごい湿気だ。
「マリー、鞄を忘れているよ」
「ああ、どうも」
猫は旅行鞄を持ち上げて、はっとした。なんだか重い。慌てて留め金を外して中を開けると、ぐちゃぐちゃに詰め込んだ下着やら、麦わら帽子やら、あらかた雨水が浸み込んでいた。
「これ、どうしよう……」
ごそごそ鞄に手を突っ込んで中を漁る。手触りからして底の方に置いていた銃と弾薬はどうやら無事らしい。猫はほっと胸を撫で下ろす。その様子を見ていたシャーロットは「あのさ」と少し遠慮がちに言った。
「テリーザの許可もあることだし、今日はうちに来ない? 夕飯と客間があるし、着替えとかもある。君さえ良ければなんだけど」
「いいの?」
背の高いシャーロットを見上げると、にこーっとした裏のなさそうなカオがある。
「もちろん。歓迎する」
猫はシャーロットに手を引かれて、来た道を戻ってアピアの町はずれに下りてきた。アイスクリーム屋や昼ごはんを食べた食堂を通り過ぎ、町をぐるりと囲む小道を外れて海辺のまばらなヤシ林を抜けていく。すると濡れた地面の上に二本の鉄路が敷かれていた。それは鬱蒼と茂るジャングルの方から伸びている。ふたりが線路に沿って木立のなかを歩いていくと、柵が見えてきた。柵は木で出来ていて、横にずうっと続いている。線路は柵のなかへと続いていた。
門のそばには物見櫓がひとつ。シャーロットのものと同じ紺の風船帽を被った褐色肌の少年がふたりを見下ろしている。
「団長、お帰りなさい」
シャーロットは手を振って返す。一つに束ねた小麦色の髪をキャスケットに収めて、深く被る。
「そのお連れの方は?」
「お客さんだよ。顔を覚えておいてね」
少年が櫓の上でハンドルを回すと頑丈そうな丸太の門扉がゆっくりと開き、シャーロットに連れられて猫も中へ入る。猫は目の前に広がる光景に目を白黒させた。
「すごい……」
柵の内側はちょっとした集落のようだ。反対側の柵が見えないほど広い原っぱの中には道路が整備され、小さな木造の小屋が立ち並んでいる。敷地の中央あたりには赤屋根二階建てのコロニアルな屋敷が建っていて、道路はそこに続いていた。
でも屋敷に着くまでが大変だった。シャーロットが歩みを進めるたびにすれ違う人々に話しかけられるのだ。そこには多種多様な人間がいた。作業服姿の白人の若い男や腰巻きのような民族衣装を着た褐色肌の中年女性、裸ん坊で駆け回る幼い子供など、ごちゃ混ぜである。けれどいちばん猫の目を引いたのは、やはり紺のキャスケットを被った少年たちだった。
――彼らがロイド中佐の言っていた、シャーロットの私兵団という連中ね。
年は見た限り猫と同じか少し下くらいの男の子たち。肌の色はまちまちだが、概ね髪は真っ黒だ。半袖の白い統一されたシャツと帽子を着けていて、銃身を切り詰めた短いライフルを持ち、歩哨に立っている。はじめにシャーロットに会ったとき一緒にいた少年や、門番の少年も同じ格好をしていた。
予想していたよりも遥かに厳重な警備に猫は顔をひきつらせる。これじゃあ正攻法の情報収集も難しいかもしれない。それでも猫はさりげなく柵のなかの建物や構造、歩哨の配置など役立ちそうなありとあらゆる情報を記憶していった。ロイド中佐の15人の部下の最底辺とは言っても常人の数倍の記憶力を持つ。問題はその記憶を使いこなせないことにあるのだ。
一方で彼女は体を動かすことは得意だ。鍵開けも忍び歩きもお手の物。それはスパイ少女の持つ数少ないスパイらしい特技でもあった。難しくとも、やってやれないことはない。自信はあった。
「ねえ、その子はだれ? 見ないカオだけど」
シャーロットと楽しげに喋っていた歩哨の少年たちがシャーロットに隠れる背の低い黒髪の少女に気が付く。
「紹介しよう。彼女はシスター・テリーザの新しい助手、ミス・ロイド。いやシスター・マリーと呼んだ方がいいかな」
シャーロットは猫の手をぎゅっと握りしめる。
大勢の目に晒されることに慣れない猫は少し固くなって少年たちと挨拶を交わした。すると彼らは猫の顔をじろじろ見て、何かを察したように仲間同士で目配せをした。そうして目を丸くして口々に呟く。
「この人はもしかして団長の……」
「まさか、ついに出来たってことだな。団長のアレが」
「アレかぁ。副団長、きっと泣くぞ」
猫は首を傾げた。「アレってなに?」
「僕の恋人ってことさ」
シャーロットは少し顔を赤らめてくしゃっと笑った。途端に猫もそれ以上に顔を真っ赤にしてムキになって言う。
「違うってば。あなたが勝手に言ってきただけで、わたしそういうつもりじゃ……」
「あはは、ごめんごめん。確かに僕が勝手に言ってるだけさ。無理強いはしないよ」
少年たちと別れたあと、猫はシャーロットの鼻先に指を突きつけた。
「さっきみたいなこともう言わないで。女同士で恋人なんて変な目で見られるわよ」
「大丈夫だよ。僕と親しい人はだいたい僕のこういうところを知っているから」
「その、笑われたりしないの?」
「しないさ。うちはいろんな人がいるからね。生まれも人種も特技も、好みも。あと、商船隊から引き抜いてきた船乗りが多いから、まあ僕みたいな奴もけっこういる。彼らは僕が女の子を連れていることに驚いていたんだよ。アピアは商人だらけで君みたいな可愛い子がいないから」
最後の言葉に反応した猫はシャーロットから目をそらした。
「よくもまあ、そんな恥ずかしいことをさらっと人に言えるわね」
「言うべきと思ったことは言わなきゃ。僕はそうやって生きてきたから」
猫がもう一度シャーロットの顔を見たとき、隣を歩く長身の少女は真っ直ぐ前を向いていた。赤屋根の屋敷にとうとう到着したのだ。
屋敷の扉の前にはまた銃を肩に担いだ歩哨の少年が二人と、その間に大柄な褐色肌の青年が立っている。彼は民族衣装の腰巻きを着けていて上半身は豊かな筋肉が浮き出た裸である。彼はシャーロットに海軍式の敬礼をしてみせた。シャーロットも答礼する。
「団長、お帰りなさい」
「うん、ただいま。イヴァ」
青年は少年たちと違って顔に笑顔はない。猫の方をちらりと見て、またシャーロットの方に視線を戻す。「こちらの方は?」
シャーロットは猫の事情を説明する。彼は猫をじっと見据えた。
「シスター・マリー。私はビーティー商会の副支配人をしている、イヴァという。以後お見知り置きを」
猫も彼に手を差し出して握手する。
「なるほど、さっきヤシュパルが言っていました。浜辺で寝ていた女の子を団長がテリーザのところへ連れていったと」
「でもテリーザはいなかったんだよ。だから折角だしこっちに来てもらったんだ。今夜はおもてなしをして」
「了解。皆にも伝えておきます。それとスコールは大丈夫でしたか?」
「ちょっと濡れちゃった。ああそうだ、僕はマリーと水浴びに行こうかな。ねえマリー、さっぱりしたいでしょ?」
「えっ、うん。したいけど」
じゃあイヴァ、後はよろしく、と手をひらひらさせたシャーロットの肩にイヴァの大きな手が置かれる。
「あなたはここでお待ちください。今夜の会合のことでお伝えしたいことが。もしや今夜のことを忘れていたわけではありませんよね」
「覚えてるって。だからちゃんと帰ってきたんだよ。マリー、先にシャワー室に行ってて。僕も後から行くから」
それから、猫はイヴァが呼んできた歩哨の少年に連れられて屋敷の奥へと導かれる。石の廊下を歩いていくと突き当たりの扉を開けると脱衣所があり、その先には色のついたこれまた石張りの大きな部屋があり、部屋の天井にパイプが何本も通っている妙な空間になっていた。
「ここがシャワー室です。マリーさんはシャワーを使ったことがおありですか?」
少年に聞かれて猫は首を横に降る。「シャワーってなに?」
「この蛇口をひねると、天井の水管の穴から水が落ちてきます。それで体を洗うのです」
「そんな、まさか」
「ご自分の目でお確かめを。まあこういったものはこの島でもここにしかありません。団長がぼく達のために発明なさったのです」
着替えと体を拭く布を脱衣所に置いておきます、と言って彼は部屋を出て行った。猫は好奇心に駆られて脱衣所で手早くワンピースと下着を脱いで、部屋に入って蛇口をひねった。
「あはは、雨みたい」
猫は誰もいないだだっ広いシャワー室を独り占めして無邪気に喜んだ。長い船旅で体を洗えなかったからいい加減埃を落としたかったのだ。この時は、ロイド中佐も任務も、この先の不安も全て忘れた。片隅に残っていたシャーロットのことも忘れようとしていると、いきなり両目が手で塞がれて真っ暗になる。「ひっ」
「あはは、だーれだ」
「わたしね、あなたのことがだんだん分かってきたわ……」
裸になって現れたシャーロットは歯を見せてしししと笑った。
「シャーロット、少しは体隠しなさいよ」
「良いじゃない。女同士なんだし」
猫は赤い顔でちらりとシャーロットの体を見る。すらりとした手足にくびれた腰、キュッと締まった尻、意外に小さな胸。きれいだと思った。自分に絵の才があれば、きっと名画になるだろうと猫は夢想する。けれどシャーロットの背中が見えた瞬間、彼女ははっとした。その背中には無数の線状の赤い傷跡が残っていた。その目線に気付いてシャーロットは口先だけ笑った。
「古傷だよ。もう痛くない、過去の記憶さ」
猫はシャワー室を出ても、その傷が目に焼き付いて離れなかった。
それからシャーロットは猫を屋敷の食堂に招いて夕食をご馳走した。そして日が落ちたあと、護衛の少年たちと気難しそうなイヴァを伴って柵の外に出て行った。その時のシャーロットはそれまで猫に向けていた緩い笑顔から一変して、にこりともしない何か近寄りがたい空気を纏っていた。
「マリー、僕はちょっと用があるから出かけてくる。明日の朝には戻るよ。それからどうするかはまた話そう。テリーザのところに戻りたいならその時送っていくし、ここが気に入ったならもう少しいてもいいよ」
「わかった、今日は本当にありがとう。ねえ、最後にこれだけ聞いても良い?」
どうしてわたしにここまでしてくれるの? それは猫がいちばん疑問に思っていることだった。シャーロットは少し考えてから、ふふと小さく笑った。
「君を最初に見たときから、なんだか絶対に離れちゃいけないような気がしているんだ。はっきりとした理由はない。強いて言うならば一目惚れかな」
今日は疲れただろう、おやすみ。シャーロットはまた厳しい顔に戻って、松明を持った護衛とともに暗いヤシ林に消えていった。
「ねえイヴァ」
シャーロットたちがアピアの町を囲む小道までやってきたとき、彼女はぼそりと呟いた。
「シスター・マリー。かわいいでしょ?」
「顔立ちは整っているとは思いますが、かわいいかは俺はわかりません。基準がないもので」
イヴァはシャーロットの顔色を伺って聞いた。
「ヤシュパルから聞きました。恋人にしたいとか、本気ですか?」
「好きになっちゃった、それ以外に言いようがないね。恋人になれるかどうかは僕だけの一方的な気持ちでなんとかなる話じゃないから。うん、本気さ」
「はあ」
褐色肌の大男はしゅんとうな垂れて小さくなった。そんな彼を見ずにシャーロットは「でもね」と言う。
「彼女のことを今日からよく見ておいてほしい。郵便班にテリーザへのロンドンからの郵便を開けさせたら、少し気になることがあったんだ。あの子は今のところそんな匂いはしないけど、万一ということもあるから」
「はっ」
イヴァは暗闇に紛れて少女の表情が読めなかった。
その日もまた、新月だった。