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少女海賊シャーロットが死んだ日  作者: NOTAROU
Chapter 1
4/13

4:アピアへ


「任務達成後、お前の本当の家族と会わせてやる」


 ロイド中佐は二日酔いに痛むブラウンのぼさぼさ頭をさすりながら、あの夜確かにそう言った。寝不足で腫れたまぶたに隠れる青く濁った彼の目は、そのときばかりは少しだけ、ほんのすこしだけ優しいものだった。


 小さい頃、ロンドン郊外の森の中で猫はピストルの腕を彼によく褒められた。もっとうまくなれ、もっと当てるんだ。そうすれば帰ってから好きなキャンディーをくれてやる。


 なつかしい、あの時と同じ目だ。彼にとっては拾った少女の家族も、ひと袋の棒付きキャンディーも等しいものだったのかもしれない。猫は三等船室の薄い毛布にくるまりながら、ぼんやりとそう思う。


「わたしの家族のことをご存知なのですか? わたしはみなし子ではなかったということですか?」


 猫はボスの言葉に食いつき、引きつった笑みを浮かべた。


「だって中佐はおっしゃっておられましたよね。わたしは小さいとき移民地区(イーストエンド)の救貧院にいたって。そこの子供からわたしを選んだって」


「それは事実だ。しかしお前が孤児ではないということもまた事実」


「その人たちはどこにいるのですか。教えてください」


 ロイド中佐は必死に詰め寄る猫に眉毛ひとつ動かさなかった。


「それを今教えるわけにはいかない。それがお前への報酬になるのだからな」


「じゃあこれだけ教えてください。このことはいつからご存知だったのですか?」


「何を聞こうとも今は何も教えない。知りたければ金塊を早く見つけることだ」


「そんな……」


 このとき猫の頭の中ではふたりの自分がせめぎ合っていた。ぐちゃぐちゃになって喧嘩する彼らの主張は真っ向から対立している。ひとりは「薄情者」と言った。怒れ、わたしはこの人に人生を弄ばれていたんだ。


 けれどもうひとりの自分は慌てて宥める。


 ――中佐に褒められること、認められることが何よりの望みだったんじゃないの? 本当の家族といた時間よりも、この人に育てられた12年間の方がよっぽど長いのよ。中佐はイーストエンドで始まる前から終わっていたわたしの人生にチャンスをくれた。今回だってお情けで任務をくれた。そんなひとを罵ろうだなんて、恩知らずなやつ。


 猫は自分の手に握られた透明のピッチャーがぶるぶる震えて、中の水が波打つのをじっと見ていた。すると自然に言葉が漏れた。


「いえ、わがままを言ってすいませんでした。わたしは少し図々しくなっていました。反省します」


 猫はにっこりと笑顔になってロイド中佐に向き合った。


「わたしだって諜報員の端くれ。情報というものの価値はちゃんと分かっております。中佐の教えを忘れたりなんかしません」


 彼女はぴしっと気をつけの姿勢をとった。低い背を高く伸ばし、よく通る声でそらんじる。


 ひとつ、情報は我らの資産である。

 ふたつ、それは軽々に伝えてはならない。誰であっても。

 みっつ、情報提供には対価を。

 よっつ、知る必要のない群衆(モブ)には沈黙を。


「わたしの家族についてもひとつの情報であり、中佐の資産ですから。それを得るためには任務を果たすという対価が必要になる。ねっ? ちゃんとわたしも分かっているでしょう?」


 微笑む黒髪の少女にロイド中佐は少し驚いたような目を向けて、彼女の顔を注意深く見つめる。その探るような目つきが猫をじゅうぶん緊張させたあと、彼はいつもの無愛想な顔つきに戻った。


「本当にわかっているんだろうな?」


「もちろんです。中佐」


「まあ良い。この話はもう終わりだ。次はサモアでの現地協力者(エージェント)について教えておかねばならんからな――」



 こうしてあの混乱の夜は更けていき、猫は自分のどこかで生きているらしい家族について何も聞くことができなかった。けれどそれ以来胸が騒いでなんだか落ち着かない。自分に家族がいるということを考えるだけで飛び跳ねたくなるくらい嬉しい反面、この機会を逃せば一生会えないような気がして怖かった。


 眠れないのだ。サモア行きの連絡船は乗客が少なく、6人相乗りの三等室がせっかく猫の貸し切りだというのに。寝付けないのは船が揺れるせいなのか、はてまた毛布が痒いせいなのか彼女は分からなかった。


「わたし、もうずっと緊張してばかりなんだ」


 そんな寝付けない船上の日々は猫が思っていたよりもはるかに長く続いて彼女をうんざりさせた。ロンドンからシドニーまでの船旅では高速便に乗っていたこともあり、長い航海でも着実に目的地に向かっているという実感があった。けれどこの古い外輪式蒸気船は恐ろしくのんびりしているのだ。


「ちゃんと前に進んでいるのかしら」


 嵐が来てはどこかの島に立ち寄ってやり過ごす。船が波を被れば船員も乗客もいっしょになってバケツリレーをやった。足りなくなってきた食料はまた別の島で船乗りたちが買いに出た。ある島では故障したエンジンの修理に一週間も立ち寄ったのに結局直らなかった。それからはえっちらおっちら昔ながらの帆を立ててサモアへ向かっている。幸いこの海域には立ち寄れる島がたくさんあるらしく、船員たちも、少ない他の乗客も急いでいるものはいない。


 いっしょに乗り合わせた派手な格好の娼婦は、夜ごとに船員たちから金を巻き上げて満足げにしている。


「急いだところでなんになる? ここは海の果て、地球の果てさ。ちゃんと船があるだけありがたいと思わなきゃ」


 誰もかれもみな、ロンドンの人々とは違った時計をおなかの中にしまっているのだと猫は考えることにした。早く任務を終わらせて帰りたいと逸る気持ちにふたをして、彼女も自分の時計を入れ替える。そうすれば鈍行の旅もあんがい悪くはない。ボスが見張っているわけでもないし、ただ飯だって食べられるのだから。


 猫が日付を数えることを止めたころ、船はようやく、本当にようやっと目的地までやってきた。


「ナビゲーター・アイランズ(航海士諸島)だぜ。嬢ちゃんよ」


 船室のドアを叩いた毛むくじゃらの船長に連れられて、猫は甲板に上がった。


 外に出たとたん、強い潮風が旅の間に伸びた彼女の黒髪をなびかせる。


「ここが、ウポル島かあ……」猫はしばらく言葉を忘れた。


 エメラルドの温かい海に先のとがった緑の山々が浮かんでいるのだ。裾に広がる白い浜にはヤシの木が並び、早朝の漁から戻るカヌーのもとに褐色の肌の人々が集まっている。遠くの入り江に目を向ければ、シドニーほどではないけれどたくさんの大小さまざまな船が泊められている。そのそばにはちらほら白い建物が見える。教会の塔のようなものが目についた。それも鬱蒼とした緑に飲み込まれようとしているかのよう。


 美しい島。彼女には他の表現が出てこない。まさに物語に出てくるような、南国の果ての島そのものだった。


 この島の住人たちが猫のその後の人生を大きく変えてしまうことになる。このとき少女はまだそんなことを知る由もなく、それどころか島から帰ることばかり考えていた。


「この島に水道ってあるのかな」


 貧乏育ちでも猫はやっぱり都会っ子だった。


「シャーロットの金塊とやらを見つけて中佐に報告するんだ。早いとこ仕事を終わらせなきゃね」



 こうして船はこの島でいちばん大きな町、アピアの港に錨を下した。船を降りて桟橋を歩いていくと、桟橋のたもとのヤシの木の下に小屋が建っている。彼女が近づいていくと中から若い白人の男が出てきて道を塞いできた。「ちょっと待て」


「お嬢ちゃん、どこの国の人?」


 男は妙な格好をしていた。上半身はカーキ色の立派な軍服を着ているのに下はくたびれた半ズボンに染みのついた白い長靴下を履いている。


「帝国」


「さて、どちらの帝国かな、お嬢ちゃん」


 彼は小屋に掲げられた旗にわざとらしく目を向けた。海風にはためくそれは、もはや南太平洋において珍しくなくなった黒白赤の三色旗だ。示すものはドイツ諸民族の結束と、皇帝を輩出するプロシア王国の優越。そしてはるか遠く西欧の新しい統一国家、ドイツ第二帝国ドイチェス・カイザーライヒの版図に足を踏み入れているという警句。


ヴィクトリア女王の方ブリティッシュ・エンパイアよ。あなたは嬉しくないかもしれないけど」


「そうかい、じゃあ君には港湾利用料を払ってもらう必要がある。ソブリン(金貨)を一枚払ってくれ」


 男は少しなまりのある英語でぶっきらぼうにそう言った。

 猫は固まる。さすがに高すぎる。


「そんなの持ってないわ」


「べつに銀貨や銅貨で払ってくれてもいい。ソブリン金貨は1ポンドだから、シリング銀貨20枚。それかペニー銅貨240枚で勘定が合う」


「だから、そんなに持ってるわけないじゃない。女子供だからって足元を見てるんでしょう。というかそもそも港湾料ってなに? 何の権利があってお金を取ってるのよ?」


「君が立っているここは、ゴーデフフロイ様が私財を投げ打ってお造りになった、ポリネシアで最も大きく偉大な桟橋なんだ。慈悲深い旦那様は同胞だけでなく、他国人も料金さえ払えば利用を許可してくださっている。ここを通りたければ金を払ってもらわないと」


「ちょっと船長さん。なんでこんな桟橋に泊めたのよ? 他にも船を着けられる場所はあったじゃん」


 荷下ろしの準備をしていた連絡船のもじゃ毛船長は、急に怒りの矛先を向けられてぎくりと猫の方へ振り返った。


「怒るなよお嬢ちゃん。うちはゴーデフフロイさんのとこの修繕所(ドック)の世話になってるからな。代わりにここに着ける取り決めがあんだ」


「それはぜひ船に乗る前に言って欲しいわね」


 きつい目の猫に船長は愛想笑いして船の中へ引っ込んでしまう。残された猫は徴収人を睨みつける。


「それにしたって1ポンドは高すぎだわ。豚肉とジャガイモがどれだけ買えるか分からないくらい」


「何とでも言えばいいよ。その代わりここは通さないけど」


 猫は途方に暮れて小屋の前で立ちすくみ、暗澹とした気持ちになった。「最悪だわ」


 照り付ける南国の朝の日差しにじりじり焼かれているのに、猫は冷たい泥水に包まれているように頭が冷えてきた。そのうち後ろから他の乗客がやって来て、やはり徴収人の男に通行料を払っているのを見た。人によって払っている金額が違うのはすぐに分かった。


「で、払う気になった?」桟橋から猫のほかに乗客が誰もいなくなったあと、男が戻ってきて言った。


 男の口調が少し面白がっているような感じがして猫は気に入らなかった。問いかけを無視して、検問の脆そうな白木の扉を見つめる。


 選択を迷っていたのだ。すなわち強行突破か、ここは堪えて支払うか。


 ――ここは突破できたとしても、この先の行動が面倒なことになる。そんなことくらい分かるんだから。


 結局猫は旅行鞄を開けて軍資金の入った巾着を取り出した。けちなロイド中佐から与えられた貴重な活動費はぴったりシリング銀貨20枚。彼女はそれを男に手渡した。


「これでいいんでしょ?」


 うう、ほんとにこれで良かったのかしら。


「お嬢さん、やっぱり持ってたんじゃないか。次からはさっさと出してもらわないと困るな」


 男は巾着の中を改めてにやりと笑い、検問を開けてそそくさと小屋の中に戻っていった。彼女は桟橋に転がる小石を思いっきり海へ蹴とばして、検問をくぐった。


 ようやく港から出てからもトラブルは続く。


「行けば分かるなんて、その説明は絶対に間違ってるわ」


 猫は小さなアピアの町を軽く三時間は歩いて回ったころ、ついにそうぼやいた。ジャングルに囲まれたそれほど大きくはない町のなか、雑貨店や市場を巡り、白人入植者の屋敷や領事館が並ぶ中央通りを注意深く調べても、目当ての場所が見つからない。


「どこなのよ。そのアピアでいちばん小さな教会っていうのは」


 ロイド中佐は島での協力者を用意していた。マーシー女子修道会の修道女、テリーザという人物。彼女はアピアのカトリック教会のひとつをひとりで管理しているらしい。でも町を探し回っても猫はそれらしい教会を見つけることができない。見つかるのは大きく豪奢な白塔の教会ばかり。そこの宣教師たちに聞いて回っても、みな知らないと言う。


 とぼとぼと港まで戻ってきた猫は、憎っくきドイツ桟橋を避けて海沿いの小道をあてもなく歩き、港の端の小さな岬のように突き出たヤシの木立へやって来る。旅行鞄を放り投げ、柔らかな草むらに寝転がった。


「もう疲れたわ。すこしだけ、休憩」


 中佐がこんなところを見たら何て言うかな、そう考えて猫は悲しくなってくる。


 ――怒りもしないだろうな。だって調査どころか、着いて早々有り金をぜんぶ奪われて一文無し。おまけに協力者の居場所すら分からない。きっと呆れてため息をついて、それから……。


 あまりの情けなさにほんとうに涙が出てきた。


「あーあ。何も上手くいかないや」


 でも不思議なことに涙を流すとだんだん心が落ち着いてくる。強烈な南国の日差しを遮ってくれるヤシの葉の下で横になっていると、風が気持ちいい。真昼の青空を大きな白い雲がのんびりと横切っていくのをぼんやり眺めているうちに、気づけば猫は眠ってしまっていた。



 それからどれくらい経ったのか、彼女は人の声を聴いた。


『――から来たのでしょうね。でも――』


『びっくりしたよ。だってこの子の顔が僕の――に――からさ』


『――ですよ。そういうことはもう、やめてください』


 ふたりいる。少年が喋っているらしいハスキーな声。すぐそばから聞こえる。


『ねえ、ヤシュパル。この子を起こしてもいいかな』


『そっとしておきましょうよ。昼寝してるんだから』


 草むらを踏む音がする。声の主のひとりがすぐ頭上に移動してきた。


『でも、このままだとスコールに当たっちゃうかもよ』


『そんなこと言って、またいつものアレなんでしょう? ぼくにはわかりますよ』


『ちっ、違うよ。さっきのは言葉の綾さ。僕はただこの島にこんな女の子が来るのが珍しいから、お話でもしたいと思ったの』


『ぼくはあなたが――してるところを見たくないだけです。せっかくあなたは――』


 そこで猫は両目をパチリと開いた。すると目の前にカオがある。帽子を被った青年がじっと彼女を見つめている。


「だ、誰!?」


「待って。僕たちは怪しいものじゃないよ」


 青年はぱっと顔を遠ざけて立ち上がった。


「ほら、君みたいな子はここらじゃ珍しいからさ。気になっちゃって」


 すると横から褐色の肌の少年がやってきて膝をついた。彼も青年と同じ紺色の風船帽子(キャスケット)を被っている。


「あーあ、起こしちゃった。ごめんなさい。せっかく気持ちよさそうに眠っていたのに」


 少年は真面目そうな顔の口の端で少しだけ笑みを見せた。彼は半袖の白いミリタリーシャツを着て、肩に紐を通して後ろに大きなライフルを背負っている。黒いくしゃくしゃの髪の毛がちょっと女の子みたいにも見えた。


「いえ……、わたしも眠ってしまうつもりじゃなかったから」


 猫は上体を起こし、差し出された少年の手を掴んで立ち上がった。頭が冴えてくるうちに、彼女は自分の置かれた状況のまずさを思い出して焦り始める。いったいどれほど時間を無駄にしてしまったのだろう。


 空を見上げれば、相変わらず白い雲がゆっくり流れている。太陽が真上から少し低くなって今は昼下がりのようだ。


「いけない。日が落ちないうちにあの教会を見つけないと」


「ん、何か用事でもあるのかい?」


 背の高い緑目の青年がにこにこして猫を見つめた。彼は白いブラウスに茶色の長ズボンと編み上げの靴を履いていて、男にしては線が細くて声が少し高い。どこかのお坊ちゃん、といった感じだ。彼についている少年は護衛か何かだろうか、と猫は素早く「観察」を行った。


「あの、聞きたいことがあるんだけど」


「なんだい。お嬢さん」


「シスター・テリーザという人のことを知っているかしら? 彼女に会わなきゃいけないんだけど、居場所が分からないの」


 この町にいるはずなのに誰もかれも知らないのだと、猫はなげやりな気持ちで言った。


 猫の問いに青年と少年は顔を見合わせる。


「驚いた。テリーザに会いたい人がいるなんてね」


「彼女のことを知っているの?」


「うん、テリーザはぼくの友達だからね。でもだいぶ変な人だから、わざわざ会いに行くなんてひとは初めてだよ」


「アピアの教会連中はきっと彼女のことを知っていたと思いますよ。関わり合いになりたくないから黙っていたんでしょうけど」


 横からライフルの少年が口を挟んだ。


「お嬢さん、シスター・テリーザの教会は少し町から離れています。ジャングルの中だからうかつに行くと道に迷うかもしれない」


「大丈夫。僕が君を彼女のところまで案内するよ」


 青年は草むらに転がっていた猫の旅行鞄を拾い上げて、彼女の手をとった。隙だらけのスパイ少女は思わず顔をほころばせた。「ほんとなの?」


 ――まだわたしにも運というものが残っていたんだわ。


「ありがとう! すごく助かるわ」


「いやなんの、ぼくは今日の仕事はもう終わったしね。のんびり行こうじゃないか」


 青年は喜ぶ猫を見て、にこっと微笑んだ。すると後ろにいた少年が不満そうに声を上げた。


「団長、今夜の会合のことを忘れてないでしょうね。帰りが遅くなったらぼくが副長に怒られるんですからね」


「心配ないよ。ヤシュパルは先に帰ってイヴァに事情を伝えておいてくれ」


「おひとりで大丈夫ですか?」


「自分と、それとこの子の身を守ることくらいできるよ。今は昼間だし。イヴァには後でぼくからも話しておくからさ。いいでしょう?」


「団長がそこまでおっしゃるなら」


 猫は話し合う二人を黙って眺めながら、少し冷静になって自分の置かれている状況について考える。彼女は親切な彼らに出会えた幸運を純粋に喜んでいたけれど、それでも最低限の警戒心は保っていた。


 ――まあ、でも大丈夫だよね。もし追いはぎならわたしはとっくに身ぐるみを剥がされているはずだし。


 猫がここでもう少し頭を働かせていれば、彼らについて気づくことがあったかもしれない。でも彼女が気にすることと言えば、スカートの中に忍ばせた小さな銀のピストルをいざという時に素早く取り出せるかどうかとか、そんなことばかりだった。



「ねえ、お嬢さん」


 猫は帽子の青年に連れられて、アピアの町の中を内陸に向かって歩いていた。


「君はこの島の人間でもないし、ひとりだよね。何しにこんな海の果てまでやって来たの?」


「ああ、ええっとね」


 この質問の答えは島に到着するはるか前から用意していた。猫は顔色を変えないように答える。


「修道会の命でシドニーからこっちへ赴任することになったの。島にいるシスター・テリーザの手伝いをするようにと」


「はあ、なるほどねえ」


「そう言うあなたはこの島で何をして――」


 その先を口にしようとしたときどこからか、くぅ―とまぬけな音がした。その音の発生源を少女はぱっと手で隠す。ごまかしきれずに顔を赤らめて笑う。


「……えっと、朝から何も食べていないの」


 ちょうど二人が歩いている小道のそばで島民たちが料理をしているところだった。大きな何かの葉っぱが被せられた焼き石のかまどから、魚が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。もう夕食のごちそうを作り始めているらしい。


「じゃあ、だいぶ遅いけど昼ごはんにしようか」


 青年はくつくつ笑いながら猫を近くの葉ぶきの小屋の中に連れ込んだ。中はシンプルな木の椅子と長テーブルが並んでいて、部屋の奥のテラスで太ったサモア人の中年女性がひなたぼっこをしている。


「おばちゃん、こんにちは」シャーロットは手を振った。


「あら団長さん。今日はお昼が遅かったわね」


「今日は朝の仕事があったのさ。それが長引いちゃってさあ」


 猫はぽかんとしてふたりの会話を聞いていた。どういうわけか女性は流暢に英語を話したので、びっくりしたのだ。「あらまあ、団長さんも大変なのねえ」


「悪いけど今から昼ごはん作ってくれないかな。屋敷で食べても良かったけど、やっぱりおばちゃんのご飯が食べたいんだ」


 テラスの揺り椅子に座っていた女店主は立ち上がって、伸びをする。こっちを見てにっこり笑った。


「仕方ないわねえ。今日はガールフレンドもいらっしゃることだし。できるまでちょっと時間かかるから待ってなさいな」


「おばちゃん。ありがとうね」


 女店主が部屋の奥の調理場に消えたとき、猫はこの親切な青年のことを知りたくなっていた。これは彼女の歴史上画期的な瞬間でもある。このぼんくらスパイ少女はボスであるロイド中佐の命令に関係しないことには好奇心が刺激されないのだ。それこそ、彼女がいま最も知りたがっている家族について仄めかしたりしない限りは。「あ、あの!」


「さっき聞きそびれちゃったんだけど、あなたはどんなお仕事をしているの? 団長と呼ばれていたけど」


 二人は長テーブルで向かい合って座っている。


「ぼくはアピアで商会を運営しているんだ。団長っていうのはそういうことさ」


「商会って、何しているの?」


「いろいろやっているよ。この島の海外郵便配達はシドニーまでぼくらが請け負っているし、軽荷の海上輸送も依頼を受け付けている。島の周りの海難救助もやっているし、()()()()()()()()もうちが任されている。でも主業はやっぱりライムかな。森の奥にライム農園を持っているのさ」


 青年は笑顔のまま、すらすらと喋った。


「ライム業はいいよ。なんたってこの暖かな島では簡単に育つし、需要だってある。ライムのジュースは船乗り病(壊血病)の予防薬にもなるんだ」


「若いのに、すごいことをしているのね」


「この島に法律はないからね。学校なんか行かなくていいんだ。生まれや育ちに関係なく実力次第でお金を稼げる最高の場所だよ」


 島に来る前にロイド中佐がそんなことを言っていた、と猫は思い出している。


『サモアには先住民から簡単に奪い取れる土地が有り余っているし、労働力として使える人間もいる。一方で無政府状態のために警察機構が存在せず、もちろん税関もない。つまりな、商売を始めるにはもってこいの島というわけだ』


 なるほど、確かにアピアの町を歩き回っていたら、英米独の貿易会社の事務所が立ち並んでいる地区があった。町のメインストリートに沿った一等地に立つ社屋の群れが、この島における企業の地位を表しているのだ。


 この親切な青年もそのひとりというわけか。猫はその笑顔の裏を探ろうとして彼の顔をじっと見つめた。


「ん? ぼくの顔に何かついてるのかな」


 猫は頭を使うことは苦手だが、動物的というべき妙な直感の鋭さを見せることがある。彼女は根拠なくこう思ったのだ。


 この青年は仮面を被っている、見せていない顔があると。


 でも猫がこの青年について考えを巡らせたのはここまでになる。青年は任務と無関係。彼についてロイド中佐からの指示を受けていないから深くは考えない、という思考である。


 ――まあいいや。とりあえずいまはこの親切なお兄さんに感謝して、これから島で面倒見てくれるシスター・テリーザのところに連れて行ってもらうのよ。


 そのうち女店主がたくさんの料理を長テーブルに運んできた。青年はズボンのポケットからコインを何枚か取り出して彼女に手渡した。彼女はそれを柄付きのゆったりしたワンピースのような服のポケットにしまって、のんびりとテラスの揺り椅子へ戻っていく。


「わたし、お金持ってないや」


「それは気にしなくていい。君は好きなだけ食べていいよ」


 手持ちが一文も残っていないことを思い出して青くなっていた猫に青年は笑顔で言った。彼は大きな取り皿に焼けたイモや焼き魚を乗せて猫に渡し、魚の切り身が入った冷たいスープを木のお椀によそって彼女のテーブルの前に置く。スミスフィールドの市場の周りだけで育った猫には見たこともないような食べ物で、それも食べきれないくらいたくさんテーブルに並んでいるのが彼女にとって衝撃的だった。猫は緑の大きな目をさらに大きく見開いて料理をじいっと「観察」した。


「こんな食べ物見たことないわ」


「それはね、ココナッツの冷製スープだよ。生魚が入ってるけど、新鮮だから美味しいよ」


「冷たいスープ? 生魚?」


 猫は恐る恐る白いスープを木の匙で掬って、魚の切り身と一緒に口に運んでみる。口いっぱいに甘いココナッツと微かなライムの酸味が広がる不思議な味がする。でも柔らかい切身となぜかうまく絡まっていて美味である。


「あ、おいしい」


「でしょう? いっぱい食べな」


 猫はそれを三杯もおかわりして、その上で焼き魚一尾と蒸したイモをおなかに収めた。青年は焼き魚を齧りながら少女の食べっぷりをにこにこして見つめていた。


「美味しかったわ。でもだいぶ残しちゃった。けっこう食べたと思ったのに」


 猫はそわそわと青年の顔色をうかがっている。彼女が生きてきた世界では食事を残そうものなら次の日は食べ物が貰えないというルールがあったのだ。けれど青年は平気な顔をして自分の取り皿の上も食べ物を残して立ち上がった。


「残していいのさ。ここでは客人は残すのがマナーだからね。ほら、残せば子供らが残り物をご飯にできるだろ?」


 青年はテーブルの周りにどこからか集まった小さな子供の頭を撫でながら、猫の手を引いた。


「まだ、時間はあるよね? せっかくだからデザートも食べに行かないと」



 常夏の日差しを浴びながら青年と少女は汗をかき、町の最も奥、つまりジャングルの入り口まで辿り着いた。そこの煉瓦の小屋にはアイスクリームと看板が掲げられている。青年は店の売り子と親しげに喋ってお目当てのアイスを二つ買った。少し離れたところで彼のコイン巾着を何気なく眺めていた猫はぎょっとした。青年は膨れた巾着の中から銀貨を一掴みとって数えもせずに売り子に手渡したのだ。


「おまたせ、アイスクリームだよ。さあどうぞ」


「うわぁ、ありがとう」


 小さなコップに入った砂色の滑らかな氷菓を前にして猫はごくりと唾を飲んだ。アイスクリームなんて本当に久しぶりだし、まさかこんな遠くで食べられるなんて考えてもみなかった。けれど猫はそれ以上にどうしてもさっきの彼と売り子とのやりとりが気になった。


「ねえ、さっきお店の人に銀貨を渡していたわよね? あれって銅貨と間違えていたりしないかしら?」


 もし売り子が気づいていたのなら、ぼったくりもいいところだと猫はむかむかした。なにせ自分も港湾料という名でぼったくりを受けて財産を失ったばかりである。すると青年は凛々しい顔でふふっと笑ってから、やんわりと彼女を諭しだした。


「いや、ぼくも売り子も間違えたりしていないよ。いつも通り払っただけさ」


「アイスクリーム二個であんなにお金を取るものなの?」


「いや、普通はそうじゃない。でもぼくは銀貨で払うことにしているんだ」


「どうして? お金がもったいないじゃないの」


 やっぱりぼられているんじゃないかと猫は思った。青年の言っている意味が理解できない。すると彼は「食べながらちょっと歩こう」と言ってジャングルに続く小道を進み始めた。


「テリーザの教会はこの森の奥、少し山を登ったところにあるんだ」


 小道の頭上を曲がった枝々が垂れ下がって木漏れ日を作っている。痛いほど強かった太陽光が遮られて少し涼しい。ところどころ水が滴っていて、足元は羽虫が飛び、大きな花が咲いている。まさに生き物の楽園のようだ。木の葉も「にわとり横丁」に植わっていた、不健康そうに萎びたプラタナスの街路樹のそれとは勝負にならないくらい、なんだか元気だった。


 猫はアイスクリームを食べているうちに少し感じていた気まずさを忘れ、初めて見るジャングルに目を奪われる。彼女にとってこの島ではなにもかもが初めてだ。


 気づけば小道は緩やかな上り坂になっていて、道も横に二人並べないくらい狭くなっていた。猫が黙々と進む青年についていくと、突然あたりがひらけた。


「どう? アピアの町がよく見えるでしょう」


 青年は振り返ってふふんと得意そうに言った。

 確かにジャングルに囲まれた小さな町が見えた。遠くの青い海と歩いてきたジャングルの中もよく見える。猫は、あっと小さく声を上げた。


「森の中にも家がたくさんあるのね」


 よく見ると葉葺きの小屋の群れと広場が浜の周りだけなくジャングルの中にも点々とあり、森に溶け込んでいる。そうして見てみると、白人たちの住むアピアの町はなんだか森から隔離されているようにも見える。


「そう、あれはこの島の部族の集落なんだ。このあたりはラウペパという大首長の配下にある氏族(アイガ)の縄張りで、島の中でもかなり重要な地域だ。ぼくの農園もこの近くにあるんだよ」


 青年は空になったアイスクリームのコップを猫から受け取ると、にいっと歯を見せて笑った。


「アイスクリーム美味しかったでしょう?」


「うん、わたしはアイスクリームが大好きなの」


「そうだよね、嫌いな人なんていない。みんな大好きさ。もちろんサモア人だってアイスクリームは大好きだ」


 青年はふと遠くのほうへ目をやった。その凛々しい横顔、滑らかな少し日焼けした顔の輪郭を目でなぞっていると、猫はなぜだかむず痒いような変な気持ちになってくる。


 ――綺麗なひとだな。スミスフィールドにはこんな美形はいなかったわ。


「ぼくは幸いにしてアイスをたくさん買うお金を得ることができるようになったんだ。最近の話さ。でも集落の子供たちはコインを持っていないし、うちの部下たちもぼくに気を遣って贅沢をしない。だからさっきは彼らのぶんを先に払っておいただけなんだ。わかってくれたかい?」


「うーん? うん、なるほどね」


 猫はしかめっ面を解いてぱあっと笑顔になる。


「そっかあ、つまりぜんぶあなたの奢りなのね。太っ腹なのね」


 いったい、あのひとつかみの銀貨で何人分のアイスクリームが買えるのだろうと猫は空想する。きっとたくさんの人が冷たいそれを食べて、少しこめかみが痛くなって、笑うんだ。


「まあこれは最近儲かっているからできるんだけどね。ようやく商いが軌道に乗ってきたところさ。でも、ゆくゆくはこの島をもっと豊かに出来たらいいと思ってる」


 夢があるんだ、と言って青年は微笑んだ。


「僕と仲間たちの手で楽園をつくる。飢えと苦しみから解放される幸福な居場所を。未来永劫、誰にもどんな勢力にも邪魔されない、永遠の理想郷(ユートピア)を。そのためなら僕はなんだってできる」


「……あなたってすごい奴だわ」


「そんなことはないさ。僕はただ、自分の役目に縛られているだけ」


 青年はくすぐったそうに目を反らして遠くの浜辺に視線を向けた。紺色の風船帽子のつばをつまんでひょいとそれを脱ぐと、小麦色の髪が露わになる。帽子からこぼれた豊かなそれは、猫が思っていたよりもずっと長くて艶やかだ。海風になびいて青年の細い首筋をふわりふわりと撫でている。


「ふう、そろそろ髪を切らなきゃな。蒸れると暑くてかなわない」


「あ、あなたってもしかして……」


「ん? どうしたの」


 それはもはや青年と呼べる姿ではなかった。猫は自分の観察力の重大な欠如に少しくらくらしながら、目の前の“彼女”を見つめた。なんでわたしは気付かなかったんだろう?


「わたしったら勘違いしていたみたいだわ。あなたは女性だったのね」


 猫は不思議そうな顔をしているその人をしげしげと眺めた。

 だって帽子を取って髪を下ろしただけなのに青年が美少女になってしまったんだから。でも気付いてみれば確かに男っぽくはなかった。胸が薄いせいで気が付きにくくなってはいたけれど……。


「そうだよ。僕としてはずっとそのつもりだったんだけどな」


「そんなの気付くわけないわ。あなたみたいな背が高くて、男らしくて、かっこいい女の人をこれまで見たことなかったんだから」


「いやあ、照れるね」


 そのとき、猫はようやく考えに至る。今まで喋ってきたその「青年」が誰なのか。


「あ、あのあなたは年はいくつなの?」


「十八歳。1854年生まれ。水瓶座、だったかなぁ」


「わたしの名はマリー・ロイドというの。あなたは?」


「僕はシャーロット。シャーロット・ビーティーだよ。あ、まだ言ってなかったっけ」


 猫は両手で熱い頰に手を当てて、自分の黒髪をぐしゃぐしゃに掻く。今までの自分の言動を必死に思い出して、素性がバレそうなおかしな発言が無かったか精査を始めた。


 ――この人があのシャーロットなんて嘘でしょう? ああ、これは本当に怒られる案件だわ。


 よりによって調査対象に助けられるなんて。食事を奢ってもらって、今から彼女の調査に協力してくれるエージェントのところへ連れて行ってもらうなんて、喜劇でしかない。


 いや悲劇かもしれない、と猫は顔を青くした。もうだいぶ目立ってしまったし、今後こっそり彼女に近づくことなどできないかもしれない。失敗という言葉が頭に浮かんでくる。


 そうしてあわあわと目を泳がせる猫をシャーロットは楽しげに見つめていた。


「マリー。君って表情がころころ変わって面白いね。僕は性別なんて気にしてないから、男でも女でも、好きに思ってくれて構わないよ」


「えっ」


「まあでも、この島では男扱いされた方が都合がいいことが多いから、君みたいに勘違いしてくれるのはむしろありがたいな。島で力を持っている奴らはみんな男だからね」


 あれ、怪しまれないぞ。猫は頰から手を離して、少し落ち着きを取り戻した。

 猫は珍しく頭を働かせて、計算をした。


 ――この状況はむしろ美味しいのでは? 調査対象にすぐ接触できたことはかなりの幸運だったのよ。


「ふうん。わたしもたまに男の子と間違えられることがあるわ」


「君はそれが嫌?」


「どうかしらね。あんまり考えたことなかったわ」


「僕はちょっと嬉しいかも。だって僕は男でも、女でも愛せるから」


 猫はその言葉につられて背の高いシャーロットを見上げた。真夏の日差しはやっぱり眩しくて、彼女の顔がよく見えない。すると、ちょうど日が陰る。猫は自分の姿が深緑の虹彩に映し出されるさまをぼうっと眺め、少し色の薄い緑眼で視線を交差させた。

 そんな彼女にシャーロットがひとこと呟いた。それは最後の爆弾だった。猫の口からへんな声が漏れた。


「それ、本気で言ってる? 変な冗談はやめてよ」


「冗談なんかじゃないさ、マリー」


 僕は君のことが好きになっちゃった。

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