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少女海賊シャーロットが死んだ日  作者: NOTAROU
Chapter 1
3/13

3:赤道を越えて


 蒸気船グレート・イースト号がシドニー港に着いたのは、ロイド中佐から任務について聞かされたあと、何日か経った雲ひとつない朝だった。猫は荷物をまとめて、細いタラップを駆け下りた。


 ――陸地なんて何日ぶりだろう? 足がふらふらする。


 桟橋からセミ・サーキュラ・キィ(半円状埠頭)と呼ばれる港の街並みを眺めていると、猫はまたロンドンに戻って来たのかと頭が混乱してくる。


 港にはヨーロッパへ向かう客船や、大小さまざまのたくさんの帆船が泊められていて、その間を縫って港の対岸に人を運ぶ小さな機帆船が、黒煙を吐きながらごちゃごちゃ行きかっていた。いつも混み合うテムズ川を思わせる活気だった。


「こら、勝手に遠くへ行くな」


 振り返ると後ろから、いつもの気難しげな顔をした上官、ロイド中佐がタラップを降りてくるところだった。「それと桟橋で走るんじゃない。海に落っこちても知らんからな」


「ご、ごめんなさい。早く体を動かしたくて」


「なんでそうお前は元気なのかね」


 はたから見れば微笑ましい親子の会話を聞いて、婦人の一行がくすくす笑いながらタラップを降りていく。ロイド中佐も人受けの良い笑みを顔に貼り付け、会釈で彼らを見送る。そのあと、彼はなんとも言えない複雑な表情になって、長いため息をついた。「まったく……」


「なんだか、まるでロンドンに戻って来たみたいです」


「相変わらず気楽なやつだな。ロンドンの日差しがこんなに強いわけないだろうが」


 ロイド中佐はよれよれスーツの胸ポケットからハンカチを取り出して額を拭った。バーと船室にこもりっきりの彼にとっては久しぶりの日光だったらしく、彼はまた不機嫌そうな顔つきに戻った。


 ――とうとう地球儀の裏側にやって来たんだ。


 猫は頭では分かっていてもやっぱり不思議だと思った。今はまだ1月で、ロンドンを出たときは真冬だったのに、船に乗っているあいだに夏を迎えた。ようするに季節が真逆になっているのだ。


 本当に遠くへ来てしまった。からっとした強い日差しに肌を焼かれる感覚が猫にその実感を与えていた。でも彼女はなぜだかそれが懐かしいような、変な気持ちになった。


「おいマリー、早く来なさい。昼飯にするぞ」


「はい“お父さん”」


 そのとたんにお腹が減ってきて、猫は他のことを忘れてしまう。考えなくてもいいことは考えない。彼女とロイド中佐は埠頭街の人気の多い大通りから外れて、海に面した白い屋根の軽食屋に入った。


 店の中は割合狭くもなくそんなに混んでもいなかったが、ロイド中佐は店の中をずかずか歩いて、店の隅のテーブルについた。ちょうど柱と日避けの板に陰になっていて、涼しい場所だった。


「サンドイッチを二皿にワインと水をくれ」


「かしこまりました」


 給仕に来たそばかすの少女がテーブルから離れたとき、ロイド中佐が海を眺めて大きなあくびをした。古そうな焦げ茶のスーツの襟がテラスから吹き込む風に遊ばれて、ひらひらしている。いつも不経済だと言ってシャワーをさぼるから埃っぽく小汚い姿をさらしている彼だったが、この日はスーツ以外はぱりっと決まっていた。


「おい、娘よ」


「は、はい」


「力を抜け。見ているこっちが疲れる」


 そんな彼の特に整っているわけでもない横顔は、やはり猫にとって緊張感を与えるものだった。けれど猫は今日に限ってそれをずっと見ていたいような気がしていた。


「すこし緊張しているんです。ごめんなさい」


「情けない。こんな単純で簡単な仕事で緊張なんかするんじゃない」


 猫はもうすぐロイド中佐と別れることになっていた。これからはひとりで行動することになる。ことあるごとに彼女を貸し部屋から追い出すと脅していた愛のない父親役だったけれど、それでも彼女にとっては誰よりも重要で、大きな存在に違いなかった。


 ――ちゃんと仕事をできなかったら、もうロンドンには帰れないかもしれない。今度こそ本当に捨てられる。でも、もし上手くいけばわたしの家族に会えるんだわ。


 船室でロイド中佐は約束した。彼がそう言うのだから、そうなのである。猫は本当に自分の家族がどこかで生きているのだと確信していた。


 彼女は女給が運んできた大きなフィッシュ・サンドイッチを夢中で頬張る。不安や寂しさ、未来への期待。いろいろな想いを噛みしめて、1パイントの水でぜんぶ胃に流し込む。そう思うと体重は増えたはずなのに、体がなんだか軽かった。


 ――きっと日差しも、このおいしいサンドイッチも、わたしの初陣を祝福してくれているんだ。中佐だってわたしを信じてくれているはずよ。


 猫がうっかり微笑みそうになる緩んだ口元を引き結んで顔を上げた時、テーブルをはさんで自分を見つめるロイド中佐と目があった。その眼光の鋭さに猫は怯む。目を少しでも逸らせば平手が飛んできそうな、訓練のときの厳しい目。


「この店を出たときから俺とお前は別行動をとる。お前はサモアへ向かい、俺はシドニーに残る。ここからはひとりだぞ」


「はい。承知しています」


「この任務は猫、落ちこぼれのお前に与えた最後のチャンスだ。これまでのお前のように毎日を惰性で能天気に過ごしていてはたちまち騙され利用されるだろう。我が機関はそのような人間を必要としない」


 ロイド中佐の静かな威圧に猫は動けなくなる。


「だから四年後、俺が迎えに来るまでに成長を見せろ。この先困っても助けてくれるものは誰もいない。信じられるもの、頼れるものは自分だけだ。そのとき何があっても信頼できる自分になれ」


 猫は背筋を伸ばし、頬を赤く染めてボスの言葉に聞き入った。こんなに強い言葉をかけてくれるなんて、と胸が熱くなる。彼の一言一句を頭の中で繰り返す。自分を見てくれることが嬉しいのだ。


「任務達成の為にはどんな手を使っても構わん。自分の利用価値を示して俺を納得させてみろ」


 ロイド中佐は猫の目を見据えたまま、よれよれのスーツの内ポケットから黒光りする大きなピストルを取り出してテーブルの上にごとりと置いた。錆止めで真っ黒に焼かれた、年季の入った銃だった。


 猫はそれをまじまじと見つめて手に取った。

バレルはずっしりと重く、上向きに折り曲げると円筒型の薬室が現れ、既に6発の銃弾が装填されている。32口径回転式拳銃(リボルバー)、銃身に刻まれた型番は1861年製スミス・アンド・ウェッソン社モデル2。


「これは俺の私物だ。おまえにやる」


「えっ」


「お前の22口径は非力すぎていざという時に困るだろう。こいつなら人間の頭蓋骨を貫通する十分な威力がある。お前ならば使いこなせるはずだ」


 猫はよく似た銃を持っていた。貧民学校の卒業祝いでロイド中佐がくれた軽くて発砲音の小さな22口径のリボルバー、同じくS&W社製のモデル1だ。それ以来ずっと護身用に持ち歩いていた。


 彼女はその銀色のちっぽけなピストルを気に入っている。反動が小さいから撃ちやすいし、なにより気楽だ。人に当てて怪我をさせることはあっても、当たり所がよほど悪くない限り命を奪うことはない。


 それに比べてどうだろう。この黒い大きなリボルバーは人を殺すための武器だ。


「いいか、こいつが必要になる状況を作らないように立ち回るんだ。だが必要になったなら使うことを躊躇ってはいけない」


「はい」


「使い方はお前のピストルと変わらない。金属薬莢をシリンダーに詰めるだけで良い。ガンパウダーは必要ない」


 ロイド中佐は旅行鞄を開けて銃弾の入った小さな紙のケースをいくつか取り出した。


「これもやる。22口径と32口径のどちらの弾も渡しておく。22口径は手持ちが少し減っているだろうからな」


 猫は心臓が飛び跳ねた。肉市場で人さらいを追いかけた時に撃ったのがばれている。コートについた微かな硝煙の甘い香りに気づかれていたらしい。


「中佐、あの」


 小さくなった猫はぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございます。大切に使います」

 

 猫は壁に立てかけた旅行鞄を膝の上にのせて留め金を外し、中から胸当て用の細長い白布巾を取り出して貰った銃を丁寧に包んだ。それをコイン袋と並べて大事そうに鞄の奥にしまい込み、ぐちゃぐちゃに入った下着や肌着、歯ブラシ、歯磨剤の小瓶やらを上から被せてぱちりと留め金をかける。


 ロイド中佐は猫の嬉しそうな様子にも、彼女のあられもない鞄の中についても何も言わずにグラスを傾けて、ワインをごくごく飲み干した。ポケットから銅貨を何枚か取り出してテーブルに置き、旅行鞄を持って立ち上がる。


「何ぐずぐずしてる。行くぞ」


 それから猫は店の前でロイド中佐と別れた。あっさりした別れだった。いつもの不機嫌そうな、お前の全てが気に入らないとでも言いたげな顔をして、別れ際に彼は言った。


「報告書以上の情報があれば何でもレポートにして郵便で送れ。それから金塊だ。金塊を探すんだ」


「中佐のご期待に添えるよう、尽力します」


「最後に言っておく。お前の行動は常に監視されている。帝国はお前を見ているぞ」



 猫は埠頭街の人ごみに紛れて消える上司を見送って、ついに自分ひとりになった。


 麦わら帽子を被り、地面に置いた大きな旅行鞄を持ち上げて早足で港に向かう。猫は後ろからロイド中佐が見ているような気がした。



「さあて、どの船に乗ればいいんだろう」


 ひとりぼっちの少女スパイはナビゲーターアイランズまで乗せてくれる船を探して昼下がりのカンカン照りを浴びながら船着き場を歩いている。「もし船が最近出航したばかりなら、ここで何日か待ちぼうけになっちゃうわね……」


 そう思っていたとき彼女は、桟橋のたもとに乗船券を売るバラック小屋を見つけた。そこに入って壁に張り出された運航表を眺めていると、例の諸島へ向かう便がふたつもあった。幸運なことにどちらもこの日のうちに出るらしい。猫は自分の頭をぽんぽん叩いた。


「んんぅ……。どっちの船にしよう。便乗料金はあんまり変わらないしなぁ」


 ドイツの貨物船に便乗して目的地へ直行するべきか、はたまた普通の客船に乗ってのんびりポリネシアを巡るべきか。猫はあの地下鉄道の切符売り場を思い出した。急行に乗るか、鈍行に乗るのか。それによく似ていると思う猫。でも彼女の心は決まっていた。


「ならドイツ船に乗る方がいいわね。その方が早く着くみたいだし」


 ――だって、一刻も早く任務を完遂して、本当の家族と会うんだからさ。


 桟橋を小屋の中から眺めるともうドイツの貨物船が泊まっているのが見えた。ロンドンから乗ってきた大型客船グレート・イースト号よりは小さいけれど、それでもかなり大きな帆船だ。船首には上から黒・白・赤のドイツ帝国商船旗が掲げられている。運航表にはあと一時間足らずで出航すると記されていた。その船だった。


「急がないと。プロシアン(ドイツ人)は時間に厳しいって言うから」


 置いていかれたらたまらない。そう思って猫が慌てて乗船券を買おうとしたとき、肩を誰かに軽く叩かれる。「ねえ、小さなお嬢さん」


 それは失言であった。このスパイ少女が「子供」と同じくらい嫌う言葉が発せらせたのだ。猫は緑の猫目を細め、口を尖らせて振り返る。


「はあ? わたしは“小さい”だなんて思わないし」


「えっ」


「わたしにそんな形容詞を付けないで頂けるかしら。失礼よ」


「これは失礼した。すまない」


 小さな猫が見上げると紺の士官服を着た若い男が困ったようにはにかんで、頰をぽりぽり掻いていた。顔立ちは少し幼く、まだ二十歳にも満たないかもしれない、と猫は踏んだ。


「訂正します。黒髪の女人(あなた)、とっても素敵だ」


「で、なんですか?わたしは急いでいるんです」


 猫はいらいらしていた。ポーカーフェイスは大の苦手。やはりスパイなど向いていないのだ。


「お嬢さん、君は旅の人だろう。どこに向かうんだい」と士官。


 すてき、と言われて少し気を良くした猫。


「ナビゲーターアイランズへ。早く行かないと船が出てしまうわ」


 士官は眩しそうに目を細めながら猫が乗ろうとしている貨物船の隣に泊まった、おんぼろの機帆船を指さした。


「もしかして、あの船に乗ろうとしているのかい?」


「違うわ。その隣のドイツ船よ」


 すると士官は目を丸くして急に早口で喋り出す。


「ドイツ船に乗っちゃだめだよ。急いでいるのかもしれないけど、やめときな」


「なぜ?」


「いいから。言う通りにしなよ」


「別に彼らだって違法なことはしていないと思うけど」


 猫は首をかしげた。商売がたきのプロシアンを嫌う帝国人なんかどこにでもいるけど、ここまで血相変えて言うなんて、何か匂うぞ。


理由(わけ)を聞かないと納得できないわ。教えてよ」


 じっと見つめる猫目に負けて、士官は少し迷ったすえ話し出した。


「君が旅人なら知らないのも無理ないけど、サモアに行く途中に海賊が出るんだよ。奴らはドイツの貨物船だけを襲う。それも積み荷を売って稼いだ金をたんまり積んだ、サモアに帰る船を狙うんだ」


「へえ、どうしてドイツ船だけ襲うのかしら」


猫の問いに若い士官は誇らしげに胸を反らす。


「そりゃあ、ここには我らが偉大な大英帝国海軍オーストラリア艦隊が駐留しているからね。帝国の船を狙うなんて艦隊に喧嘩を売っているようなものだから、赤ガラスどももイギリス船には手を出さないのさ」


 猫ははっとした。金塊を奪って消えたくだんの海賊だ。


「赤ガラス、それってあだ名なの?」


「そう。船乗りを皆殺しにするような血みどろの連中っていう意味なのさ。といっても最近はドイツ船しか襲わないし、積み荷を奪ったあとは手荒にせずに船員を逃がしているという話だけどね」


「へんな海賊ね。とつぜん信仰に目覚めでもしたのかしら」


 猫はふと気になった。かつて南太平洋を荒らし回った赤ガラス海賊団は四年前の金塊強奪事件を機にメンバーのほとんどが逮捕されて壊滅したはず。でも海賊はまだこの海にいるらしい。それも、以前の非道ぶりはなりを潜めているという。船上での会話を思い出した。


『中佐は、囚われていたシャーロットが赤ガラス船長に変わってローズ号の指揮を執っていたとおっしゃるのですか』


そのとおり(コレクト)。シャーロット・ビーティーは海賊船を乗っ取った。そして――』


 やっぱりロイド中佐が言っていたようにローズ号を奪ったのはシャーロットなのだろうか。


「ねえ、どうして海軍はその海賊を退治しないのよ。いくら殺さないったって、わたしこの海を渡るのが怖くなってしまったわ」


 猫は若い士官を見上げて不機嫌な顔をして見せる。すると純真な彼はすまなそうに頭を掻いた。


「いやあ、僕も早く退治すればいいと思うんだけどね。でも海賊どもの居所がまったく分からないし、ボートに乗せられて無事に帰ってきたドイツ人たちも捜索にあまり協力的じゃないから、討伐も簡単じゃないのさ」


 それに、と士官は目をすこし逸らして続けた。


「奴らに手を出すなっていう命令がここの最高司令官(コモドー)から出ているのさ」


「そんな、どうして?」


「さあね。僕も提督たちの考えることはよく分からないな。でも、きっと何か考えがあるんだろう」


「イギリス船がやられなければそれで良いなんて、ちょっと冷たいのね」


 おかしな話だ、と猫は思った。ロイド中佐に目を通しておくよう渡された赤ガラスの報告書には、オーストラリア艦隊が、いや司令官のフレンチ伯爵がいかに赤ガラス討伐に執念を燃やしていたのかが彼の恨みつらみとともに記されていた。


 そんな彼が目の前の仇敵を放っておくなんて、ありえる?


「おっと、いま喋ったことは秘密にしておいてくれよ」と彼は慌てたように言う。


 猫は麦わら帽子のつばを少し上げて遠くの水平線に目をやった。きらきら輝くこの青い海のどこかに海賊がいるのだ。でもそれもまた、おかしな話だ。ローズ号を今誰が動かしているかはさておいても、あの船には奪い取った10トンもの金塊が積まれているはずだ。そんな宝を手に入れたくせに、どうしてまだ海賊を続けているの?


 ――だめね、頭が痛くなってきた。わからないことだらけで嫌になるわ。


ふと猫は考える。なぜボスはわたしを選んだのだろう、と。


「水兵さん、いろいろ教えてくれてありがとう」


「こちらこそ。そうだ、船が出るまで時間があるだろ? それまでさ、僕と紅茶でもどう?」


 若い士官は赤い顔でにっこり笑って猫の白い手を握った。そこで彼女は自分が口説かれていることにやっと気が付いた。桟橋に泊められた小さな軍船の甲板から、仲間か部下の水兵たちがふたりの方を見て笑っている。


 猫はロンドンではシャツにズボンにぼろぼろのコートという男の子みたいな恰好をしていたせいで、口説かれることはおろか、少年と間違われることも珍しくなかった。だから、こういう時どんな顔をしていいのか分からなくて困る。


 ワンピース姿の少女はやり場のない目線を足元のコンクリートに落とした。なんだか恥ずかしかったのだ。


「うん。べつにいいけど」


「やった! よおし、じゃあこんな暑くてむさ苦しい桟橋からとんずらして街に行こう。穴場のカフェがあるのさ」



 猫がシドニーの埠頭街から船着き場に戻ってきたとき、日はもうだいぶ傾いていた。桟橋の端っこに泊まっていたサモア行きの客船には旅客用のタラップが掛けられていて、ぱらぱら乗客が乗り始めている。日が沈む前には港を出ることになっているのだ。


 猫は桟橋から澄み切った青空を見上げた。昼間はあんなに日差しが強かったのに、今はすっかり涼しい。遠くの空が黄金色に染められて、水平線上の積乱雲がかすかに赤くなりだした。


 船出の時間が迫っている。猫はちょっぴり寂しいような気がしていた。士官に連れられて街の人ごみの中に入ったとき、こんなところをロイド中佐に見られていたらなんと言われるだろう、とびくびくしていた彼女だったが、それもいつの間にか忘れていた。そういう脇の甘さはロイド中佐がなにより嫌うところであり、彼が言う猫の重大な欠点でもあり、そして不思議と人を寄せ付ける彼女の、彼女自身が知らない魅力だった。


「今日はとても楽しかったわ。ここ数年でいちばん良い思い出になったかもしれない。ありがとう」


「ああ、うん。そこまで喜んでくれたなら連れまわしたかいがあったというもんだ」


 数十分前にプロポーズを断られた若い士官はがっくりとうなだれていたが、顔を上げて嬉しそうにはにかんだ。


「そうだお嬢さん。今更だけどまだ名前を言っていなかったね」


 猫と同じ黒い髪の青年は、マリオンといった。女の子みたいな名前だからよく馬鹿にされるのだと彼はまた顔を赤くした。


「わたしは、マリー。ロンドンからきた」


「また会えることを願っているよ」


「さようならシドニーの水兵、マリオン」


 そう言って猫はずっと重い旅行鞄を持ってくれていた彼に笑顔を見せ、荷物を受けとってタラップを駆け上がった。ほんの数時間だったけれど、黒髪の少女のこれまでの単調な人生のキャンバスにまたひとつ色が増える。もっともこれから数えきれない色が重ね塗りたくられていくのだが、それはまだ先の話である。

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