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少女海賊シャーロットが死んだ日  作者: NOTAROU
Chapter 1
2/13

2:ロンドンの猫

 

 じわりと目に涙を溜め、それを時折コートの袖で拭う。


 黒い髪の少女はひりひりする目をしばたたせ、窓辺から賑やかな通りを見下ろして毒づいた。


「はあ、本当に酷い街」


 窓の外は昼間だと言うのに砂色に煙って薄暗い。空気は工場の煤煙に汚されているから目がちかちかして涙が止まらなくなるのだ。


「スモッグだけはみんなを平等に苦しめてくれるのね。貴族だって喉が詰まって死んでしまうから」


 少女もまた、透きとおった緑の目を持っていた。南太平洋とは違ってここでは良くあるふつうの目だ。充血したその目を少し細め、口角をにっと上げて悪ぶるのが彼女の最近の流行だった。もっとも、誰も見てはいないし、見せるつもりもなかった。


 ここは世界を支配する大英帝国の首都、ロンドン。冬が訪れていた。

 様々な階級、人種、出身の人間が寒空の下この煙った都市で生きる。


「保険引き受け人、トムソン氏。25番地在住。午後4時ちょうど現れる。ベージュの山高帽。今日の買い物はジャガイモと枝肉」


「――露天売薬商、ヒック氏。同じく25番地在住。トムソン氏に続いて現る。咳止め薬とローダナム(痛み止め)が入荷した、っと」


 少女は道行く人々をひとりずつ手帳に記しているところだった。今日はもう10時間はこの「観察」を続けている。思考が止まっても、ペンを持つ手は勝手に動く。


「観察」はなるべく多くの情報が求められる。対象の素性、服装、行動履歴、そして昨日と違うところなど、ありったけの情報を瞬時に記録する。これが「組織」が黒髪の少女に課したその日の訓練だった。


 ここで彼女について、ひとつ。

 彼女には正式な名前がない。「猫」というコードネームがそれに準ずるものだが、もちろんロンドン市民としての身分登録はない。ロシアとの戦争のあと「組織」が調達してきた諜報員候補生のひとりであり、この都会に溢れる無数の“見えない”人間たちに属していた。彼らは帝国を陰から支え、ヴィクトリア女王陛下に忠誠を誓う。


 けれど任務の壮大さに比して彼女の訓練は無味乾燥、意味不明なものだった。「観察」訓練もそのひとつだ。何かを大量に覚えたり思い出したりさせるという奇妙な作業を毎日まいにち黙々とこなして彼女は単調に生きている。それが何の役に立つのかは分からないまま、絶対的なボスの命令に従ってひたすら窓の外に目を凝らす。しっかりそれをやっていれば、いつか自分に名前を付けてやるとボスが言うからだ。


「なーまえ、なまえ。わたしの名前。早く付けてほしいなぁ」


 名前を付けて貰えれば、名付け人と家族になれる。少なくとも少女は本気でそう信じていた。家族が欲しかった。自分を愛してくれる家族が――。


 とはいえ猫はこの「観察」が大嫌いだ。とても頭が疲れるうえに合格を貰った試しがない。観察を記録した手帳を提出する時にいつも呆れられてしまう。


 ――背が低いのが悪いのよ。もっと背が高くなればうまくいくのに。


 猫はその自論に確信を持っていた。というのも彼女のいる集合住宅の二階の小部屋から表の通りを見下ろすには、窓から少しだけ身を乗り出す必要があったのだが、それをするには椅子ひとつぶん身長が足りていなかったのだ。


 ぐらぐら揺れる読書机の上によじ登って、半開きの窓から容赦なく吹き込む真冬の冷気を浴び続けるのはつらい。


 でも決して口には出さなかった。弱音は敗北、死に至る病だ。もしボスの耳に入ったなら、たちどころに居場所を奪われる。文字通り、生活を失う。


 大人に認められて優秀なエージェントになるのか、凍てつく路上でひっそり息を引き取る無数の浮浪者たちのひとりになるのか。こんな単純な訓練でも気を抜くことは許されなかった。


「今日こそはがんばって、あの人に褒めてもらうんだから」


 猫は一緒に暮らしている、いつも無愛想なボスのことを思い浮かべて、着ているコートの襟をぎゅっと掴んだ。ずっと昔にその人が古着屋で買ってくれたチョコレート色のコート。だいぶボロボロになってしまったけど、それは少女の宝物だった。


『候補生の中でお前がいちばん遅れている』とその人は猫をよく叱った。


『頭を使わないやつだな。いつまで待たせるんだ』


 ボスは落ちこぼれに厳しかった。まいにち口癖のように詰られても猫はただうつむくことしかできない。


 ――12年前、お前を拾ってきたのは間違いだった。


 そう言われたとき、それで全て終わってしまうのだと猫は怯える。


「今日は、今日こそは……」


 不幸なことに猫はスパイとしての素質を欠いていたのだ。端的に言って向いていなかった。決して彼女が無能力だったわけではない。身体を動かすことにかけては彼女自身、大きな自信があった。けれどいくら格闘に長けても、射撃の的を外さなくても、ボスはもう昔のように喜ばなかった。組織の求める人材――、それは野山を駆け回って兎を獲ってくる子供ではなく、周囲を精密に観察し決して目立たず騒がず、聡明で地味な「猫」だ。


 猫の能力のミスマッチは例えば尾行訓練において遺憾無く発揮された。


『どうして?』


『ひとりでは乗せられないよ。どうしても乗りたいのなら、お父さんかお母さんを呼んできなさい』


 ある夜のことだった。猫が近所の会計士の後を尾けているとき、ファリンドンの駅舎に入った男を追って彼女も切符売り場に並んでいた。けれど髪を短く切って新聞売りの男の子に扮した格好は場違いだったし、そこで駅員や周囲の注目を集めてしまうのも間違いだった。


『パパもママもいないんだ。でもほら、コインはちゃんと持ってるよ』


 それでも駅員はにべもない。『聞き分けが悪いな』


『きみ、後ろがつかえてるんだよ。子供は帰りなさい』


『だーかーら、わたしは子供じゃないさ。もう16歳、れっきとした大人なの』


『そんなちびっこい16歳があるものかい。早く退け』


 太った制服の切符売りを猫は緑の目でぎりりと睨んだ。「子供」は彼女にとって禁句になりつつある。けれど桃色の頰はまだどこかあどけなく、横一文字に結ばれた口は強がる少年のそれだった。胸の膨らみは雑に巻いた布で押し潰され、本人は男装のつもりでも周囲からはませた子供にしか見えなかった。


『頭のかたいオヤジよね。まったく』


 猫はむすっと気を悪くして駅を出た。けれどそうこうしている間にも汽車が来て尾行対象の男は消えてしまうから彼女は焦った。月明かりの下、線路沿いの道を走ってちょうど駅のプラットホームの端あたりまで来たところで立ち止まる。そして通りのガス灯にするするとよじ登って柵を乗り越え、真っ暗な線路内に入り込む。


『それに比べて今日のわたしは冴えてる』


 彼女はちょうど発車した列車の最後尾の連結器の上で鎖にしがみついてこっそり会計士を追うことができたので、切符なんかいらないじゃん、と密かに喜んだ。


 自分が数分後に不幸に見舞われることなど露も考えない。猫はしがみついた列車が、開業して間もない世界で最初の地下鉄道であるとか、ファリンドンの駅を出てしばらくすると地下トンネルに入ることなど知りもしない。そもそも鉄道というものを彼女はよく知らなかった。ましてや地下鉄道などもっての他であった。


『あんの、バカ娘め』トンネルに入っていく列車を眺めていた誰かが額に手を当てて目を閉じた。


 結局彼女は機関車の煙に巻かれて全身煤だらけになったうえ、スモッグよりも酷い咳にやられてしまう。それでも彼女は無賃乗車を続けるつもりだったが、次のキングス・クロス地下駅で車掌にばれて巡査に追いかけられ、尾行どころではなくなる。


『まったく、最高だわ。十分間で味わえる世界一の旅ね』


 なんとか追っ手を撒いた猫は路地裏でコートの煤を払いながらけらけら笑った。『でもね、もう一度乗る気にはなれないな。わたしにはとても畏れ多くって……さあて、帰ったらなんて言い訳しようか?』


 夜遅くボスのもとに戻った彼女がこってり絞られたのは言うまでもない。


 そんなこともあって猫は落ちこぼれだった。尾行すら満足にできないのだからどうしようもない、と本人も認めていた。それでも怒られてばかりなのは嫌だった。ちょっとくらい褒めてほしかったのである。そう、家族みたいに……。


 だから猫はかじかむ手に息を吹きかけて手帳にペンを走らせ続ける。


「背が低いなら背伸びをすればいい。寒さは我慢すればいいのよ」


 その時、猫は通りの向こうから二人の男が歩いてくるのが見えた。顔を見るまでもなく、心臓の鼓動が一段早くなった。


 ひとりは知らない男。でもそのもうひとりの男こそ忘れちゃいけないこの家のボス。そして「機関」の最先任執行責任者であり、彼女の名目上の父親、ジェームズ・ロイド中佐だった。彼もまた偽名である。


「やった! これで今日はおしまい」


 修練はロイド中佐の帰宅をもって終了となす。猫は不安定な読書机から降り、喜んで狭い部屋の中をぱたぱた走って薄暗い玄関に向かう。「急いでお迎えしないと」


 それからしばらくして玄関の外から物音がした。猫はいつもながらどきどきする。勝手に玄関の扉を開けてはならない、というロイド中佐の言いつけがあったので、猫は扉の前で手帳を持って待つ。けれど廊下から話し声はするのに中佐はなかなか入ってこない。


 何しているんだろう?


 扉の覗き穴から廊下を除いてみると、シルクハットの紳士と小汚いコートを着た山高帽の中年男が立って何やらひそひそ喋っていた。ちなみにロイド中佐とは、その小汚い方である。


 猫が扉に耳をくっつけようとした時、不意に扉が開いた。よろめいて目の前のタバコ臭いコートに飛び込んでしまう。眉間にシワを寄せた不機嫌そうなロイド中佐が見下ろしていて、手振りで「どけ」といった。


「お帰りなさい中佐。ええと、あの、今日の観察記録(ジャーナル)です」


「あとで見る。俺はお客様と話があるから、その間これで晩飯の材料を買って来い」


 ロイド中佐はポケットから黒ずんだヴィクトリア女王の1ペニー銅貨を5枚取り出した。それを猫の手に押し付けると、彼はシルクハットの紳士と居間に入って行ってしまった。


 猫は少しがっかりしたけれど、のんびりしていたら平手打ちが飛んでくるから、急いで貸し部屋の外の階段を下りて通りに出た。相変わらず空気が冷たくて汚くてくしゃみが出る。


「ええと、パンとお酒はまだ残っていたから……。豚肉とジャガイモを買えるだけ持って帰ればいいか」


 猫の住む3階建てのおんぼろ集合住宅は、にわとり横丁と呼ばれる裏通りに面して建っていた。それを抜けて開けた表に出ると巨大な食肉卸売市場が現れる。市場の周辺では路上で小売りをやっているから、彼女はいつもそこで肉を買っていた。


 スミスフィールド新市場。何年か前に完成した真新しい建物だ。辺りにはたくさんの荷馬車が整然と留められ、ロンドンの繁栄を象徴している。けれど、ほんの数年前までここは「地獄」だった。


 路上は運び込まれた鶏やら牛やらと人で揉みくちゃになっていて、屋根のない市場の足元は家畜の糞や脂肪が混じった黒い泥で覆われていた。おまけにすぐそばの屠殺場からむせかえるような血肉の薫りが漂うありさま。猫は以前おつかいに寄ったとき転んでしまい、泥だらけになって泣きべそをかいた嫌な思い出がある。


 不潔で無秩序。自分を紳士だと自負しているロイド中佐は今の市場が建ったとき、シティのど真ん中から野蛮で非文明的な旧弊が消えたと喜んだ。猫はそのことをよく覚えている。


 そう、あの頃はまだあの人もよく笑っていた。

 古着屋でコートを探してくれたり、イタリア人の露店でアイスクリームを買ってくれたりした。


 ――わたしが12歳になって街の貧民学校を卒業してからだ。あの人はだんだんわたしを冷たい目で見るようになったんだ。


 猫はうんと小さいころ、物心つく前に親を失った。「機関」を立ち上げたばかりのロイド中佐は彼女を引き取り、諜報員として育てることにした。シティ・オブ・ロンドンの15か所で同時に育成されていた子供たちの内、15人目のスパイ少女として。


 ――このままじゃきっと、15番目はいらない子ね。


 それだけは嫌。愛されずに死ぬなんて、嫌だ。



「おやマリー、おつかいかい?」


 猫が肉屋の馬車のそばにやってくると女主人がほほえんだ。マリーというのは猫の偽名のひとつ。少しとろくさい、ありふれた奉公人である。


「今日はどうするの?」


 猫はポケットを探ってロイド中佐から貰った銅貨を半分差し出した。残りは青果市場でジャガイモを買うためにとっておく。


「これで買えるだけ豚肉をください」


「それぽっちじゃあ、少ししか切れないわ。相変わらずあんたのご主人はけちけちしてるのね」


 女主人は馬車の荷台に吊るされた肉を笑いながら、ちょっぴり削ぎ落した。その足元を二人の男の子が駆け回っている。「こら、わんぱく坊主ども。邪魔だからあっちで遊んできなさい」


 すると小さいほうの男の子が女主人の足に抱きついて、顔をくしゃくしゃにした。「おかーさん、ジャックがぼくのことぶったんだ」今にも泣きそうだ。


 女主人は眉を吊り上げる。「ジャック、本当なの?」


「だ、だってトムがぼくの石を盗ったから」


 二人の男の子の頭にげんこつが落ちて、お客そっちのけでがみがみ叱る女主人。でも最後にはひとりずつ抱きしめられて、おでこにキスをしてもらえる。猫はそれをじっと眺めていた。


 冬の早い日没が迫り、あたりがだんだん暗くなってきたころ、ようやく女主人は思い出したように猫の相手に戻った。


「マリー、待たせてごめんね。はい、ぴったり1.5ポンドだよ。今夜はステーキにするといい」


 猫は布巾で肉を包んで麻の買い物かばんに入れた。それから女主人に別れを言って立ち去ろうとする。ちょうどその時、彼女の眼はほとんど無意識にさっきの小さいほうの男の子、トムの方へ向いた。


 女主人が次の客と喋っている。そのすぐ後ろの路上に座って新聞を読んでいた若い男が急に立ち上がり、トムに近づいた。するとトムの小さな腰を掴み上げ、彼をわきに挟んでぱっと視界から消えた。女主人は肉切り包丁を取り落とした。


「人さらい!」


 瞬間、猫は走り出していた。


 人ごみの中に紛れながら路地裏に消えようとする男を確実に視界に捉えながら、弾丸のようにまっすぐ追いかける。相手も追手に気が付いたのか、ふっと近くの小道へ逃げた。


 猫もそれを追って狭い路地に入ると、追い詰められた男が彼女にピストルを向けてきた。「おいお前」


「このガキの家族じゃあないだろ。撃たれたくなかったら、どっかいけ」


 猫はこちらを睨む若い男をじっと見つめた。男の片腕に囚われた小さなトムが目に涙をいっぱいに貯めている。暗い路地裏のすえた臭いのなかで、猫は相手の行動を注意深く読み始めた。それと並行して周囲の環境――ひっくり返った生ゴミ樽や小道を挟む落書きされた石壁、割れたガス灯、男の背後に停められた逃走用の小さな荷馬車――を広く見渡して、自身の手足に目標制圧までの最適な行動を伝える。


 動かない猫に思うところがあったのか、男は調子を変えてきた。


「なあお嬢ちゃん、俺も流石に殺しまではしたくねえ。英雄気取りは止めて家に帰れ。こんなの良くあることだろう?」


 わずかな間が流れる。猫はゆっくりと男に背を向けて、路地の入口の方へと歩き出した。すると男がほっとしたように猫なで声で喋りだす。「いい子だ。今日のことはぜんぶ忘れろ。あまい酒でも飲んで、うぐっ!」でも最後は言葉にならなかった。


 コートを翻したほんの一瞬で猫は小さな銀色のピストルを抜き、ほとんど背を向けたまま男のピストルを弾き飛ばした。男は痺れる手を思わず抑えてトムを放す。


 彼女は白い発砲煙を風のようにすり抜けて、石壁を走って飛び上がった。唖然と見つめる男の顔にしなやかな脚がひっかけられ、鈍い音がして男は地面にたたき伏せられる。


 猫はそのまま男に馬乗りになり、頬を何度も打ち続けた。男が気を失って身動きしなくなったとき、彼女の緑の目の下に赤い血飛沫が飛んでいた。そばで見ていたトムは目を見開いて怯え切っている。


「わたしは、英雄なんかじゃないわ」


 肉屋のおばさんの家族がちょっと羨ましかっただけ――。もしわたしが家に帰らなくても、道端で凍え死んで見つかっても、中佐はどうせわたしを忘れてしまうに違いないから。


「トムだっけ? きみはいいよね。家族がいるんだから寂しくないよね」


 天から降ってくる愛情を疑いもせずに受け取る子供たちが妬ましい。けれど猫はそれが壊されるところを見たくはなかった。


「帰ったらお兄ちゃんと仲直りしなよ。そうしないとほら、わたしみたいになっちゃうかもよ」


 それから銃声を聴いて路地に駆けつけてきた野次馬たちに囲まれながら、猫はこっそり自分のピストルをコートの内ポケットにしまった。野次馬たちは落とした買い物かばんを拾ってくれて、猫を口ぐちに褒めた。でも別に彼女は嬉しくなんかない。褒めて欲しいのはボス、ただひとりだけ。


 ――面倒くさいわね。さっさと帰りたいのに。


 そこに肉屋の女主人が走ってやってくる。女主人は愛する息子のもとに駆け寄って、しっかりと抱きしめて、顔に何度もキスをした。野次馬たちの歓声と拍手に紛れて抜け出そうとした猫は「マリー」と呼ばれてぎくりと立ち止まる。


「ああ待って、マリー」


 体の大きな女主人は猫のところまでのしのし歩いてくる。立ち竦む彼女はぎゅうっと痛いくらい抱きしめられてしまう。日々肉切り包丁を振り回して鍛えた怪力である。


「く、くるしいってば」


「ありがとう。あんたのおかげよ」


 猫はされるがままぐったりしていたけれど、目を閉じてちょっぴり悪ぶってにやける。心にかかった黒いもやが少しだけ晴れたような気がしていた。



「あんた、これを持って行っておくれ」


 露店に戻った肉屋の女主人は、荷馬車から牛の枝肉を取り出した。霜が降っている上等な肉だった。息子を取り返してくれたお礼がしたいのだと女主人は言って聞かないのだ。


「ありがとう。でもそれはレストランに売る高い肉でしょう? 味の分からないうちのご主人様にはもったいないわ」


「まあ。遠慮はよしておくれよ」


「うちの貸し部屋には冷蔵箱が置いてないから、そんなにたくさん貰っても腐らせちゃって悪いの」


 猫がそう言って帰ろうとすると、女主人は「じゃあ、そこでちょっと待ってなさい」と怖い顔で凄んだ。


 しばらく待っていると女主人は沢山のジャガイモの入ったかごを持ってきて、猫の手に握らせた。


「ジャガイモ、こんなにたくさん」


 猫はいろいろあったせいでジャガイモも買うつもりだったことをすっかり忘れていた。もうすっかり暗くなってしまったから野菜市場はとっくに閉まっているだろう。これは肉よりも嬉しい。


「これなら長持ちするだろう?」女主人はにっこりした。



 猫がにわとり横丁の貸し部屋に全速力で走って帰ったとき、もうだいぶ時間が経っていたけれど、玄関でカンカンに怒ったロイド中佐が待っている、ということはなかった。


 どうやら、まだ客人の紳士と話をしているらしい。

猫はコートを脱ぎ、綺麗に掃除されたキッチンに入って、シャツを汚さないように黒のエプロンを付けた。


 ――急いで晩御飯の支度を始めないと、あとで雷が落ちるかも。


 ポケットからマッチを取り出して新聞紙に着火し、白いクッキングストーブの引き出しの中に放り込む。


 しばらくするとストーブの上の鉄板が熱くなってきたので水の入った鍋を鉄板に乗せ、それからじゃがいもを水でよく洗ってナイフで皮を剥いて鍋に放り込んだ。豚肉はステーキの大きさに切り分けて塩と胡椒を振って鉄板で焼くだけにしておく。


 猫は料理が良く分からないし、味も気にしなかった。彼女のちゃんと食べられて腹が膨れるならそれで良いという食事観は珍しくロイド中佐も共感するものだったので、この狭い貸し部屋では味気ない料理に文句を言うものはいない。


 猫がステーキと茹でて塩をふったジャガイモを皿に乗せて、エール酒のコルクを抜いたとき、ちょうど裏通りの道路工事が上がったらしく静寂が訪れた。


 居間でロイド中佐とシルクハットの紳士が激しく議論する声が聞こえてくる。『これまで申し上げてきた通り……』


 少し苛ついたような声色は、ロイド中佐のものだ。


『物事は単純です。我が機関、海軍秘密情報室(N S I O)により多くの資金、人材、地位を与えていただきたい』


『しかしね、きみ。いかに帝国海軍が大きいと言っても、無尽蔵の金が使えるわけではないよ』


『ご冗談はもうやめていただきたい。諜報機関の設立は枢密院から海軍本部への公式な要請によるもので、当時の海軍本部委員会の裁可を受けているのですよ』中佐の声が大きくなった。


 猫には向けることのない、激しい声色(トーン)


『なのに、それなのにです。今になって委員会が金を渋るせいで我々の手足が縛られるなどまったく笑えない話ではありませんか。これでは何のために我々が組織されたのか理解に苦しみますな』


『そのために今回君たちへ稼ぎ場を提供したじゃないか。これに関して多少の無茶は大目に見ようと思っているから』


『ありがたいことですがね、我々の自助努力にも限度があります。本来海軍内での適切な予算分配が為されればこんな苦労は無いのです。それに稼ぎ場とおっしゃるが、結局これは他人の尻拭いのようなものでしょうが』


『きみの言いたいことはわかる。私もきみの立場には同情するよ』紳士のなだめるような声がよく通って聞こえる。


『だがきみも知っての通り、そもそも私は海軍が資金を負担することに同意していない。クリミアの戦争(対ロシア戦)の失敗は明らかに陸軍に原因がある。したがってきみが手塩にかけて育てている諜報員たちは本来陸軍省が責任を持ち、その管轄下に置かれるべきもの。私が長を務める現委員会としても、きみたちのような存在はいま特に拡張を必要としていない』


『お言葉ですが、近視眼が過ぎやしませんか。統一したドイツ帝国のスパイが既にロンドンへ入り込んでいるという噂はご存知でしょう? そのうち海軍本部も他人事ではいられなくなりますよ。()()()()()どの』



 議論の熱がいったん治まったところで、エプロンのまま猫は夕食の皿を持って居間に入った。


「お食事の用意ができました、中佐」


 ロイド中佐は料理をちらっと見てから客人に向き直った。


「大したものではないですが、良ければサーもいかがか?」


「いや、私は遠慮しておこう。これで失礼するよ」


 ロイド中佐は紳士の見送りから少し疲れた顔をして戻ってくるとテーブルにつき、黙って食事を始めた。猫も中佐に向かい合って座り、硬い豚肉のステーキにナイフを入れる。


 そのとき窓の淵に雨が当たる音がし始めた。はるか遠くで雷鳴が聞こえる。昼間から使っていた蝋燭が消えかけて部屋が暗くなってきたので、天井の石油ランプをつけると、部屋の中がぼうっと明るくなった。


 猫がテーブルに戻ると小太りのロイド中佐はもう皿の上を空っぽにして、グラスのエール酒を飲んでいた。苦労して硬い豚肉を頬張っていると、彼がじっと自分を見ていることに気づく。のんびり食べていたら怒られると思って猫は少し焦った。


「手帳、見せてみろ」猫が食べ終わるのを見て、ロイド中佐が言った。


「はい、中佐」


 フォークを置いてエプロンのポケットからそれを取り出して渡した。緊張で頬が熱くなる。ロイド中佐はぺらぺらと手帳をめくって、最後まで読まずに彼女に返した。


「やっぱり、お前は全然だめだ」


「はい」


「何がだめか考えたことあるか?」


「はい。でも……良くわかりません」


 やれるだけのことはやっているの! 猫は声を大にして訴えたい気持ちを堪えた。背が低いから窓の外を覗き込むのが辛い、なんてこともさすがに言わない。それに、猫は「観察」が何の役に立つのか何度やっても全く分からなかった。


「お前はこの貸し部屋に俺と二人で住んでいるが、他にも同輩の訓練生がいることは知っているな」


「はい、わたしの他に14人の優秀な部下がいると、中佐は以前おっしゃっておられました」


「そうだ。お前がその手帳の半分にのんびり記録する同じ時間でその優秀な奴らは手帳三冊をインクで真っ黒に染める。しまいには壁を手帳の代わりにし始める。お前にそれができるか?」


 猫は惨めな気持ちでいっぱいになった。


「……次こそはやってみせます」


 うそつき。わたしには無理よ。でもわたしの居場所はここしかないし、小さい頃からスパイ候補生として(そうやって)育てられてきた以上そうする以外の道はない。たとえビリでも、向いていなかったとしても、できないとは言えない。そろそろ潮時かもしれない。


 ――見捨てられたくない。


 猫はうつむいて、震える両手を重ねた。今にもボスが怒り出して、自分に出て行けと言うかもしれない。ロイド中佐は粗雑な外見とは裏腹にひどく落ち着いた男である。怒るときも静かで氷のように冷たい。彼女は人さらいよりもよっぽどボスの叱責の方が怖かった。


 けれどロイド中佐は猫の返答にどうでも良さげな様子で背広のポケットをごそごそ漁って葉巻を取り出した。それを彼女の方へ突きつけて、「火を」と言う。


 猫が慌ててマッチを灯して葉巻に火をつけていると、ロイド中佐が気だるげな声でぼそりと呟いた。


「まあ、これでも前よりはマシになってきたようだな。それは認めてやろう」


「えっ?」


「観察力も集中力もひどいものだが、いちおう向上は見られる。そしてお前には射撃の才がある。身のこなしも悪くはない。あとは忠実で逆らわないところは良い。少しぼんやりするきらいがあるが、まあ良し」


 猫はロイド中佐の顔を見つめてぽかんと口を開けた。中佐が自分のことを褒めることなど初めてだ。今夜は大雪かもしれない。


 あまりにも驚きすぎたから、猫は次の中佐の言葉が完全に耳からすり抜けてしまっていた。


「おい、二度言わせるな」


「ごめんなさい。何とおっしゃられたのでしょうか?」


「任務だよ。明日、俺とロンドンを発ってもらうことになった。今夜中に着替えと装備の用意をしておけ。出発は明朝0400、寝坊は許さないからな」


「任務ですって!? 私が、任務を?」


 そうだ。とロイド中佐は顔色ひとつ変えずに答えた。


「作戦行動領域は南太平洋の熱帯諸島、ナビゲーターアイランズ。作戦期間は今年1872年1月から最長で1876年12月を予定している。潜入調査対象は交易商人、シャーロット・ビーティー」


 ロイド中佐は戸棚から帝国世界地図を取り出してテーブルに広げた。「おいチビ。オーストラリア大陸は分かるな?」


「な、なんとなく。だいたいは」


「その右隣にニュージーランドがある。このニュージーランドから北北東へ千八百マイル(約3000キロメートル)進んだところに位置するポリネシアの小さな島々がナビゲーターアイランズだ。ほら、探せ」


「は、はい!」猫は慌てて地図とにらめっこを始め、中佐の機嫌を損ねないようにがんばった。「見つけました。ここですね」


「最近では現地語にのっとりサモア諸島と呼ばれることもあるから、その名も頭に入れておくように。で、その島々のひとつに調査対象者がいるウポルという島がある。お前はこれからそこへ向かう」


「これから?」猫は自分の声が裏返っていることに気がついた。


「明日の朝、な」


「わたしが、ひとりで行くのですか?」


「俺はシドニーまでは同行するが、その先はひとりで行動してもらう。俺はシドニーから適宜指示を出す形となる」


 猫は目を白黒させた。これまで潜入や工作といった大きな任務を与えられたことはなかった。せいぜい街角での偽情報の流布、尾行調査くらいのものだ。


 ――大仕事だ。初めての。


 これがロイド中佐の信頼の証なのか猫にはやっぱり分からなかった。けれど、ちゃんと期待に応えることができれば中佐だってわたしを認めて、少しくらい優しくなるかもしれない。名前だって付けてくれるかもしれない。そう、家族みたいに。


「よし、では今日はもう休んでいい。明日は早い」


「あのう、それでわたしは何を調査すればいいのですか?」


「それはまた今度伝えよう。長い船旅になるからな。また時間はある」



 夜更けに窓ガラスに打ち付ける雨風の音で目が覚めた。猫は狭い貸し屋のなかのさらに狭い部屋の小さなベッドから這い出て窓の外の誰もいない表通りを眺める。


 もうここには戻れないという根拠のない、けれど強い確信が彼女の頭の中をよぎった。




 それから何週間かして、猫とロイド中佐は暖かな地中海を東に向かっていた。


 大型蒸気船グレート・イースト号の船上で、ふたりはうだつの上がらない中流階級の父娘という「てい」で周りの乗客に完全に溶け込んでいた。ロイド中佐は猫にどこかで見繕ってきたグレーのチェック柄のワンピースと麦わら帽子を与えた。自分もいつものよれよれラウンジ・スーツを着ていたから、不審に思う者などいなかった。


 じっさい、武器を隠し持っていることを除けばただの乗客に過ぎなかったし、娘を放って船内のバーに入り浸る父親の姿も別段珍しいものではなかったのだ。


 初めての船旅に浮かれた猫は、初めのうちは毎日のようにデッキへ上がって海を眺めたり、行きかう船に手を振ったりしていたけれど、ここのところひとりで二等客室にこもりがちだった。「暇ね」


「あーあ。本でも持ってこれれば良かったのになぁ。でも借りっぱなしだと貸本屋が本を貸してくれなくなっちゃうし」


 そもそもまたスミスフィールド区に戻ることができるのか、猫はそのことを考えないようにしていた。


「暇、暇、ひま――――!」誰もいない甲板で猫は夕暮れの海原に不満を聞かせた。それでも少女の口元がへの字に歪むことはなかった。意外に旅を楽しんでいたのかもしれない。


 さて、暇であることはロイド中佐にとっても変わりなかった。けれど見習いスパイ少女と中年のヤニ臭い上司が家族として振る舞うことはめったに無かった。無愛想な父親役は猫に毎朝デッキでジョギングすることを課しただけで、あとはほとんど好きにさせていた。ていのいい放置ともいう。


「最後に中佐のお顔を見たのはいつだろう?」猫は蒸れたワンピースの裾をパタパタ扇ぎながら、ぼやくのだった。


「せっかく初めての二人旅なのにな……」


 ロンドンからシドニーに到着するまでには、開通したばかりのスエズ運河を通過しても、蒸気船の足で二か月近くかかる。猫が二段ベッドの上段で眠った後にロイド中佐は酔っぱらってバーから戻り、猫が起きるころにはどこかへ消えている、という不健康で不純な生活が延々と続いていた。それは狭い貸し部屋で突如言い渡された任務のにの字もない、ゆるい日々だった。


「これは船旅に専念しろってことなのかしら。中佐のお考えはわからないわ。はあ、また走ってこよう……」


 そうしているあいだに船はエジプトのスエズを抜け、インド洋に達してセイロンで石炭を補給。そこから何日かして英領ウェスタン・オーストラリアの港町パースに到着し、一部の乗客をここで下ろした。


 船旅も終わりに近づいてきたころ、猫が堅パンと野菜スープという質素な夕食を取って食堂から客室に戻ったとき、珍しくロイド中佐がいた。よれよれの茶色のスーツを着ていて、顔色が悪い。


 猫はにっこり笑って声をかけた。「お久しぶりです。中佐」


「おうチビ。そこにかけろ」


 ロイド中佐は揺り椅子に座って、二段ベッドの下段を指さした。猫もそれに従って腰掛ける。そして二か月近くもったいぶった話をようやく始めた。「お前の任務について下達する」


「まず調査対象者。ロンドンで言った通り交易商、シャーロット・ビーティーという女だ。こいつの出身はオーストラリア大陸南東、帝国領ヴィクトリア植民地の首都メルボルン。年齢は十八。私兵団をこしらえてナビゲーターアイランズの商業を脅かしていると領事からの通報があった」


 若い! 猫は目を見開いた。わたしとふたつしか違わないじゃないか。


「本来なら現地警察が対処すべき案件だが、くだんの諸島は無政府で警察機構が存在しない。そのうえ、わが帝国民だけでなくドイツ帝国とアメリカ合衆国の商社もそこを交易の拠点にしている関係上、独断で警察力を行使できない」


 ロイド中佐は水の入ったコップに手を伸ばし、ひといきに飲み干した。気分が悪そうだ。


「厄介なことにドイツ側(プロシアン)が我が帝国の介入をとても嫌がっていて、それを無視して行動すれば外交問題に発展しかねない。そこで、我々の出番だ」


 猫はごくりと唾をのんだ。わたしの出番だ。


「お前にやらせることは、シャーロット・ビーティーに接近して情報を集めること。遠隔地ゆえとにかく情報が不足している。担当のオーストラリア艦隊からの情報もはっきり言って信頼できる質ではない。お前が集める情報が頼りだ」


 わたしが頼り、なんて。猫は嬉しい反面、鉛を飲み込んだような息苦しさを感じた。これまで考えないようにしてきたこと。そもそもわたしは中佐の頼りになるようなことをしたっけ? このあいだの「観察」だってひどい評価だったじゃないか。「あの」


「お聞きしたいことが」


「言ってみろ」


「なぜわたしなのでしょうか。わたしなんかより適任の優秀な部下がいるのでは?」


 ロイド中佐はぎょろりと目玉を動かして猫を睨んだ。


「ここまで船旅を楽しんでおいて、なにを言う。お前がいちばん鈍そうで怪しまれにくいと判断した。それだけだ」


 まあいい、とロイド中佐は話を続けた。それ以上の質問はできそうになかった。


「今回お前に与えた任務の目的はシャーロット・ビーティーの私兵団の行動を監視することだ」


「了解」


「しかし、ここからが肝心なのだ。やつは現在ある疑惑の渦中にいる。その疑惑の真偽を確かめ、俺に報告することこそをこの任務の終了条件とする」


「疑惑?」


 ロイド中佐は革のノートを手渡した。中を開くとそこには4年前に起こった金塊強奪事件の詳細が細かく記されている。


『――1868年2月3日 ウェスタン・オーストラリア植民地ジェラルトンにて海賊団のほとんどを逮捕、金塊の一部を押収、されど大部分の金塊とそれを積載していると思われるHMS Rose(軍艦ローズ号)はいまだ見つからず。本省、アメリカ合衆国政府に西海岸の警戒強化を要請』


調査対象者(シャーロット)がこの金塊強奪に関係している、ということでしょうか」


「まずこれを読め」


 ロイド中佐はシャーロット・ビーティーの経歴調査書を大きな旅行鞄から引っ張り出して猫に渡した。


 ――これ、どういうこと? 


 猫は首をかしげざるを得なかった。シャーロットの経歴は6歳を迎えてから全くの白紙だ。おまけにビーティー家自体も消息不明という扱いになっている。メルボルン出身、裕福な官吏の家で育ち、経歴上は失踪。


 けれど再び突如名前が現れる。14歳になってからウポル島にて彼女の名義で現地の港湾担当者と港の利用契約が交わされているのだ。契約は毎年更新されているという。


 ――8年間、シャーロットは世界から消えている……?


「チビ。それをよく覚えておけ」


 するとロイド中佐は唐突に話を変えた。


「20年ほど前、クイーンズランド植民地でゴールドラッシュが起こった。オーストラリア自立の重大な一歩だ。だがそのころから沿岸に海賊が現れるようになった。その犯行には軍艦が使用された。水兵が海賊になったのだ」


「あの、それがシャーロットと関係があるんですか?」


 話の筋が読めず猫は思わず割り込んだ。いつもなら睨まれるところをロイド中佐は無視して続けた。


「この『赤ガラス』と呼ばれた海賊団が後に金塊強奪事件を引き起こすわけだが、それ以前にメルボルンの銀行を襲撃している。今から12年前のことだ」


 ロイド中佐は古い捜査資料を見せた。


「これも赤ガラスらしい残虐で計画的な犯行として記録されている。銀行のロビーに爆薬を仕掛けて行員や客を吹き飛ばし、そこに消火隊と偽った水兵服の集団が押しかけて金庫を襲った。だが幸か不幸か金庫は火災の熱で扉が変形して開かなくなり、仕方なく赤ガラスどもは引き上げた。その時に人質にでもしようと思ったのか、何人か来客の子供が攫われたらしい」


 ――子どもがさらわれた?


 鈍い猫もここでぴんと来た。シャーロット・ビーティーは現在18歳。メルボルン出身。そして12年前は6歳の女の子。


 シャーロットの記録が消えた時期とメルボルンでの銀行襲撃が重なっている。どちらも12年前だ。そのうえ彼女の名前がウポル島の記録に現われたのは金塊強奪事件のあと。そしてここでロイド中佐が意味ありげにこの資料を見せたということは、


「中佐、シャーロットは海賊団と行動を共にしていたと考えられます!」


 猫は嬉々として声をあげたあと、自分の言ったことの意味に気がついて思わず固まった。


 ――幼いシャーロットは両親をそこで殺されて、赤ガラスに囚われたんだ。……史上最低の海賊団に8年も。


 猫はふと肉屋の女主人一家が思い浮かんだ。爆風で壁に叩きつけられ、ぼろぼろになった母親の遺骸を泣きながら揺さぶり続ける二人の子供。その苦しそうな、怯え切った顔がやけに鮮明だった。


「じっさい、その通りだろう」ロイド中佐は淡々と続ける。


「メルボルン銀行にシャーロットの父親、ビーティー子爵の口座があったこと、銀行のロビーにて彼と妻らしき焼死体が発見されたこと、なぜか彼らの幼い娘だけが姿をくらましたこと。そしてなによりその娘が海賊団の壊滅後に再び表舞台に現れたこと。証拠は揃っているのだ」


 猫はいつになく真面目な表情をしていた。


「シャーロットはメルボルン銀行で連れ去られて、それから……ずうっと赤ガラス海賊に囚われていた」


「そう。そして金塊強奪事件のあと何らかの方法で逃げ出し、ナビゲーターアイランズに辿り着いた。ここからは推測だが……彼女は金塊を積んだローズ号ごと手に入れているはずだ」


 あのう、と猫は恐る恐る話に割り込んだ。


「恐れながら申し上げます。それはどうして言い切れるんですか? シャーロットが赤ガラスから逃げ出したことはわかります。だっていま彼女がナビゲーターアイランズにいることは分かっているんだから。でも、だからと言って彼女が海賊船を奪うことができたとは限らないのでは?」


「ほう、それで?」


「調査書には海賊の大部分が逮捕された夜、船には見張りと船長が残っていたとあります。彼らが船で金塊をアメリカに運んで消えてしまったと考えるのが自然ではないでしょうか」


「つまりお前は、シャーロットは海賊船から逃げ出しただけで、その海賊船も載っていた金塊も彼女とはもはや無関係だと。そう言いたいわけだな?」


 縮こまりながら頷く猫に、ロイド中佐はなぜか一瞬口元を緩めた。「お前は相変わらず頭を使わないな。創造性に欠ける」


「あぅ……」


「でも、まあふつうはそう考える。ふつうに考えられただけマシか」


 ロイド中佐は少しだけ機嫌が良くなったらしく、自分のこめかみを人差し指でとんとんと叩いた。


「逮捕された海賊の証言から赤ガラスどもがアメリカに向かっていたことは分かっている。だが西オーストラリア沿岸から遠く離れたアメリカ西海岸へ逃げるのは簡単ではなかったはずだ。その航海の事情を考えれば、見えてくるものがある」


 四年前のあの日、ローズ号はどうやって行方をくらませたのか。ロイド中佐は推理を始めた。


「ローズ号は居場所を特定された以上、逃げるしかなかった。追手は血眼になって探しにくるから、全速力で逃げるために帆だけでなく蒸気動力(エンジン)も使っただろう。ローズ号の石炭搭載量はかなり少ないらしく途中で給炭が必要になる。すると石炭を補給できる港は限られてくる。この意味が分かるな?」


「立ち寄った港が分かれば行方を辿れるということですよね」


「そうだ。事件の後、インドからマラヤ、太平洋全域の石炭補給基地に我が機関の内偵調査が入って港の給炭履歴はすべて調べられたが、ローズ号らしき船が立ち寄った形跡はどこにもなかったと判明している。つまりローズ号は石炭を補給していない」


 ロイド中佐は椅子から立ち上がった。慌てて猫も立ち上がる。


「石炭を補給しなければアメリカまでの到達日数が倍近く伸びてしまう。それどころか食糧の補給もしていないことになるから、辿り着くことができるかすら怪しい。それにも関わらず給炭をしないというのはじつに非論理的」


 彼は朗々と続ける。「たとえアメリカ行きを避けてほかの場所へ向かったとしても無補給というのはあり得ない。カナダを目指したとしても、あるいはバタヴィアを目指したとしても、シンガポールでもヨコハマでも、南太平洋を出ようとするなら必ずどこかの港で給炭が必要になる。海軍で経験を積んだ赤ガラス船長がそんな真似をしたとは思えん。奴ならさっさと給炭して最短の経路でアメリカに辿り着き、金をとっくにさばいているだろう。でもローズ号はそうしなかった。いや、そうできなかったと言うべきだな」


「ええとつまり、中佐がおっしゃっておられるのは――、そのとき船の指揮を取っていたひとが赤ガラス船長ではなかったということですか」


「そう、帰納法的展開さ。あえて給炭しないという妙な行動は、船の指揮官がベテランの船乗りからど素人に交代した、その証左だ。そしてそんな馬鹿な交代が海賊どもの意志で行われたわけがない。ではどのような経緯で指揮官が交代したのか。お前、答えてみろ」


「ふぇっ! え、えーと……」


 猫は必死に議論についていこうと頭をひねった。けれどそれが簡単ならば彼女は日ごろ落ちこぼれなどと呼ばれない。しばらくロイド中佐が考えさせたのち、猫は俯いて降参を口にした。


「不出来なわたしにはわかりません。今回だけ答えをお教えください」


 反乱だよ、と中佐はため息をついて言った。


「操船の素人が船内で反乱を起こし、赤ガラス船長が指揮を取れなくなったのだ。そして海賊船に乗っている操船の素人とくればそいつは乗客なわけがないな。人質か奴隷だ。調査書にはローズ号が当時多数の奴隷を積んでいたいう証言が載っているから、そいつらの仕業と考えられる。そのうちのひとりと目されるシャーロット・ビーティーは海賊団が壊滅したほぼ同時期にくだんの諸島に現れ、今はやたら羽振りが良く、私兵団すら持って現地の領事を怖がらせているときた。もういちど聞く。赤ガラス海賊団に対して反乱を起こし、ローズ号の指揮と金塊を奪ったのは誰だ?」


「……わかりました。だから中佐はシャーロットを疑うのですね」


 猫はちょっと悔しかった。褒めてもらえそうだったのに、またがっかりさせてしまったから。そういう時、人は変に口が回りはじめる。


「でも、さっき中佐は給炭をしなかった行動が非論理的だと、それが赤ガラス船長の意思ではないとおっしゃりましたけど、それはほんとうなのでしょうか」


 ロイド中佐は目を閉じる。異音を探し、聴き当てる調律師のように猫の言い分に耳を傾けた。


「その妙な行動も、もしかしたら赤ガラス船長の作戦で、彼は船をアメリカに直行させずにどこかの島でほとぼりが冷めるのを待つつもりだったのかも……」


 けれど猫の渾身の反論はあっさり否定される。それは極めて考えにくい、とロイド中佐。


「どこかで給炭さえしていれば金塊をアメリカ西海岸の警戒が強まる前に彼らの目的地、サンフランシスコへ運べるのだ。それが金塊を持って逃げるための最適な判断だし、そうしなければ時間の経過とともに捜索包囲網が狭まってむしろ状況は悪化していく。そんなとき南太平洋を離れたいと思わないわけがないだろう」


 猫はテーブルに置かれたピッチャーを持ち上げて、ボスのコップに水を注いだ。


「それにな、ローズ号は大砲を載せた軍艦だ。そんな目立つ船が意味もなくどこかの島に長く留まっていれば、やがて船乗りたちの目に留まり、噂になっているはずだ」


「それでも、まだ誰も知らない隠れ島があるということは考えられませんか」


 猫は少し期待を込めて言った。いつも寝る前の短い自由時間を使ってぼろぼろの貸本を読む猫は、夜更かししながら最近「クック船長の物語」という南洋を舞台にした冒険ものを読み終えた。もろに影響を受けている。


 少なくとも、猫にとって雲を掴むような年の近い少女海賊の反乱より、海賊の隠れ棲む島の存在のほうが信じられた。


「ほら、海は広いでしょう? ポリネシアは南海の楽園だって本に……」


「もうそんな空想はやめろ。物語と現実を一緒にするんじゃない」中佐はぴしゃりと言った。


「言っておくがもはや南太平洋は未踏地ではない。細かい探査によって海図が発行され、列強国が血眼になって島ひとつひとつの所有者を調べ上げる時代だ。海賊島など現代に存在し得ない。なぜ赤ガラスが暴れ回ることが出来ていたのか、それはきまった拠点を持たず神出鬼没を貫いたことに他ならんのだ」


「で、でもローズ号はまだ見つかっていないのでしょう? それに、食料もなくてボイラーも焚けないローズ号は南太平洋から離れられないのですよね。てことはやっぱり、赤ガラス海賊団は今も南太平洋のどこかに隠れているんじゃ……」


 ロイド中佐は水をひとくち飲んでふうっと息を吐く。「言っただろう、海賊島は存在し得ないと」


「そ、そうですよね。無駄口を叩いて申し訳ありません……」


「でもな、隠れ島という考えはあながち間違いではない。さっき俺は列強国が島々を調べ回っていると言ったが、それは南太平洋のすべての島について、という訳でないのだ。まだどこの国の植民地にもならず緩衝地帯とされ、それゆえ列強国が直接手出しできず全容が隠されている地域は存在する」


「そっか! シャーロットがいるナビゲーターアイランズだわ! ローズ号はそこに隠されてる。 彼女がローズ号を奪って逃げてきたとすると、たしかに辻褄が合いますね」


 猫は思わず手を叩いた。でも中佐は喜ばない。「やっと分かったのか」


「まあ、そうだよ。ようするにだ、赤ガラスことローズ号が隠されていてもおかしくない場所に、赤ガラス海賊の関係者と疑われる人物がいるわけさ。そいつがクロ、つまり金塊を持っていると見なすのは何も俺だけではない。領事の報告によると現地では既にそれが噂として広まっているという」


「……とんでもないやつですね、シャーロットという女の子は。海賊を倒すなんて」


 猫はようやく実感が湧いてきた。これから相手にしようとする敵がただものでないことは確か。


「まあ今までの推論はすべて状況証拠の積み重ねに過ぎない。物証はないし、シャーロット・ビーティーの島における実態も不明だ。結局現場に行って情報を集めなければ真実は分からん。今回の任務の意味がこれで分かっただろう」


 だが、とロイド中佐は笑みを浮かべた。明らかに笑った。そんな顔を見たのは何年振りだろう。最近この人はだいぶ変わったんじゃないかと猫は思った。


「俺には奴の元に金塊が絶対にあるという確信がある。14歳のガキがなんの後ろ盾もなく商会を立ち上げることなどあり得ない。偶然にしては出来すぎているのさ」


 大部分の金塊はまだ見つかっていない。金塊強奪事件の報告書にはそう記されていたと猫は思い出す。シャーロットがそれを手に入れているとしたら。ロイド中佐の目がぎらぎら光っていた。


「金塊は10トン。植民地の年間予算に匹敵する価値がある。それを我々が秘密裏に回収できれば、機関は100年安泰だ」


「つまり……、わたしに金塊のありかを探れとおっしゃるのですね」


「そうだ。4年与える。その間は任務を完遂するまで帰ってくるな。それと」


 これに続く言葉が長いあいだ猫を縛ることになった。



 「任務達成後、お前の()()()家族と会わせてやる」

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