1:海賊船ローズ号のゆくえ
蒸し暑い。
船室の窓から吹き込む南国のぬるい潮風が0時を過ぎてぴたりと止まっている。空気のよどんだ部屋のまんなかに、まだ温かな死体が転がっていた。そのすぐそばにひとごろしの少女がひとり。
ひとごろしのシャーロットは返り血でべったり汚れた、だぶだぶの水兵服を脱ぎ捨てて裸になる。弾みで髪留めの紐がぷつりと切れて長い麦色の髪が肩を流れ、鬱陶しそうに手で払った。
「あっけない。こんなもんかよ」
押し殺した笑い声。
死体の手から転がったランタンの灯りが、暗闇の中に殺人者の全身をぼんやり浮かび上がらせる。引き締まったマネキンのような裸体にしなやかな両腕が絡みつき、自分自身を抱きしめていた。その柔らかな左胸をきつくつかんで、少女は止まらない笑みをひっこめようとする。痛みに深緑の大きな目が細められ、虚空を睨み据える。
「笑うな、この人殺しめ」
新しい服を身につけて、彼女は眼前に転がる見張りの死体と血溜まりを跨ぐ。死体のポケットから重いピストルを抜き取って、倒れたランタンを持ち上げた。
「あとひとり、か」
静まり返ったガンデッキに彼女の足音と澄んだささやきが響く。
あとひとりだけ。そいつを殺れば私たちは自由になれる。夜明けまでに船を奪って入り江を出て、それでみんな自由になる。
でも時間はあまりない。失敗も許されない。
こんな好機はたぶん、もう二度と訪れないから。
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さて、海賊の話をしよう。
といってもあの黒髭が死んで、もう三百年。
海賊王国ポート・ロイヤルは大波に呑まれ、最後の楽園ナッソーさえ今はもう失われて久しい。
輝かしく、血生臭い黄金期なんかとっくの昔に風化して、海上は軍によって制圧された。
海賊が狩られる側に下った太平の世にきみはいる。
けれどそんな海の厄介者が完全に消え去ったとは世界史に記録がない。彼らはうまい獲物と勝てる戦術があればいつでもどこでも湧き出てくる、狡猾で惨たらしい連中なのだから。
そう、十九世紀も半分を過ぎた世は大海軍時代にあって、賊は再びあらわれた。海軍船ローズ号が艦隊を脱走し、あろうことか守るべき商船に喰らいついたのだ。
人は彼らを『赤ガラス』と呼んだ。
平穏な南太平洋を荒らし回った艦隊の面汚しへ、大英帝国海軍オーストラリア艦隊の艦長たちが送ったあだ名がそれだ。カラスに例えられる軍艦の真っ黒な船腹が、殺された船乗りと奴隷の血に塗れ、赤く染まっていると強く信じられた。
手口は残虐にして確実。
マストに高く掲げるのは大海を統べる秩序の象徴、ホワイト・エンサイン。威光を纏って船団に悠々と近づき、油断した相手に大砲を撃ち込み黙らせる。あとは乗り込んで金品を盗んでから乗員ごと熱いあぶらにかけるだけ。
単純な欺瞞とはいえ海賊たちはみな元水兵、それで軍艦も本物ときたら失敗はない。みな騙され、奪われ、殺されてしまった。
「まったくとんでもない奴らだよ」
ある日オーストラリア艦隊司令官公室で開かれた幹部会は、葬式じみた重苦しい、いやな空気に支配され、生産性のない会話がぼそぼそと続いている。
「脱走罪に窃盗、強盗殺人に誘拐、また誘拐。好き勝手に暴れまわりやがって」
「討伐隊が返り討ちにあったって話もある」
シドニーの老司令官、フレンチ伯爵はダイニングテーブルを岩のような拳で打ち付けた。大きく震え出した彼のもとに従兵が慌てて駆け寄る。赤ら顔を歪ませて、犬のようにはあはあと喘ぎ、モルヒネを注射してやっとおとなしくなった。
「おれの顔に泥を塗ってくれやがって」
彼の艦隊はもう何年も赤ガラスを取り逃がし続け、その間ストレスで髪がすっかり抜けてしまった。このままでは海軍本部への栄転どころか、今の職をクビにされかねなかった。
「何か案はないのか。奴らを一網打尽にできる妙案が」
新任の若い司令官補佐が困ったような顔を向けた。
「なんだ。言ってみろ」
「わが艦隊は脱走艦ローズ号と同型の艦を3隻も運用しております。これでは敵味方の区別がむつかしいわけです。いっそ同型艦すべてを暫く出航禁止にしてみては」
「だめだ。そんなことをしてみろ。ただでさえ貧弱な艦隊が本当に名前だけになってしまうぞ」
「ですが……」
「これ以上こちらの手数は減らせんのだ。通商航路の警備もおろそかにするわけにはいかん」
この辺境の艦隊司令官の手元にはたった7隻しかない。
それも全て他の艦隊のお下がりで、大砲をひとつかふたつ積んだスクーナー、10から20門ほど積んだコルベットや戦闘スループといった雑多な小型艦の集まりだった。この寄せ集めの小艦隊に、広大なオーストラリア大陸とニュージーランドの全帝国植民地における生命財産の保護という重責がのしかかる。艦隊はその責務をなんとか果たしながら、海賊狩りに十年以上も貴重な戦力を割き続けていた。
「では、せめて符丁は頻繁に変えることです。艦隊内で共有する秘密符丁を変更する周期を早めてみるのです」
フレンチ伯爵は話の途中から首をぶんぶん横に振りだした。
「それも前にやったが、艦隊の誰かが符丁を漏らしてご破算だ。それ以来、符丁の信用が失われたせいで海上で味方同士が出会ってもお互いがあの忌々しい赤ガラスだと間違える始末だ。くそったれめ」
すると、古参の副司令官がグラスを傾けながら思わずぼやいてしまう。
「うちは他の艦隊よりも給料が安いぶん、士気も相応に低いのですよ。担当海域も我が艦隊の規模と比べて広すぎだ。艦いち隻あたりの負担も馬鹿にならない。このままではまた離反者が出てもおかしくありませんな」
頑固者の艦隊司令官はそれを無視して、グラスのウォッカを一気に呷った。
本国が金を出してくれないのだから、どうしようもない。どうせ俺の艦隊も、俺自身も軽んじられているのだ。
「おれのキャリアもここでおしまいか」
シドニー港の外れの静かな司令官公室。彼は運河に面したテラスに出て、真夏の夕暮れどきに特有の涼しい陸風に当たった。ここにいると少しは気が楽になる。
「せめて、これ以上被害が出ないことを願うばかりだが……」
けれど司令官たちがそうやって仕事終わりにのんびりしているちょうど24時間前、無情にも赤ガラスはロンドン行きの金塊輸送船を襲っていた。
そのころ西オーストラリアの港町パースでは、老女がいつものように白い浜辺で午後の散歩を楽しんでいるところだった。「まあ。何か打ち上がっているわ」
彼女は波打ち際に転がる真っ白な太い枝のようなものを見つけた。たまにこうして面白いものが沖から運ばれてくることがある。息子への土産話にでもしようかと何気なくそれに近づき、日傘で突いてみた。
「いやだわ。何か動物の死骸かしら」
腐りきったチーズのような何とも言えない異臭。砂に滲む赤黒い液体。老女は前掛けから老眼鏡を取り出してかけ、白いものをじっと見つめた。日傘を取り落とし、顔は恐怖に歪む。
「あ、足だ……」
パースの町中が大騒ぎを始めるのにそう時間はかからなかった。船団の残骸、そして人の残骸は港や浜のいたるところで発見された。数刻のち、荒野に敷かれたばかりの電信線を通って恐ろしい電報が大陸東部のシドニーへ届けられる。
『船団全滅し護衛艦も帰らず。無数の水夫の手足が浜に漂着。金塊10トン強奪さる』
哀れなフレンチ伯爵はモルヒネの注射器がもう手放せなくなった。
ちょうど同じころ、赤ガラスを乗せた“海賊船”ローズ号はおんぼろ艦隊の混乱をあざ笑うかのようにウェスタン・オーストラリア植民地沿岸を北に向かって悠々と逃走、小さな漁村を見つけて休息に立ち寄っている。
金塊は奪い去られた。ここまでは赤ガラスどもにとって順調そのもの。周到な騙し討ちは成功を収め、あとは逃げるだけだった。海賊どもの気分は羽毛のごとく軽くなり、油断が船内に蔓延する。なにせ事が終われば新大陸での豪遊生活が待っているのだから。
「野郎ども! 船長が俺たちの未来を祝して特別に上陸を許可してくださった。ただし!夜明けまで戻ってこない奴は置いていく。みな延べ棒をひとつずつ持っていけ!」
ローズ号副長のことばに船員たち、いや海賊たちは地鳴りのような雄叫びをあげた。こうして、ふだんは慎重な海賊たちもすっかり金の香りに酔って町へ繰り出し、わずかに船に残った甲板の見張りも心地よい酒に溺れた。
「さあて、何人戻ってきますかね」太り気味の副長は意地悪く笑って、隣の優男を見やった。「さあ船長も、今夜くらい飲みましょうや。ぜんぶあんたの作戦のおかげだ」
「僕はいいよ。あの子を待ってなきゃいけないもの」
松明の灯りから離れた船首楼は暗く、若い船長の表情は夕闇に沈んで定かでない。
「はあ、女でも呼ぶんですかい?」
「ふふ、今日はあの子のために用意したんだよう。ああ、これからが楽しみだなあ」
相変わらず薄気味悪いやつ。副長はこの男がどうも好きになれなかった。まあ話が通じないのはいつものことだが……。
そのとき副長はなぜだかとてつもなく嫌な予感がしたけれど、それも船長が用意した上等のぶどう酒を喉に流せば軽く吹き飛んでしまった。それが運の尽き。
「ああ、美味い。このくそったれな人生で最高の酒だぜ」
いつだって、海賊の最期は悲惨なものと相場が決まっている。これまで何十隻もの商船を屠り、沿岸の町を襲い、子供を攫ってきた彼らにも、精算の時が迫っているらしかった。けれど意外にもその引導を渡すのはフレンチ伯爵の艦隊ではない。
運命が変更されるとき、それは案外あっけない。
そして、変わった。すべてがここから動き始めた。
「今夜、決行する」
長い髪の少女が船倉の扉の鍵穴に口を付けて囁いた。「大人たちはみんな船を降りていった。たぶん、今夜が最初で最後のチャンスだ」
彼女の声は弾んでいた。「いまならすべてをひっくり返せる」
「船を奪うって言うのか?」
扉の向こうから声が囁き返した。声変わりした少し低い少年の声。「あれは本気だったのかよ」
「やらなきゃ、私にも、君たちにも未来はない。船がアメリカに着いてしまえば私たちは用済みなんだ。顔を知っているから殺されるに決まってるさ」
「でも見張りはどうする。四、五人はまだ船に残っているはずだ」
「私が片付けてくる」
「お、俺もやる」
少年の声が興奮で少し早口になった。
「イヴァ。君は厨房からくすねたナイフを持ってるだろ。まずそれをこっちに渡せ。柄を外して扉の下から刃だけ潜らせるんだ」
扉の向こうでごそごそ物音がして、暫くしてシャーロットはよく研がれた銀の調理ナイフの刃を手に入れた。
「私は最後に船長室に行って、船長をなんとかする。船倉 の鍵は船長室にあるから、全てが済んだら戻ってきて扉を開ける。そしたら子供たちを起こして手筈通りすぐに出航準備にかかる」
扉の向こうの声が慌てる。
「待ってくれ、俺も加勢する。俺をここから出してくれ。鍵開けはできるだろう?」
「君にはここにいてほしい。汚いことをするのはもう私ひとりで――」
「俺だって」大きな声のあと、上階を気にしたのか彼は小声になった。「俺だってあなたにこんなこと押し付けたくない。俺もあなたの仲間だろう? 一人より二人いたほうが確実だろう?」
「今回の作戦の言い出しっぺは私だ。すべての責任は私にある」
少年の方も食い下がる。
「あなたは船長のお気に入りだ。船長はアメリカに着いても俺たちと違ってあなたを殺しはしないだろう。あなたが奴隷の俺たちに代わって危険を冒すことはないんだ」
シャーロットは答えなかった。扉を挟んで無言の根競べが始まり、それでも結局彼女は折れなかった。
「じゃあ、はっきり言おうか。君は足手まといになる。私のほうがこういうことに慣れているし、ひとりの方が集中できる。今夜は本当に失敗が許されないんだから」
「そんな……」
「いいね、これは姉貴分の役目だよ」
大丈夫、心配いらない。そう呟いて水兵服の少女は銀の刃にキスをした。
「君は私が戻るまでここで弟たちを守れ。厨房から盗ったナイフが一本ってことは無いでしょう?」
しばらくして少年のかすれた声が小さく返ってくる。「……わかった」
「だけど気を付けてくれ。特に”あいつ”は何をしてくるか分かったもんじゃない」
「それも今日までさ」
「シャーロット。あなたにナファヌアの加護があらんことを」
「ありがとう。じゃあそこで待っていて」
シャーロットは奴隷が押し込められた船倉を後にして甲板に上がった。見張りに残った海賊たちの位置はすべて把握している。彼女には勝算があった。見張りとは名ばかりで今宵はみな酔っ払いだから。影のように忍び寄り、男どもの太い首にナイフを当てて順に片付けていく。眠れる家畜を屠るがごとく、音もなく相手を地獄へ送る。その手際の良さにシャーロットは自分でもぞっとしていた。
何もかも船長から教わった、8年に及ぶ教育の賜物。これを見せたらきっと彼は喜ぶだろうとシャーロットは海賊の遺骸を足蹴にしながら思った。
「大したことない奴らだ。もっと早く反乱を起こせたかもな」
機械的な「作業」は1時間ほどで完結し、シャーロットはとうとう船尾までやって来た。残す標的は赤ガラス首領たる船長のみ。
自分を、大切な仲間たちをさんざん苦しめてくれた大人たちを手にかけることは、シャーロットにとって干し肉に付いた蛆を払うようなものだった。けれどここまで来て彼女の足は急にすくんでしまう。
目の前にあるのは船長室の扉。そこは彼女にとって忘れがたく呪われた小部屋だ。
赤ガラス船長はシャーロットを他の奴隷たちとは別に自室で「飼う」ことを好んだ。それが彼なりの愛だったのだ。少なくともその男は少女のことが好きで好きでたまらなかった。でもそれはひどく歪で惨たらしいものだった。
少女が言いつけを守れなければ、男は愛情を爆発させた。まずこの船室に閉じ込めた。服を脱がせ、鎖に繋ぎ、罰として食事を抜き、先に石が付いた鞭で背中を打ち、ためらいなく腕の関節を外した。怖くて、痛くて、恥ずかしくて、彼女がどんなに泣き叫んでも、おなかがすいてドアノブをかじっても、男は愛弟子を矯正するために手を緩めることは決してなかった。
「ねえティーティー、ぼくにはぜんぜん理解できないよ」
それが長い折檻、地獄の始まりの合図だ。
「どうして奴隷を庇う? お前はあいつらに鞭打つはずなのに、いつも身代わりに鞭を打たれているね。そういうところ、おかしいよ。ねえ、なんでそんなことするのかな?」
「おねがいです。あの子たちにはもうひどいことをさせないでください」
「口答えは絶対に許さない」
船長は子供が殺しをするのを見るのが大好きだったので、気まぐれに奴隷の子どもたちへ襲った船の乗組員を始末するように命じることが良くあった。そのたびにシャーロットは割って入った。すると、にこにこしていた船長は急にシャーロットの長い麦色の髪を掴んで部屋まで引っ張っていき、この恐ろしい儀式を始めるのだった。
シャーロットはこの部屋で唇を噛みしめて戦い、夜をひとつずつ越えていった。涙も枯れた長い、長い地獄の終わりはいつも夜明けだった。血まみれの床に額を擦り付けて何百回目かの許しを請うと、突然船長は嬉しそうに笑って、「許す」と宣言する。
「お前は素晴らしい弟子だよ。ああ、なんて愛おしいんだろう」
「船長、ありがとう」
そうやって抱き合いながら日の出を見てふたりで笑う。船長はその後いつも上機嫌で傷の手当を施して、厨房係においしい朝食を作らせる。それを少女といっしょに口に運ぶ船長はきっと幸せだったに違いない。でもシャーロットは自分が受けた傷を絶対に忘れなかった。
――ぜったいに殺してやる。
シャーロットはランタンを廊下の壁のフックに吊るして、海賊から奪ったピストルを構え、カチリと撃鉄を起こした。ドアを開ける。
でもこの世の中、往々にして思い通りには進まないものだ。
「……いない」
いつも赤ガラスが座っているはずの揺り椅子が微かに揺れている。けれどそこに主人の姿はない。シャーロットの顎に冷たい汗が伝った。
「嘘だ。そんなわけない」
船内は残っている奴がいないかくまなく探し尽くしたはずだ。どこかに隠れていたというのか。
「とにかく、鍵だよ。まずイヴァたちを出してあげないと」
シャーロットは震え始めた手を抑え、揺り椅子のそばにある作業机の引き出しから鍵束を取り出してポケットの奥に押し込んだ。
ふと視線が部屋の窓の方へ向かう。
四角い船尾窓の外は真っ暗で何も見えない。そうだ、今日は新月だったとシャーロットは思い出す。シャーロットの背筋が凍りついたのはその時だった。
黒々としたガラス窓に自分と、もうひとりの顔が小さく映っている。それは嬉しそうに黄色い歯を見せて笑っている。
振り返ってピストルを向けたとき、船長はもう目の前に立っていた。
その顔は一見好青年のようにも見える若々しい男だった。けれど目が異様に小さく、ビーズのように無機質に煌めいている。シャーロットにとってこれほど恐ろしい顔はない。
シャーロットは思わず引き金を引いてしまう。乾いた破裂音と閃光。
放たれた強力な44口径の弾丸は正確に心臓を射抜いたらしく、船長の紺色の軍服の胸から鮮やかな赤い血がどくどくと流れ出した。
「よお、ティーティー。思ったより来るのが遅かったよ」
「せ、船長……」
「殺しは楽しかっただろう? 上手くいって良かったって顔をしていたね」
赤ガラスは抉れた胸を庇うこともせず、嬉しそうに両腕を広げた。よく出来た弟子を抱きしめてやりたい。そんな顔をしている。
「お前があんなに生き生きして殺すところは初めて見たよ。ちょっと感動しちゃったな。でも刺し殺すたびに着替える必要は無かったなあ。僕の見張りどもはみーんな眠っていたんだし」
シャーロットはピストルを恐怖で落としてしまった。海賊の血で部屋の床が赤く染まっていく。
「船長。血が、たくさん出ている。止めないと」
「いい香りだね。新鮮な血だ。お前も興奮するだろう、ティーティー?」
赤ガラスは舌を出して唇をべろりと舐め、シャーロットの水兵服の襟を恐ろしい力でぐいっと掴んで引き寄せた。
「お前は素晴らしい弟子だけど、まだよくわかっていないのかな。結局お前は僕から逃げられないんだよ。お前も僕と同じだ。普通の人間として生きることはできない」
「あんたが、私を壊したんだ。何もかも滅茶苦茶にしたんだ!」
シャーロットは血を失って蝋燭のような真っ白になった船長の笑顔を見るうちになぜだか涙が溢れてきた。胸が締め付けられて痛くて堪らない。
「船と金塊はくれてやろう。じょうずに使うんだぞ」
「くそっ、一生恨んでやる。さっさと死ね」
赤ガラス船長はかくりと力を無くして、シャーロットの襟元から手を離した。そして不敵な笑みを湛えたまま、真後ろに倒れて、死んだ。
こうして、ローズ号はシャーロットのものになった。
「終わったよ。イヴァ」
イヴァは船倉に戻ってきたシャーロットを見て言葉を失くした。真っ暗な奴隷部屋の入り口で、ランタンの灯りを背に立っているその人が、数時間前と同じにはとても見えなかったのだ。
彼女の白い水兵服には点々と赤い飛沫が飛んでいて襟元はべっとり血で汚れていた。けれどそれ以上にイヴァを驚かせたのが彼女の眼だった。涙でぐちゃぐちゃに濡れているのに、その深緑の双眸は爛々と光っている。
イヴァは思わず声を上げそうになった。ひとつ年上のシャーロットがすっぽり隠れるほどの大きな褐色の体をもつ彼でさえ、その眼光に冷や汗を感じる。このとき彼はひそかに憧れていた少女に初めて恐れを抱いた。そしてそれは彼の長い生涯を通してただこの一度だけだった。
「さあ、早く子供たちを起こさなきゃね」
シャーロットは涙を袖でごしごし拭って、いつも子供たちに向けるようなとびきりの笑顔を作った。
「私たちは勝ったんだ」
「ああ、ぜんぶシャーロット、あなたのおかげだ」
「ねえイヴァ」
シャーロットは笑顔のままイヴァに尋ねた。
「私、英雄に見えるかな?」
声がかすかに震えている。その瞬間、イヴァはとてつもない罪悪感に襲われた。
――やっぱり彼女を止めるべきだったんだ。あの時ナイフを渡さなければ。
いつもいつもこの人に助けてもらってばっかりで、何もできない自分がどうしようもなく情けなくて、悲しかった。
でも彼女のおかげで俺たちは助かった。もう死体を見なくてもいいし、それをばらばらにさせられることもない。
「シャーロット。あなたは俺たちの英雄だ。初めて会ったときから、これからもずっと」
イヴァは少女に歩み寄り、大きな腕で彼女を強く抱きしめる。
「あなたは俺たちを救ってくれたんだ。感謝します。これからはずっとあなたに尽くすよ」
「ありがとう。イヴァ」
シャーロットの泣き笑いはいつもの優しい目に戻っていた。
ふたりは船倉に閉じ込められていた子供たちを上甲板に連れ出した。みんな大人たちのいない船にはしゃいでいる。彼らは赤ガラス海賊団に拉致されて奴隷にされた子供たちだった。
ニューギニア、フィジー、クイーンズランド、ニュージーランド、そしてサモア。南太平洋のありとあらゆる土地から親もろくに知る前に攫われてきた。年長のシャーロットはメルボルンから、イヴァはサモア諸島から誘拐され、赤ガラスに長いこと囚われてきた。
けれど1868年の夏の終わり、シャーロットの献身は皆に自由をもたらした。ここでひとつ、果てなき歴史の大海に小さな波が立てられたのだ。それはやがて大きなうねりとなって、たくさんの人生を巻き込んでいく。
「みんな、聞け。今日から私がこのローズ号の船長だ。この船に積まれた金塊の山も私たちのものだ」
いつのまにか吹き始めた南太平洋のぬるい夜風が上甲板を吹き抜け、子供たちのボサボサの剛毛をくすぐり、シャーロットの長い髪をはためかせた。
「これからみんなをひとりひとり生まれの島に帰そうと思ってる。もちろん金も持たせてやろう。でももし、私と一緒に残って、私の夢に協力してくれるという奴がいるなら、手をあげてくれ」
子供たちは競うように飛び跳ねたり、背伸びしたりして手を上げた。
「シャーロットとずっと一緒がいい!」
「お姉ちゃんの役に立ちたい!」
55人の弟たち。ひとりのこらず手を上げてしまう。
「おい、無理じいしてるわけじゃないんだぞ。帰りたい奴は家をちゃんと探してやるって……」
シャーロットは喋りながら自分の過ちに気がついた。
こいつらは家族も故郷もわからない。この最低な船が故郷なんだ。そしてシャーロットはもうひとつ気づく。それは自分も全く同じだと。メルボルンに帰りたいとはもう思わない。
「私の家族はみんなここにいるじゃないか」
それが嬉しくて、シャーロットの頬にまた涙が伝う。
こいつらの未来を絶対に明るいものにしてみせる。もうつらい思いなんかさせない。私がみんなの理想郷を作る。そしてそれをずっとずっと守っていく。誰にも邪魔などさせるものか。
そう決意した瞬間、彼女の深緑の双眸がまた不気味に煌めいたのだが、今度は誰も気付かなかった。
イヴァもゆっくりと手を上げてシャーロットに笑いかけた。
シャーロットの夢。それは何だろう? 何であろうとも、彼女に救われた命を使って報いるのだ。イヴァはこの誓いを胸に刻み、生涯忘れることはなかった。
「シャーロット、夜明けが近い。早く船を出そう」
イヴァはシャーロットと目配せした。シャーロットはメインマストによじ登り、声を張り上げる。
「みんな配置につくんだ。こっそり勉強してきた成果を見せるときが来たぞ! それっ錨を上げろ! 帆を揚げろ!」
「ボイラーの火を落とすのを忘れるな! 煙を出しちゃだめだ! 何人たりとも本船を追跡することは許さん!」
朝になって酒場から戻ってきた海賊たちは自らの目を疑った。「おい見ろ。船が……」
母船は消えてしまっていた。乗せてきた金塊ごとそっくり。そこには静かな入り江が何事もなかったかのようにあるだけだ。
海賊たちは口々に罵り合いを始め、それは殴り合いになり、殺し合いとなった。
「ちくしょう! 俺たちは裏切られたんだ」
みな船長と見張りの奴らに置いていかれたと考える。わずかな金塊を持ち出して街に繰り出した昨日の自らの浅はかさを呪った。悔しくて悔しくて仕方がないから、暴れるしかないのだ。
幸運なことに誰ひとりとして船長の「おもちゃ」のシャーロットが反乱を起こしたという考えには至らなかった。
騒ぎを聞きつけたウェスタン・オーストラリア植民地警察が生き残った海賊をしょっ引いた時はただの酔っ払いの喧嘩に過ぎなかったけれど、彼らが持っていた金塊の一部が話を大きくしてしまう。
「お前たち水兵だな。どこの港の所属か」
胸の星バッヂがまだぴかぴかの若い警察官が牢の前で仁王立ちしている。「黙っていても、いずれ調べがつくからな」
小さな村の小さな詰所の留置牢は荒くれものでいっぱいになり、平和に慣れきった警官たちは突然の大仕事に困り果て、若手もみんな駆り出された。
「へっ、乳臭い田舎のガキに喋ることなんかねえ。引っ込んでろ」
「いつまでそんなこと言ってられるかな。水兵さんたち」年若い巡査はどっかりと牢前の椅子に腰を下ろした。「あんたら、ことによっちゃただの騒乱罪で済まないぜ」
警官はにやりと笑った。
「持っていた金塊はどこで手に入れた。いや、どこから盗ってきた?」
この時点で金塊強奪事件は現場から500キロ近く離れたこの開拓漁村には伝わっていない。けれど海賊たちにとって悪いことに、その巡査は怠惰な同僚たちの間でいちばんの切れ者。そしてもっと悪いことに彼らはもう、じぶんたちが思っている以上に有名だった。
「旅人の噂で聞いたことがある。軍人崩れが軍艦を使って海賊をやっているらしい。確かあだ名は、真っ赤なカラスとか」
こうして、ローズ号の海賊たちはあっけなく、そして彼らに言わせれば最も不名誉な形で捕まった。
二週間後、彼らの身柄はシドニーの艦隊本部に移され、銃殺か証言による延命か選ぶ自由を与えられた。取引にすんなり応じた海賊のひとりが脱走軍艦ローズ号のこれまでの行動を語り始めた。
海賊は言う。
「船長と仲間の何人かが俺たちが船を下りてる間に船を出して消えちまったんだ。今頃金塊の山分けをしているんだろうな。忌々しい」
尋問官は微塵も反省のない海賊になかば呆れながら、彼の言うことを聞いているうちにあることに気が付いた。
かなりの数の海賊たちを捕えたいま、誰がローズ号を動かせるのか?
ローズ号、王立海軍年鑑に載っているロザリオ級11門型戦闘スループの一隻、この船は確かに軍艦としては小型の部類に入るものだが、はたして船に残った数人の海賊たちで動かせるような代物なのか。しかし、沿岸から姿を消した以上どうにかして航行していると見るべきだろう。となると海賊以外の誰かが操船に参加したことになる。初老の尋問官は首をひねって海賊に問うた。
「船に奴隷か、誰か便乗者は乗せていたかね」
「ああ、雑用係のガキどもを50人くらい船倉に積んでたぜ」
「では、彼らが船を動かしたとは考えられんかね」
海賊は青く腫れた顔を歪めて呵呵と笑う。
「奴らに何か出来たとは思えねえな。帆の扱いも分かっちゃいない連中だ。だいたいあの夜はもう、奴らの仕事は終わっていたし、船倉に鍵をかけて閉じ込めてたからな」
「そうか、わかった」
初老の尋問官は白いひげを指でねじり始めた。これは彼が何かとても集中して考えごとをしている時の若いころからの癖だった。
彼の頭の中にはある光景が思い浮かんでいたのだ。
それは照り付ける太陽のもと、真っ黒な軍艦が子供たちの手によって大海原を突き進む姿。
「いや、まさかな」