第五話 凋落の兆し
時は二日前の早朝に遡る。
場所は山岳部から繋がる平野に建てられた、リダーニュ盟約連合の西の玄関口であるプラデラ城。
この城は堅牢な平城であった。
堅牢さの理由は、天然の水塹とも呼べる東から流れる暴竜川の支流の南に居を構えている事と、小高い丘陵に築かれ、三段の郭から成る輪郭式縄張に似た構造に依る所が大きい。
その主郭は、中央に四階立て天守塔が立ち、その周りに武器庫や兵糧庫、兵士の食事を仕込む炊事所、家臣や兵士達の詰め所、城主の屋敷などが建っていた。
大の男が十人分ほどある高さの歩廊付き石壁で囲われ、四方には連射式バリスタを備えた石壁よりも高い防御塔が空と陸を睨んでいる。周りを空掘りが主郭を囲い、主郭と二の郭を繋ぐ主郭門が南を向いて存在した。
二の郭も主郭のように、歩廊付き石壁と空掘りに囲われ、防御塔を四方に八つ備え、三方にある櫓付き二の郭門が三の郭へ繋ぐ通路を塞いでいる。
三の郭も石壁と空掘りで囲われており、防御塔を一六ほど備え、櫓付き小口が南にあり、小口の門は喰違いに西を向いていた。
この城の始まりは平原の民に備える城塞都市で、最初こそ今のような主郭しか無かったが、交易の要衝でもあるプラデラは、徐々にではあるが必然的に発展し、やがて城壁から街が溢れ出ると現在のような三段の郭から成る要塞に変化した。結果的に主郭にあった城下街は三の郭の外に移設され、南へ向かって扇状に広がる形で発展した。
斯くしてこのプラデラ城は、リダーニュの西の玄関口という立地、リダーニュでは珍しい平野が広がる土地、交易の要衝であるという要素がプラデラ城の価値を、敵味方双方において更に高める事となる。
この城の天守塔にある雅趣に富んだ黒壇床の広間にて、竜貴王ヴェルコ・ティーゴと二四名の家臣団が軍議を開いていた。平間にはティーゴ家の御紋である、丸に反り四つ菱の紋様が描かれた紅い垂れ幕が一番奥に四つほど壁に掛かっている。
「アルボ・プラデラ・ゼーン。此度のプラデラ城の防衛、誠に大儀であった」
広間の一段高い奥の椅子に鎮座した竜貴王ヴェルコが、彼の目の前で跪座するプラデラの領主アルボを労う言葉を掛ける。ヴェルコの御姿は朱色の防寒騎乗服の上に、優美な胸当てを身に着け、長い黒髪を白布で一つに纏め、先代竜貴王が見染めるほどの母に似た、美麗な顔立ちであり、御年若く二八であった。
ヴェルコが労ったアルボと言う少し肥えた見た目の中年男は、先代竜貴王の娘婿に当たり、リダーニュ盟約連合を西の帝国から守り続けた大黒柱の一人である。
「はっ、有難きお言葉を頂き恐悦至極! ですが、帝国方はヴェルコ様の援軍を見た途端に包囲を解き、ゲンゲ原へ一時撤退を致しました! であるならば、プラデラの城をお救い下さったのはヴェルコ様に御座いまする!」
ヴェルコが跪きながら頭を深く下げるアルボに、母親譲りの美女と見間違うほどの微笑みを向けて言った。
「長きに渡りこの地を守ってきたのは、他でもない父の娘婿である貴殿だろう。その忠義に私も応えたいと思う」
そのように述べたヴェルコが、自身の傍に控えている従卒に指図し褒美を持って来させた。
ヴェルコが持って来させた物は長い長剣であり、これはリダーニュに古くから伝わる、刀身に竜の姿が彫り込まれた宝剣だった。鞘も雅な装飾が施されて、輝く宝石が竜座のように蛇行して嵌め込まれている見事な物だった。この宝剣の名はファヴニルと言う。
家臣の者達が一様に「おお!」と歓声を上げて身を乗り出して、アルボの長年培った栄誉を称えるかのように燦々と耀く宝剣ファヴニルを見た。
当のアルボは宝剣を手に取らず、冷や汗を滝のように流しながら目を上下左右に泳がせて、思いよらぬ褒美に酷く動揺しているようであった。
「どうしたのだアルボよ。受け取らぬのか?」
不思議そうに目を細め首を傾げるヴェルコ。そして、その主の怪訝な目に耐えかねたアルボが「い、いえ! い、い、頂きまひゅる!」と頭を深く下げて宝剣を手にした。
「ファヴニルの余りの眩さに、ゼーン殿も直視出来なかったようで……はっはっは!」
そう言って笑い声を上げたのは、リダーニュ南のモントに隣接する領地であるテーロウの領主、ネーゴ・カヴェルノである。御年、四一になる、この賢そうな男は先代竜貴王のフィドの晩年に仕え、瞬く間に重臣筆頭の座へと昇りつめた有能な男であった。姓を竜貴王と同じティーゴを名乗る事を許され、ティーゴ家の本家と婚姻関係を結ぶなど先代竜貴王に大層気に入られた人物である。
竜貴王の一門であるネーゴは続けて言った。
「ですが、目下の問題は、帝国方の上空を漂っている大きな物について……ですな。帝国方はその下に野戦陣地を拵えて、まるで我らと野戦での決戦を望んでいるようで御座います。ヴェルコ様、如何なさいますか?」
ヴェルコが真剣な表情を浮かべて頷き、家臣団の一番後ろで立ったまま顔を伏せているエーバル・ラダーザに視線を投げ「エーバル殿、貴殿は亡き父上の懐刀と目されたお方。何か意見がおありですか?」とエーバルに意見を求めた。
このエーバルの容姿は浅黒く染め上げた厚い皮の防寒騎乗服の上に、赤茶の熊皮で出来た袖なし上衣を纏い、白髪交じりの黒髪を一房に纏めていた。歳は今年で三八になる。
彼は素早く跪き、顔を伏せながら進言した。
「では、お言葉に甘えまして……一つ、二つ意見を述べさせて頂きまする。まず、帝国方の陣地上空を飛んでいる布のような物ですが、あのような児戯の類は無視をしてよろしい。ここは定石通りに我ら飛竜衆が、地竜衆や歩兵衆を援け、帝国方の陸の戦力を削ぎ落していくだけで難なく勝てまする」
何時もなら、このような定石通りの戦をするはずであり、エーバルの意見通りに事が運ぶはずであった。
ところが、家臣団の面々の中で一際にエーバルに対しての不信感を爆発させた者がいた。シャルギ・メサゴと言う名のヴェルコから全幅の信頼を寄せられている竜騎士であった。彼は先代竜貴王の側近で、今も今代竜貴王ヴェルコの重要側近である。
さらにエーバルにとって不幸であったのは、彼は前々から竜騎士にあるまじき性格のエーバルに対して、油虫でも見るかのような並々ならぬ嫌悪感を抱いていた事である。エーバルとシャルギの仲は険悪であった。
「臆したかエーバル! 我らの領分足る空が脅かされておるのだぞ! 飛竜衆の竜騎士としての面目を彼奴等は潰しておるのだ! それを放っておくとは貴殿は本当に竜騎士なのか?! ……ヴェルコ様、狸騎士のエーバルめの意見などは無視して、あの布袋は飛竜衆で落としましょうぞ! 陸は地竜衆らに任せておけばよろしいではありませぬか!」
重要側近であり、エーバルよりも家の格が高いシャルギの一声に中てられた家臣達が「空は我ら飛竜衆の物ぞ!」「シャルギ様の仰る通り、陸は我ら地竜衆と歩兵衆にお任せあれ! 帝国の弱兵なんぞ恐るるに足りず!」と口々に叫んだ。今までのリダーニュの戦の定石が、シャルギの一声で空の彼方へ飛んで行ったと言わんばかりの様相である。
『リダーニュは領土拡張をそれほどして来なかった故に、今のような戦で稼がねばと家臣達は揃いも揃って焦っておるのだ。極めつけは先ほどの宝剣であろうな』とエーバルは冷静に彼らの心情を読んだ。
これにはエーバルも呆れて二の句が告げられず、ひたすらに虚空を見つめて黙り込んだ。それを見たヴェルコが深く頷き「では、シャルギの意見を採用する。皆もやる気に満ちておるし、戦と言うのは勢いが大事だと父上も仰っていた」と満足そうに軍議を締めくくった。
これにて軍議が終わった。決まったのは策など何も無い、陸と空の連携も無い、 単なる平押しである。
広間から全ての者が立ち去り、最後に残ったエーバルが溜息を付きながら天井の染みを眺めていると、一人の男がエーバルに話しかけた。
「エーバル様、軍議はどのようになりましたかな」
彼はエーバルの一つ下の年齢でラダーザ家の家臣である。風貌は人の好さそうな顔をしているが、一度戦に出れば苛烈になる男でエーバルの若い時の従卒でもあった。名はレコルド・アルトムと言う。
「空の敵は飛竜衆が相手取り、陸の敵は地竜衆らが相手取る事に相成った」
「ではエーバル様もご出陣でしょうか?」
エーバルが肩を落として首を振る。
「いや、儂は城詰めを志願してアルボ・ゼーン殿と共に、プラデラの城に控えておる事にした」
レコルドが「……はぁ、左様で御座いますか」と首を傾げ、功が立てられない事に落胆した様子で肩を落とした。
「……エーバル」
音も無くエーバルの横に立ち、低い声で話しかけたこの男は、黒交じりの灰色の髪を束ねて、真っ直ぐに整った口髭を生やし、目つきが刃物のように鋭い光を帯びていた。暗い色の全身を覆うフード付き皮鎧が彼を陰に生きる者であると語っている。
彼の名前はシェング・ネーベル。歳は三四。ラダーザ家に仕える影衆の棟梁であり、ラダーザ家の次男坊アランに仕えている影衆、クリン・ネーベルの義父である。
「……以前にお主は、アルボの事を疑っておったようだが、俺の手の者で城の中を調べてみるか? ……面白い物が見つかるかもしれんぞ?」
「いや、ぎりぎりまで待つ。もしかしたら奴は、最後の最後で考えを改めるやもしれぬからな」
「……そうか……では、後程に」
そう言って口の端を上げて笑ったシェングが、一つの足音も立てずに歩き去った。
「儂も城詰めを志願してくる故、レコルドは飛竜達に餌でもやっといてくれ」
「はっ……では、そのように致します」
レコルドが餌をやりに去った後で、エーバルもヴェルコ・ティーゴが控える屋敷へと歩く。その道すがらに、プラトランド領主のヴェタン・ラガンダとその甥であるアールタ・ラガンダが前から歩いて来た。
禿げ頭のヴェタンと髭面のアールタが、エーバルに気が付くと頭を下げて挨拶をした。ヴェタンの歳は四二。アールタは二一である。
「これは、これは、エーバル殿。我が甥がラダーザ家の良き娘を貰うそうで、心より感謝致しまする」
「おお、ヴェタン殿であったか。我が娘ピノンの夫、アールタ殿も斯様な詰まらん戦に出るよりかピノンの元へ居たいだろうに律儀な御仁よ。その律義さ、ピノンの奴にぴったりじゃ」
エーバルもヴェタンに頭を下げ、アールタに駆け寄り手を握って笑いかけた。
アールタも人柄の良さそうな温かみある笑みを返す。
「全くその通りです……と言いたいところですが、叔父が気を利かせてくれまして、我ら投石竜騎隊は城に詰める事になりました。叔父上、ご配慮を有難うございます。これで生きてピノンの元へ帰れます」
素直に戦よりも新妻の元が良いと告白し、ヴェタンに礼を述べるアールタであったが、ヴェタンはちらと横目でアールタを見るだけで別段気にも留めていないようであった。
「エーバル殿、儂の地竜衆も城へ詰める事にした。勢いに乗った我が軍ではあるが、敵が迂回して城を攻めて来る可能性も無くはない。そうヴェルコ様に説明したのでな。アールタのはついでよ」
エーバルは少し感心した。ラガンダの者は揃いも揃って突撃する事しか頭にないと思っていたのだが、考える脳はあるらしいと思った。このように、エーバルの心の内での彼らの評価は低かった。
そもそもエーバルは、ピノンをラガンダの甥に嫁がせる事に乗り気では無かったのである。ピノンがアールタの人柄に惚れこんで、父エーバルに無理を言って祝言を挙げる事を承諾させたのだ。
エーバルとしては竜貴王ヴェルコの元へピノンを嫁がせる算段であったが、疲れを知らぬ暴れ牛のように強引に突き進み、駄々をこねるピノンに追い詰められ、アランを巻き込んでの説得に、終いにはエーバルの心がぽっきり折れて、その算段は水泡に帰したのだった。
「そうですか、実はこのエーバルめも此度の戦は城詰めとして、志願致そうと思っておりました。さらにラガンダ家の両名が居るとあれば、城の守りは鉄壁となりましょう」
そう言ってエーバルは深く頭を下げた後、屋敷へ入り竜貴王ヴェルコに城詰めを志願した。ヴェルコは最初こそ驚いていたが、先ほどのヴェタンらの進言もあり、エーバルを城の守りへ回す事を承諾した。
その後の昼前頃に、エーバルはシェングとレコルドが待つゲンゲ原を一望できる西の物見櫓に上がった。遥か遠方に見えるのは、一面に広がるゲンゲの花の絨毯の上で両軍勢が軍旗を掲げて陣を構え、お互いを睨みあう姿である。
リダーニュ勢は赤と茶色の皮鎧を着た者が多く、家系を示す家紋が描かれた旗を掲げ、対する帝国勢は黒鎧に裏地が赤い黒マントを翻しながら陣を構えていた。
戦場を彩る、多彩な軍旗と甲冑。さらには紅紫色のゲンゲの花までもが今から起きる大戦を、人々の記憶に残るよう盛り上げるかの如く、散る彼らの足元に多々と咲き誇っていた。
早馬でも駆け抜けるのに三十分はかかる広大なゲンゲ原。
だだっ広いゲンゲ原が、両軍によって赤茶と黒に染まっている。
――誇り高き竜の国、リダーニュ盟約連合の運命を決める戦が間近に迫っていた。