第四話 春竜祭 後編
アランの前に紙袋に入った沢山の食べ物を抱えて跪く、フード付きの黒地と赤地で縫われたローブを纏った小柄な者が、深く被ったフードを勢いよく脱いで、幼く可愛らしい顔を上げる。艶やかな黒髪が小さく左右に赤と白の魔除け紐で結ばれ、食べかすで口周りを化粧した年端行かぬ少女が、口に物を含みながら元気よく声を上げた。
「おふぉみふぇすか!」
アランは目の前の光景に、目をつむって顔をくしゃくしゃにさせる。そんな大変に苦々しく、苦虫をたらふく食らったような顔で、食べ物をほおばる少女を細目で見た。
彼女の名前はクリン・ネーベルと言い、ラダーザ家に仕える影衆の一人で、地上にいる時のアランの警護役であった。彼女は琥珀色の双眼でアランの顔を捉えて離さず、口だけは忙しなく咀嚼しながら主であるアランの言葉を待っていた。
「……食べてから話せ、それと……何故お前はそんなにも食べ物を抱えておるのだ」
クリンが思い切り良く頷き、直後に胸を叩いて顔を青くさせた。食べ物を喉に詰まらせたようである。
アランは慌てて腰の小型の竜の角で出来た水筒を取り出して、木蓋を開けてクリンに渡した。
水を飲み干して一息ついたクリンがアランに軽く頭を下げて向き直ると、見た者が息を飲むような真剣な表情を向ける。
「……実はアラン様、この食べ物の束にはクナ湖よりも深い、深~い訳が……御座いまして」
普段のクリンでは見せた事が滅多に無い真剣な顔に、アランはもしやと思った。
クリンは怪しい店主の目星をつけ、食べ物を買うように見せかけて、他国の密偵か間諜かを見極めていたのだろうかと思い巡ったのである。だとしたら、クナ湖よりも深い訳と言うのが納得であった。
「深い訳と言うのは?」
アランが真剣な顔でクリンを見る。
クリンは胸に抱えた食べ物の束をじっと見つめ続け、続ける言葉を溜めに溜める。
アランも音が鳴るほど息を飲み、ひたすらにじぃっとクリンの言葉を待った。
やがて空を飛ぶ小さな蒼い亜竜が『ぴぃ』と鳴いた後、彼女は真剣な相貌を崩さず口を開く。
――ついにその時がやってきた。
「………………食欲に……負けまして」クリンが真顔で視線を外さず、ゆっくりと首を縦に振る。
溜めに溜めたクリンの言い分は、ただの水溜まりであった。
クナ湖より深い所か余りにも浅すぎる言い訳に、アランが砂狐のような顔でクリンの頬を抓る。
「酷いですよアラン様!」
クリンが抓られて赤くなった頬を抑えながら抗議を口にした。
「敵国の影衆でも探っておったのかと思ったが、お前に期待した私が馬鹿だった」
アランとクリンのやり取りを見ていたイブラとトリデックが、にやにやと笑っている。今すぐ祝言を挙げたらどうだと言わんばかりの顔を二人はしていた。
「全くお前達は仲が良いな。アランよ、クリンを貰ってやればどうだ?」
アランが無表情で首を横に振る。
「兄上、笑えぬ冗談です」
「クリンさん、歳は今年でいくつになったんです?」
トリデックが、鉄串に刺さった焼肉を器用に食べているクリンに歳を尋ねた。クリンの背丈はアランより頭二つ分も小さい。そんな小さなクリンが食べ終わると、三人の前に薄い胸を張ってしたり顔をした。
両手を広げて十を作りだし声を張り上げる。
「十になりました! リダーニュの法に従えばあと二年でアラン様の元へ嫁げます!」
「お前は何を言っているんだ」
アランが嘆息しながら、クリンの頭頂部に軽い手刀を加える。
「もう、痛いですよアラン様ぁ」
見事な膨れっ面を披露したクリンが頭を擦っていると、先ほど上空で鳴いた小さな蒼い亜竜が『ぴぃ』とまた鳴いた。
「しかしまあ、これで多少は華やかになったのだ。広場に行ってみようではないか、何か催し物があるかもしれん」
イブラが快活に笑いながら広場へ向けて歩き出し、アラン達も後を追って広場へ向かった。広場で毎年催される物と言えば、竜の角笛と竪琴による演奏である。
今年は何の演奏だろうかとアラン達は予想し合っていると、上空を飛ぶ小さな蒼い亜竜が『ぴぃ!』と大きな声で鳴き、焼き菓子を食べながら歩くクリンの後頭部へ、勢い良く足蹴りをかました。
「痛ったぁぁ……」
クリンが涙で潤ませて後ろを振り返ると、翼を必死にばたつかせて滞空している小さな蒼い亜竜が居た。鷹と左程変わらぬ体躯で、長い尾にも小さな鰭が三又のように付いている。
「なんだ、スナギモかぁ」
クリンがすっと腕を伸ばしてスナギモを留まらせた。この亜竜はリダーニュの影衆が連絡手段としてよく使う。嗅覚に優れ、知能も高く、人も場所も調教すれば覚えてしまう。便利で賢い亜竜はリダーニュでは欠かせない存在だった。
せっせとクリンの小さい肩まで上るスナギモは、短い登頂を終えると翼を畳んで鎮座した。スナギモの鱗脚には二組の文が紐で巻き付けられており、クリンが外してそれを読む。
クリンが文を速やかに読み終わると陽のように明るかった顔に影が差し、アランの前に素早く回り込んで跪いた。
「アラン様、お待ちを。イブラ様もトリデック様も今しばらく足をお停めくださりませ」
跪いて改まった様子のクリンの前で、アランは怪訝そうにしゃがみ込み「何かあったのか?」と聞いた。
「クリンめの義父上からの命令書で御座います。このエーバル様が書かれた文を速やかにイブラ様とアラン様に渡すようにと」
イブラが考えを巡らせ眉間に皺が寄る。トリデックも驚き顔でじっと聞いていた。
「……ここでは人目に付きますので、皆さまこちらへ」
わざわざ人目を気にするのは、それだけ民草に知られては不味い事なのだろう。真面目なクリンを見て、その思いが強くなるのをアランもイブラも感じていた。
アラン達は人目を気にしながら、頃合いを見てささっと裏道に入る。
「トリデックはそこで見張りを頼む」
アランはトリデックを薄暗い裏道の入り口に立たせた。
「クリン、その文を見せてくれ」
アランがクリンから文を受け取り黙読する。父エーバルからの文にはこう書かれていた。
――親愛なる賢き息子達へ
聖歴一五八七年春期第一節の二四における、プラデラ会戦にて我れらリダーニュは大敗した。我が方、四千の地竜衆がゲンゲ原において帝国方に六割打ち取られ、大地は血に染まり、重臣筆頭であるチェバロ・センモルテ殿、ヤタ・クリスト殿が討死。飛竜衆筆頭のラボロ・リーチャ殿が、潰走する我が軍を逃がすため、地上に降り立ち奮戦し、見事に殿を果たして討死なさった。他の家臣団の郎党も被害が大きく、散った者は数千余り、逃亡した者数知れずの有様である。残念だが、リダーニュ西はもはや帝国の領域となった。我が息子達よ、ヴェルコ様をリヴェーロ城に迎え入れる為、一足先に帰城し戦支度をせよ。儂も説得出来次第、直ちにそちらへ向かう。父エーバル・ラダーザより――
「残念ながら兄上、帝国は既にリダーニュ西を我が物顔で闊歩しているようです。すぐにリヴェーロへ戻りましょう」
アランがイブラに文を渡した。イブラが引っ手繰るように文を取り、目を走らせて素早く読む。
読み終えたイブラが文を持つ手を震わせて「一体何があったというのだ!」と悔し混じりの怒声を上げた。ここにいる四人は皆々イブラと同じように困惑していた。
それでも今は立ち止まらず動かなければならなかった。
「リダーニュが負けるなど信じられぬ。不死身のラボロ殿まで……討たれるとは」
アラン達が裏道から出て、急ぎカステロの停竜所へ戻る途中で、イブラは何度も「信じられぬ」と独り言を繰り返していた。
突如にカステロの城下が、晴天から突然曇りになったかのように大きな影が差した。
「アラン様あれを!」
トリデックが上空を指さし、ロウコも「ゴォォォ」と唸りながら首を上空に向けていた。
アランとイブラ、クリンもトリデックが示す方向を見る。
信じられない光景を四人は見た。いや、この時、リダーニュに住まう人々の全てが信じがたい物を見た。
太陽を背に、大きな淡い茶色の気嚢を上部に備えて飛んでいる、細長い大きな物体が居た。下部に船底のような形の船室を備えているそれが、リダーニュの上空を我が物顔で飛んでいる。
竜騎士だけが空を飛べるのではないと言っているかのように、悠然と飛ぶ大きな物体を、リダーニュの民草全てが手を止め、足を止め、口を大きく開けながら見つめていた。
屋台から焦げる匂いが漂い始め、広場の演奏が完全に止まった頃に、この重い沈黙を破るかの如く、目を大きく剥いたイブラが魂を込めて叫んだ。
「信じられぬうううぅぅ~!」
イブラの狂ったような大声が辺りに反響して響き渡る。
焼き菓子を袋から取り出して食べていたクリンが、食べるのを止めて呆然と飛ぶそれを見た。
「…………うっわぁ、焼き菓子が……飛んでます」
アランもまた呆然とそれを見つめていたが、クリンの間の抜けた声ではっと我に返ると、再び歩み始めた。
「兄上、立ち止まらずに停竜所まで行きましょう。じきに竜騎士達が隊伍を組んで、あの空飛ぶ袋を落とすはず」
「まさかあれにやられたのでは無いのか?!」
イブラが空飛ぶそれを睨んで叫び問った。
「兄上、それは違います」
「何故判るのだアラン!」
アランはイブラが握りしめている文を指で示して言った。
「その文には地竜衆壊滅と書いてあれど、飛竜衆壊滅とは書いてありませんでした。ということは、竜騎士一人一人があの空飛ぶ袋に後れを取った訳では無いということ。ですから一刻も早く停竜所へ向かい、飛竜に乗ってリヴェーロまで向かわねばなりません」
「アラン様、あの空飛ぶ何かから紙のような物が落ちてきます」
トリデックが、空飛ぶそれが何かを落としているのを発見し指で示した。
リダーニュの上空を飛んでいる物体は、言葉の書かれた白い紙を引っ切り無しに落としていた。まるで雪のように舞う紙が、賑やかだったカステロ城下にも降り注いでいる。
リダーニュの人々は舞い落ちた紙を拾い上げて読み、字の読めない者は近くの者に何が書いてあるのかを問い、意味を知った者達は紙を落とし、空を見上げて無気力に立ち尽くし、「……あれが火薬樽でも落としてたら」と危惧する者も現れ、またある者は泣き崩れ、ある者は家から家財を持ち去ろうと急いで逃げ帰った。
クリンが目の前にはらっと落ちた紙を拾って読み上げる。
「リダーニュの空はこの日を以てゲラシアル・レーヒ帝国の物となった。この飛行船によって空の王者は取って代わられたのだ。リダーニュの民草よ、顔を上げて空を見よ。悠然と空を飛ぶ飛行船を見よ。そして、竜騎士の時代は終わりを告げ、時代が変わった音を聞け」
飛行船が大きな鐘の音を辺りに響かせた。何度も何度も響き渡る鐘の音色に、リダーニュの人々は上空を見上げながら膝を付き、戦意を喪失させ絶望していく。
「やはり、あれにやられてしまったのでは無いのかアラン!」
イブラが鐘の音に負けじと叫ぶ。
「いいえ、兄上。これは流言の類。おそらく帝国は、リダーニュの民草全てを調略しようとしているのです。戦意を喪失させ、安全では無くなった事に絶望させ、ヴェルコ様の御威光を及ばなくさせているのです。四十年前に火縄銃が戦で使われるようになってから今でも、竜騎士の優位は覆らなかったことをお忘れですか? その絶対的な優位性が空飛ぶあれによって失う事はありません」
「……何故判るのだ」
イブラがアランを不思議そうに見つめ、アランが答えを返そうとした時、誰かが叫んだ。
それらの口々に上がった叫び声は良く聞くと「あんな物を飛ばすなんて!」「もうだめだ! リダーニュはお終いだ! この地から逃げないと!」「逃げる準備をしろ! 早く! 次は火薬樽だぞ!」などのカステロ城下の人々を扇動する声であった。
「なるほどな、アラン。今なら判る。父上がヴェルコ様を連れてリヴェーロに帰られる時には既に、リダーニュ全土は大混乱であろう。リダーニュが絶対的に強いので、民草の心から崩そうという訳だ。敗走し逃げ帰った我が軍を見て、これが誠であると民草が知った時が止めとなろうな……」
「兎に角にも、今は足を止めず停竜所まで行きましょう。帝国は他にも策を弄しているやも知れません」
アラン達は停竜所まで急ぎ足で歩いた。既にカステロ城下は混乱に満ちて、逃げ惑う人々でごった返している。リダーニュの民草は「あんな物が堂々と飛んで来るなんて、もう駄目だ、御終いだぁ……」と青冷めた顔で立ち尽くしている者や、「通してくれ! 家に帰らないと! どけって!」と人垣を押しのけて遠くへ逃げようとする者。「おい金を勝手に持っていくな!」と櫛売りの店主が叫んだかと思うと、火事場泥棒が手一杯に掴んだ棒銀の束を抱え、イブラにぶつかり「邪魔だどけえ!!」と一喝され棒銀の束を投げ捨てて何処へと人にぶつかりながら逃げ去った。
アラン達は飛竜のロウコを牽いているトリデックを先頭にして、民草の壁が自然と道を開ける様に仕向ける。
停竜所へ向かう途中に先ほど蕎麦パンを売っていた恰幅の良い店主が、黙ってアラン達を窺っているのが横目で見えた。
――こうして、アラン達は渦を巻き始めた波乱に足を踏み入れていく。
その波乱が産みだす物は、四方の強国を相手取る大立ち回りか、己の信義を貫き殉する事なのかは、この時の四人は知る由もない。