霧に浮かぶモノ 1
深い森の中。
ジェクスは身体を引き摺るようにして歩いていた。
身体が思うように動かない。
(……たった一撃……音も痛みも無い一撃だというのに……)
彼は、左腕に目をやる。
もう見えなくなっているが、そこにはブラックドラゴンに刻まれた呪いがある。
ジェクスは自らの腕に爪を立てた。引き裂かれた腕から血が滲む。
と――その時。
『無様な格好ね。ジェクス』
頭上から声がした。
ジェクスは、視線を上に向ける。
そこに居たのは、自分と同じ長い白銀の髪に、紫水晶のような瞳を持つ女だった。
『だから言ったのよ。真っ正面から行ったってアイツは殺せないって』
『……リヴェイア』
女――リヴェイアは、軽い音を立てて地に降り立つ。
指先に髪を絡ませながら、
『力で押してどうにかなるような相手なら、私がとっくに殺してるわ』
『……見ていたのか……』
『見なくても分かるわ。貴方の周囲には黒竜の魔力が渦巻いているもの』
彼女の言葉を聞き、ジェクスは問い掛ける。
『……リヴェイア。これはお前の力でもどうにもならないのか……?』
ジェクスの瞳を見据え、リヴェイアは即答した。
『無理ね。呪術は基本的に掛けた本人か、それ以上の術者でないと解けないけど――私は黒竜以上の術者を知らないもの』
『…………っ』
きつく目を閉じるジェクスを見て、リヴェイアは視線を逸らした。
『まっ、アイツの事だから何かしら条件付きで術を仕掛けたんでしょうし……条件さえ満たせば解呪出来るはず』
『……他に手段は無いのか』
苦渋の表情を浮かべるジェクスに、リヴェイアは頷く。
『無いわ。アイツが解くか、条件を満たすか……黒竜以上の術者を見付けるのは不可能に近いし……』
『では……私を転移させる事も出来ないのか?』
リヴェイアは、お手上げといった様子で、
『無理よ。貴方の周りには転移の魔力を遮断する呪力が働いているから』
『…………』
ジェクスは小さく息を吐いた。もう手は無い。
この呪縛から逃れる手立てはただひとつ――
そう覚悟を決めた瞬間。
彼の周囲から、魔力を遮断していた呪力が消える。
『……リヴェイア……私を転移させてくれ』
『…………』
リヴェイアは無言で、ジェクスの周囲に転移の魔力を張り巡らせた。
『言っておくけれど、向こうへ戻ってからの身の安全は保証出来ないわよ』
『分かっている』
ジェクスの体が目映い光に包まれる。
そして――彼の姿は、この世界から消えた。
『…………』
リヴェイアは暫くの間、虚空を見上げていたが、やがて小さく息を漏らす。
『……相変わらずやる事がえげつないわね』
リヴェイアは、この地のどこかに居るであろう、黒い竜に向かって吐き捨て――その場を後にした。
◆◇◆◇◆
「ぶえっ……くしっ!」
派手なくしゃみをして、黒竜は鼻下を擦る。
「……う~む。どっかで、かぁいいコが俺様の噂でもしてっかな?」
突如現れ、自分の命を奪いに来たホワイトドラゴンを難なく退けた黒竜は、行く当てもないまま森の中を歩いていた。
澄んだ空気と、鳥の囀り――その朝の森の静けさを打ち砕くように、黒竜の腹の虫が鳴く。
「ああ~……腹減ったなぁ……せめて飯食ってから出て来れば良かった」
まだ夜も明け切らぬうちから叩き起こされ――その上、ケンカをふっかけられた。
大した労力は使わなかったが、それでもやはり腹は減る。
「なぁ~んか食うもんねぇかなぁ」
のろのろと歩いていた黒竜は、ふと足を止めた。
「…………」
急に辺りが白い霧に包まれる。
そして、あっという間に視界を閉ざした。
「……ったく。こんな時に……ついてねー」
黒竜はその場に座り込み、溜め息をつく。
――と、
「……ん?」
白く閉ざされた視界の端に、何かが見えた気がした。
黒竜は立ち上がり、目を凝らす。
「……なんだありゃ?」
霧の中に浮かぶ黒い影――
黒竜は、その影の方へ向かって歩きだした。
進むに連れて、ぼんやりとしていた影がはっきりとその形を現す。
「……塔?」
目の前に現れたのは、広大な湖に浮かぶ漆黒の塔だった。
先程まで視界はまったく利かなかったが、その塔周辺だけ霧が晴れている。
背後を見やると、真っ白な霧で何も見えない。
黒竜は腕組みして呻く。
「う~ん。さて……どうしたモンか」
暫し考え込んで――黒竜は重力を中和し、塔の側まで跳躍した。
とん……と軽い音を立て着地した黒竜は、辺りを見回す。
塔の周辺には、なにやら妙な空気が漂っている。
「ヤな感じ……」
ぽつりと呟く。
塔の周りを巡っていた黒竜は、その塔の入口を見付けた。
幾重にも鍵の掛けられた重そうな鉄の扉。
鍵に触れてみるが、目立った罠はなさそうだった。ひとつずつ解錠していき――最後の鍵が落ちた時、扉は開いた。
黒竜は塔の中へ足を踏み入れる。入ってみると、殆ど光源は無く、真っ暗だった。
黒竜は小さな明かりを灯し、奥へと進む。
かなり広い塔内は、あちこち物が散乱し、人の気配はまるで無い。
どうやら何かの研究所らしいが――……
足下に落ちていた研究資料らしい物を見て、黒竜は小さく呟いた。
「……ロクな研究はしてなかったみたいだな」
手にした資料には血が滲んでいた。
よくよく見れば、その資料だけでなく、あちらこちらに血痕がみられる。
その血の持ち主は、一人や二人ではないだろう。
黒竜は手にしていた資料を床に捨て、二階へと続く階段を上った。
二階もやはり似たような造りの部屋で、こちらもまた荒れ放題だった。黒竜はその部屋の扉を閉め、更に上の階へ向かう。
三階は寝室のようだった。
まるで、つい今しがた掃除でもされたかの様に埃ひとつ落ちていない。
その部屋を見て、黒竜は顔をしかめる。
「……なんか変な感じだ」
黒竜は違和感を覚えた。
――が、それが何なのか判然としない。
この塔に足を踏み入れた時から感じている妙な気配――
「……なんにしても、長居する場所じゃないか。肝試しにゃあちょうど良いかも知れねぇけど」
言いながら、黒竜は踵を返す。
階段を下りて、一階――つい先程自分の入って来た入口の方を見て、ぽかんと口を開ける。
「ありゃ? 入口……無くなってる……?」
鉄の扉は跡形も無く消えていた。
「……困ったなぁ。壁ブチ抜けって事?」
軽く頭を掻きながらぼやく。
と――
「……ん?」
ふと、黒竜が視線を向けた床に何かが見える。
さっきは気付かなかったが、一箇所だけ色の違う場所があった。
黒竜は、その床を叩いてみる。
すると、床は何の抵抗もなく横に滑り――そこに地下へ続く階段が現れた。
目の前に現れた階段を見て、黒竜は唸る。
「う~ん……他に行けそうなトコ無いし……下りてみるか」
何もなければ壁をブチ抜いて外へ出れば良いや、などと思いながら黒竜は階段を下りる。
自分が作り出した明かりを頼りに奥へと進み――暫く下りて、黒竜は足を止めた。
「……これは……」
淀んだ空気に混じって漂ってくるのは、鼻をつく死臭。
「……どーにも気は進まんが……」
黒竜は暗い階段を見下ろし――再び歩き始める。
下りた先には、塔の入口と同じような鉄の扉があった。
ここもまた幾重にも鍵が掛けられていて、侵入者を拒んでいる。
黒竜は解錠し、扉に手をかけた。
一瞬、この扉を開けて良いものかどうか迷いはしたが、意を決して扉を開け放つ。
そこで目にしたのは――
「……なんだ、ここ?」
扉を開けたその先には、細長い通路を挟むように並んでいる幾つもの扉。
「……檻……牢屋?」
ぽつりと呟き、中へ足を踏み入れる。
どの扉にも、やはり鍵が掛かっているようだった。
ただ扉には小さな窓があり、そこから中を覗く事は出来る。
黒竜は何の気なしにその窓を覗いた。
「…………」
そして、すぐ扉から離れ――呻く。
「……ここに居たヤツはよっぽど悪趣味だったんだな」
扉の向こうに見えたモノ――それは人間の死体。
それも一人や二人では無い。
さほど広くないその部屋の中心に、死体が山のように積み上げられていた。
「……この様子だと他の部屋も似たようなモンだろうし……」
黒竜は、ずらりと並んだ扉を見て嘆息した。
あまり見たく無いモノを見たおかげで気分が悪い。
「とっとと退散だな、こりゃ」
そう言って、くるりと踵を返した――その時。
《……けて……誰か……》
「…………」
黒竜が足を踏み出した直後、微かに声が聞こえた。
――弱々しい女の声。
黒竜は体の向きを変える。
(……人の気配はしないけど……)
胸中で呟き、
「誰か居るのか?」
黒竜はその声の主に呼び掛けた――が、反応は無い。
黒竜は、軽く頭を掻いた。
小さく息を吐き、ひとつひとつ部屋を覗いて回る。思っていた通り、すべての部屋に死体が積み重ねられていた。
その光景にうんざりしながら、最後の部屋を覗く。
そこに死体は無かった。