後編
「おまたせしました」
白昼夢のような脳内繰り言から引き戻された。
「ミルク、おまけしといたからね」
彼の言葉に、思わず、ふ、と吹き出してしまった。
「カフェオレみたいな色になってますね」
「ん? ああ。カフェオレの方が値段高いから、構わないでしょ?」
ますます、ふ・ふ、と笑ってしまった。笑ったついでに気になっていたことを訊いてみた。
「ブレイキング・レモネード、って店の名前って、何なんですか?」
「ああ。バンドの名前」
「バンド?」
「そう。僕が昔やってたバンド」
「へえ・・・楽器は何弾いてたんですか?」
「ベース。まあ、もうやめちゃったけどね」
「今流れてる曲ってもしかして」
「ん? いや、これは関係ない。単純に僕の趣味。イギリスのバンドとか、若い頃から好きでね」
「かっこいい曲ですね」
「そう? このヴォーカルはイギリスで一番偏屈な男、って当時言われてたけど。
言われてみたら、何だかお経のような歌い方だ。英語が分からないわたしでも雰囲気が伝わってくる。
「何でバンドやめちゃったんですか?」
「ヴォーカルが就職しちゃったんだよね」
「就職? 会社か何かにですか?」
「まあ、一応会社かな。所属事務所っていうかな。フリーランス、っていうのか・・・」
なんだかやたらと歯切れが悪い。確かに人生の機微情報ってものもあるだろうから、それ以上ツッこむのはやめた。
「まあ、気に入ったらまた飲みに来てね」
バーか何かのような営業文句だ。
彼が席から離れてから、わたしはガラケーのネットをつなぐ。
「ブレイキング・・・レモネード、と」
やっぱり気になったので、通信料金度外視で、つい検索してしまった。
「あ、あった!」
それはあるメジャーレーベルHPのバックナンバー記事だった。
5年前の記事。
「”広田 一会、ブレキング・レモネード脱退”。2枚目のアルバムが売上10万枚と好調だった、ブレイキング・レモネードのヴォーカル、広田 一会さんがバンドを脱退し、俳優業に専念することとなった。広田さんは昨年から深夜ドラマを中心に俳優としても活動を行っていたが、"Night Mind"の抑えたリアルな演技が話題を呼んだ。この超能力者たちの生々しい暗闘を描いたドラマは実写だったが、引井 攻 監督によるアニメ化が決定されており、来秋公開予定。”彼しかいない” という引井監督の氏名により、主人公として声優デビューも決まった。これらのことをきっかけに、俳優・声優としてのオファーが殺到。元々は実写・アニメ問わず、映画や音楽といった総合メディアで若者の感性に影響を与えることが目標だったと広田さんは語り、バンドの脱退を決意”。
「うわ、広田一会のバンドだったんだ!」
広田一会、32歳、男。
芸術性と興行収入を両立させる俳優として、実写でもアニメでも活躍し続ける、才能の塊だ。出演作品の音楽も担当し、そちらでも高い評価を得ている。海外の映画の何かの賞も貰ってたと思う。でも、こんなバンドでヴォーカルやってたなんて知らなかった。本人が語ってるのも見た事ないから、メジャーでやってた自分のバンドすら”黒歴史”ってことなのかな。記事の続きを見てみる。
”ベースの野中 正直がヴォーカルも兼ねたスリーピースバンドとして継続しようという案もあったようだが、残り2人のメンバーから、”モチベーションを保てなくなった”と伝えられ、事実上解散することとなった”。
「野中 正直 っていうんだ、あの人」
ガラケーの画面から目を上げ、カウンターの向こうを見る。ジャー、という水道の音と、カチャカチャとグラスの触れ合う音がする。手元は見えないけれども、洗い物に集中してるようだ。
バックナンバー記事の写真と見比べてみる。広田一会と同年代だとしたら30ちょい過ぎのはずだ。でも、客の少ない喫茶店のマスターとしての彼は、やっぱり、”おじさん” にしか見えない。
「年、とったんだね・・・」
他人事じゃない。
結局、13:30まで粘った。
長居が申し訳ないので、
「ナポリタン」
と、追加注文すると、
「う」
と、かえって面倒臭そうな顔をされた。どういう商売をしてるんだろう。
帰り際、レジで思わず口に出してしまった。
「野中さん」
「ネット、見たんだ・・・」
「はい・・・でも、まだ夢を諦めてないんですね。店の名前にするなんて」
「違うよ」
「え?」
「僕が居たレーベルがこのビルの所有者なんだよ。で、バンドが契約切られた時に、”今までのご褒美と慰謝料だ”ってテナント料月5万円で貸してくれた」
「わ、安い!」
世間知らずのわたしでも、渋谷のど真ん中の賃料として安すぎることぐらい分かった。
「ま、節税対策もあるんだろうけどね」
「ブレイキング・レモネードって、野中さんバンドだったんですね」
「・・・そうだね。僕のバンドだ」
彼はレジからおつりを出しながらわたしに言った。
「ノート、見せてよ」
反射で、つい彼に渡す。彼はパラパラと真面目な顔でノートをめくる。
「今度何か描いて持っておいでよ。階段に飾ってあげる。貴女の個展だ」
あれ?
慣れない言葉に混じって、”貴女”なんて言われると、すごく嬉しい。
いっぱしの大人っていうか、プロっていうか、ちゃんとしよう、っていうか。
「ありがとうございます!」
わたしは、にこっ、と会釈してガラス戸をカラン、と開ける。
階段を駆け下りる。
境界線を超えると、みんみんというセミの声と、より高度を増した夏のおひさまの光がわたしに浴びせられた。
おわり




