第弎幕 待雪
人型の、怪異? それに、鬼の一族?
いや、まさか、そんな。ありえない。
でも、こうして実在している。それも、人以上に美しく。
ここに来てから、感情が少しだけでも揺れ動く。心が壊れていないという、証明なのだろう。
すぐ死ぬし、関係ないけどね。
「あなた、起きたの?」
「ああ。あなたが助けてくれたのか?」
「うん。私があいつを払い除けて、ここに連れてきた。私の〝名〟は待雪。雪で良いよ」
待雪。確か、スノードロップの和名。
正確には待雪草だが、変わりはないだろう。怪異が名を持つという事は、それだけ上位存在という事だ。
怪異にとって、名は大きな意味を持つ。持っているだけで、一種のステータスになるのである。
……待雪、スノードロップ。
スノードロップの花言葉は、確か——
希望、慰め……逆境の、中、の、き、ぼう……
思い出すに連れて、恐ろしくなってくる。待雪に名を付けた奴は、一体何を考えているんだ……!
もちろん、偶然という線もある。だが俺は、そうとは思えなかった。
待雪は、気付いているのだろうか。自分の名の、意味を。
「……どうしたの? 何か、思い出した?」
顔に出ていたのか、待雪が聞いてくる。その顔は、不安そうだ。
「いや、何でもないよ。俺の名前は棗。橘棗だ。助けてくれた事、礼を言う」
頭を下げ、感謝の意を示す。
もちろん、礼の意味もある。しかし、顔を見られたくなかったのだ。彼女の名が、恐ろしくて。
何も知らないのなら、知らなくて良い。嫌な事をわざわざ教える必要もないのだから。
「棗……良い名前、だね」
「……そんな事はないさ」
こてん、と首を傾げる待雪。
可愛いが、今はそれどころではない。この名前は、あんまり好きじゃない。あいつらが名付けたと思うと、どうにも好きになれないのだ。
名前に罪はないんだけどね。
「ところで、さ。何で、あんな所にいたの?」
「それは、あの樹海の奥、という事か?」
「うん」
思わず苦笑する。何ともまあ、踏み込んでくるものだ。変に遠慮して聞くより、気持ちいいけどね。
その気持ち良さには、答えよう。
「死ぬためだよ」
「死ぬ、ため?」
「そ、自殺さ。もう生きるのに疲れたんだよ」
「自殺……私、『死』というものがわからない」
待雪が、俯いて呟く。
怪異には死の恐怖はない。滅んだらそれでおしまい、そういう考えなのだ。
それに待雪ほどの妖力があれば、滅ぶなんてほぼあり得ないだろうし。
妖術のゴリ押し、鬼の身体能力のゴリ押し等々。それだけである程度は勝てる。
怪異の強さに際限はない。寿命という概念が存在しないため、いくらでも鍛錬に時間をつぎ込めるのだ。
「それでいいんだよ。世の中には、知っちゃいけない事もあるんだ」
そう言って、適当に誤魔化す。それが一番、手っ取り早い。
「……むう、人の世界は難しいのね」
「はははっ、伊達に生きづらいわけじゃないさ」
規律ばっかで生きづらすぎる。特に、俺のような異能者には。
それにしても、ここまで楽しいのは久しぶりだな。もちろん待雪が超絶……絶世クラスの美少女というのも一つの要因だ。しかし、普通に話す事がここまで楽しいとは思わなかった。
まあ、それも終わりか。そろそろ帰って死のう。
「待雪さん、俺の服を知らないか?」
「……あの変な服?」
変な服、というのは制服を指しているのだろう。
「ああ、それだ。あと、背中に背負うタイプのでかい荷物入れもあるか?」
「アレのこと? その服、鬼の着流しはあげる。たくさんあるから」
そう言うと、納屋からリュックを持って来た。俺のものだ。
しかし、女である(怪異に性別は関係ないものの、精神的に)待雪が、何故男物の着流しを?
「待雪、この服って男用だよな? 何で待雪が持ってるんだ?」
「んー、それ、元々私の着物なの。私、裁縫とか料理は得意だから、仕立て直しただけ、だよ。一度も着てない着物を使ってるから、新品だと思う」
何でもない事のように言っている待雪。
どんだけ凄腕なんだ、プロ並みじゃないか。……待てよ? 俺の体格、どうやって測ったんだ?
「……俺の体格、どうやって測った?」
ビク、と震える待雪。待てよおい、まさか……
「……ごめんなさい。見ちゃった」
「見ちゃった、っておい……」
確かに、制服はボロボロだっただろうけどさ。
と思ったら、待雪の顔が真っ赤だ。何を思い出したの待雪さん?
「……あ、あれが男の人の体……初めて見た……鑪に聞いてたけど、お、大きかった」
「ちょっと待て。待雪、ナニを見た」
思わずさん付けが剥がれた。仕方ないじゃん。でも、こう言う時は鉄仮面で良かったと思う。だって顔が熱いもの。
俺の「ナニ」のインストレーションで何を指しているのか気付いたのか、待雪が赤かった顔を更に赤くして、慌てて顔を振る。
「ち、違うのっ! 棗の体が大きかったって意味!」
「あ、ああそうか……良かった」
というか、俺の体はそこまで大きくないんだがな。華奢って言われてたし。
にしても、男慣れしてなさすぎだろ。俺が始めてみたいじゃないか。いや、案外そうなのか? こんな所にいるくらいだし。
「……私の事は、さん付け、しなくていい」
「んー……わかった。待雪、これで良いか?」
待雪、と言った瞬間、彼女の顔が綻んだ。俺は相変わらずの無表情だが、心臓はどくどくと早鐘を打っている。
何故俺に名前を呼ばれただけであんな顔を見せるのか。自分でも嫌になるが、俗っぽい欲の反応するラインが高い(枯れてはいない。枯れてはいないよ?)俺ですらこうなったのだから、普通の年頃の男子ならばあの笑顔を見ただけで襲いかかると思う。もれなく返り討ちにされるだろうが。
普通、俺みたいな不細工が名前を呼んだら嫌がられると思うのに。まあ、利得だが。
「あと、これが変な服。あの骸骨の攻撃で千切れた布を集めて洗って、妖術で戻した」
そう言って渡されたのは、俺が着ていた制服だった。
時戻しの禁術……妖術の中でも最高位に位置するもので、扱いきれなければ身を滅ぼすと伝えられる代物だ。
それをこんな簡単に……何年生きているんだ、待雪は。
少なくとも、千年は……
そこまで考えた時、背筋に悪寒が走った。
「棗……何か変な事、考えなかった?」
感良すぎだろう、待雪!
「別に、なんも考えてないぞ?」
「じーーー……」
くそ、ジト目可愛いなこんちくしょう!
「考えてないって」
「……むー、怪しい」
「そろそろ許してくれ」
本当、もう勘弁してほしい。
自分に戸惑っているんだよ。こんなに感情が動いたの、初めてだから。
「とりあえず、助けてくれてありがとう。それじゃ、俺は行くから」
「……もう行くの?」
寂しげに聞く待雪。胸の奥が少しだけ、痛む。
だが、もう嫌なんだ。もしも、もしも待雪があいつらと同じように変わってしまったら……それが怖い。恐ろしい。
初めて俺に優しくしてくれた待雪が変わる。そんな事はないと思いたいのに、心の奥底に刻まれている恐怖が、それを拒む。
だから、胸の痛みを押さえ込んで、平気なふりして言う。
「ああ。もう用はないし、さっさとこの世界から消えたいからな」
「……帰ったら、死んじゃうの?」
「……そうだ」
「……ここにいたら、棗は死なない?」
その問いは、暗く。
しかし、胸の痛みを押さえつける事に精一杯だった俺には、それに気付く事は叶わなかった。
「……そうだなぁ……ここにいたら、死なないかもしれないな」
「……わかった」
何を。そう問おうとした瞬間、背中の一部が燃えるように熱くなった。同時に、気が遠くなっていく。
これは、まさか……刻印?
「なん、で……まつ、ゆき……?」
待雪も、同じなのか。あいつらと、あいつらとあいつらとあいつらと——!
待雪は、ごめんなさいと一言謝る。その時俺は、かつて上級怪異から聞いた〝ある事〟を思い出していた。
『鬼の一族は愛情がとても深く、それ故に嫉妬深い。己が心より決めた者を、生涯永遠に愛し続ける。その者が自分ではない惚れた者がいる場合、自分もろとも惚れた相手を殺す。それが鬼の一族の絶対数が少ない由縁じゃ。そしてな、その者が自分の前から消え、もう会えなくなるかもしれない時——
鬼は、その者に『迷いの刻印』を刻み込む。己の社から、逃さぬように。
気をつけなされよ、若く弱き者よ。鬼は愛し合えば最高の相手じゃが、その恋が実らねば最悪の怪異となり得る。
嫉妬に狂い、呪詛により鬼と化した宇治の橋姫のようにな』
それが示す事は、待雪が俺を好いていると言う事。
嬉しいのか、嬉しくないのか……
完全に背中に『迷いの刻印』が刻まれた。待雪が許さぬ限り、ここから出る事はできない。
「あなたは、死なせない」
そう呟く待雪の下で——
俺は刻印の痛みに焼かれながら、意識を飛ばした。
初めてのヤンデレ。というか鬼は全員ヤンデレ。
書溜めが結構あるので、早めに。