第弍幕 白い鬼
ふわふわ、ゆらゆら。
何処かを漂うこの感覚が、とても大好きだ。この時だけは、誰にも邪魔されず、平穏な時間を過ごせるのだから。
俺は何をしたんだっけ。自殺しに行って、上級怪異に遭遇——
あ。
「うわぁぁぁぁ」
ばさっとかけられていた布団を蹴り飛ばす。ふわふわゆらゆらを楽しむ時間なんてないのだ。
何で俺普通に寝てんの? こんな時でも無表情だとわかります。それに焦ってもいないし何も感じてない。こんな時でも感情が動かない。それを認識すると、嫌々でも認めざるおえない。
俺は、生きているのだと。
「んー、まあ、どうでもいいや」
さっさとネックカットして死のう。ナイフも持ってきてるし、保護してくれた人には悪いが俺の命は俺のものだ。どうしようが勝手だろう。
ちなみに、リストカットは自殺には向いていないと思う。苦痛なく、確実に死にたいのならば首が一番効果的……そう俺は思っている。
というか、ここってどこだ?
今更ながらにそれが気になり、周囲を見渡して見る。
木で作られていて、結構しっかりしている。妖力を大量に含んでいるのが視えるので、魔木に変質していそうだ。
空気中にも高い濃度の妖力が漂っている。あの樹海の最奥地以上の濃度……常人なら十分で死亡するレべルである。
ここまで考えた時、頭の中にある場所が浮かんだ。
……まさかな。いや、もしも本当にあそこだとすれば——
「……ここ、常世か?」
怪異達の世界にして、俺たち人間の世界——現世とは、相容れない関係を持つ世界。
その妖力濃度は一番低くても人間に害を及ぼす程であり、俺のような異能持ちですら危険が付き纏う魔境だ。
何で俺が、こんな所に。
「……俺を助けたのが、上級怪異だったのか?」
というより、それしか考えられない。
あの妖力濃度の中で活動可能な人間は稀であり、それ以上に常世と現世の扉を開けるなんて真似が出来る人間など存在しない。いや、存在してはならないのだ。
偶然、それも宝くじに当たるよりも低い確率で扉が開く事があるが、あのタイミングで扉が開くなんていう事はあり得ない。もしそうだったのしても、寝台で寝ている理由が見つからない。草原やらで放り出されるはずなのだ。
残る選択肢はあと一つ、上級怪異のみ。それもとびきり、大物の。
常世に連れてきて妖力を回復させ、喰らうつもりか。それとも単なる気まぐれか。
「人の妖力限界保有量は、今の俺と同レベルか」
今の俺の妖力は、俺を殺そうとしてくれたあの上級怪異とほぼ同じ。
妖力は多い所にいれば自動的に回復し、種族や位階によって決まる限界値まで蓄えるので、これ以上増えない俺の妖力は限界値まで蓄えられた事になる。
妖力はあればあるほど肉体の老化が遅くなる。それでも寿命はあまり変わらないし、雀の涙程だが、身体能力も上がる。ろくに鍛えてもいないのだから、当たり前かもしれないが。
それに対して、怪異は不老。そして、怪異の姿はほぼ全て異形。さっきの上級怪異が良い例だ。
「俺の荷物どこ行ったんだろ。服は……着流し?」
寝台のそばに、黒色の着流しが置いてあった。これを着ろとでも言いたげに。
ふと気付けば、今の服は明治時代の寝巻きのようなものだった。あら、結構上等品。
四苦八苦しながら着流しを着て、洗面台で髪を整える。
「こんな感じかな」
今は妖力を限界値まで蓄えているからか、鏡に映る目には生気が宿っている。これは常世の特徴である「一定以上の妖力を持ち、常世の空気に対して耐性のある存在への、生命力や身体能力の補正」が働いているのだろう。
まさか我が身に起こるとは思いもしなかったが。
小屋の戸には黒い鼻緒の下駄が用意されており、それを履いて外に出た。
外は神社のようで、大きな住居用の小屋に赤い鳥居が建っていた。
「結構立派だな」
ザッザッと砂利を踏み鳴らし、敷地を歩く。
第一の目的はネックカット。こんな場所なら住んでも良いかもしれないが、もう生きるのには疲れた。面倒臭い。
ただ、歩いている上で気になった事が一つ。
神社全域に、術が施されているのが視えた。術の妖力の形からして、迷いの術だ。
それと、封印の術も施されていた。何か、内側に封じ込めるようなモノ。しかし封印されるような邪悪で強大な怪異が俺を助けるとも思えないので、他の怪異だろう。
「ま、俺の前には迷いの術なんて意味をなさないんだけどね」
俺の目の前では、あらゆる幻術は無効化される。
迷いの術は眼と脳を介する幻術だ。ばっちり無効化できちゃいます。
助けてくれた怪異に礼を言うまでは、出るわけにはいかないけど。そこら辺の義理立てはきちんとする男なのだよ、俺は。
昼っぽい神社を移動し、怪異を探す。
途中にある大きな木や、小さな池を楽しみながら進んでいく。
と、そこで視界に、とてつもなく大きな妖力の塊が視えた。
なんだ、これ。俺が気付かないなんて……
この前の上級怪異が子供に思えるほど、量と質が桁違いに大きく、澄んでいる。
間違いなく、上級トップ――しかし、これを上級という括りにしていいものなのか?
最上級。そんな言葉でも表せない程の、濃密な妖力。
だが、これではっきりした。
俺を助けた――それとも、エサとして確保したのは――この怪異なのだと。
俺の中の生存本能が訴え、無意識に冷や汗をかく。
しかし、立ち止まってもいられない。
俺を殺してくれるかもしれないし、何よりも礼が先決だ。
見えない圧力で重い、重い自分の体を動かし、一歩一歩進んでいく。
進むごとに重くなる体を引っ張り、妖力の源――怪異へと近づく。
そして俺が見たものは――
「……あなた、起きたの?」
身長は、俺よりも少し低いくらい。白く美しい髪の長さは、肩まで。
前髪の両端には髪をある程度纏める装飾品がついており、そこのみ黒く、印象をはっきりしている。
可憐さとあどけなさが混じるその顔は、今まで見たことのないほどに儚げで、整っている。
黒いその目は、黒曜石のように深い闇のよう。
白磁のように白いその肌は、しかし病的ではなく、むしろ健康的なようだった。
身に纏う和服は白く、純白だ。だが光を反射しまぶしい、などという事はなく、目にしっかりと焼き付けられる。
そんな、見惚れてしまう程に美しい少女。
ただ、一つ。一つだけ、信じられないようなものがあった。
それは――額から生えている、一本の白い角。
紛れもなく、その角は――
「……鬼?」
少女が、怪異である証だった。