第二章 追憶
赤羽駅に到着後、サラリーマン風の男性が二人乗り込んできた。隆司の座るボックスシートの反対側に腰かけて、各々、スマートフォンを操作し始めた。中年風の男性は、扱いが不慣れなようで、顔をしかめていた。新人風の男性は、イヤホンを装着して、笑顔を浮かべ始めた。
発車してすぐに、ポイントに差し掛かり、レールの軋む音が響いた。新人風の男性は、一瞬、顔を曇らせたが、再び笑顔を浮かべて目を閉じた。一分ほど経って、列車はけたたましい警笛を響かせ、荒川鉄橋に差し掛かった。
荒川土手は、いつになく賑わっていた。平日だというのに、イベントか何かが開かれているのだろうか。よくよく眺めると、お年寄りが大半で、ゴルフを楽しんでいるようだった。走行時に響き渡る音を、何度となく耳にした隆司であったが、いつになく興味深く感じられたのは、荒川の水面に映える日光のためであった。十年前、初めて荒川を越えた時は、朝のラッシュで身動きが取れず、気持ち悪さを感じていたが、乗客の隙間から垣間見た、荒川の景色と、その水面を輝かせている太陽に目が釘付けになった。鉄道写真を撮る際、日光を一つのモチーフにするようになったきっかけである。
雲居に続く、何百キロという旅を終えた大河も、いよいよ終結を迎えようとしている。列車に揺られる乗客は、どういった思いで眺めているのだろう。太陽が差し込んでいる。最後のエールを送っているようだ。私たちには、どれほど注がれているのだろうか。
浦和に到着した頃合い、中年風の男性は、堪忍袋の緒が切れたのか、スマホの画面を何度も叩いていた。新人風の男性は、相変わらず目を閉じて、音楽に興じているようだった。
「なあ、君」
中年風の男性は、新人風の男性の肩を軽く叩いた。新人風の男性は、迷惑そうな顔つきを心の奥に潜めたような、作り笑顔で応じた。
「どうかしましたか、田中さん」
「いや、メールの送り方が分からなくなってね、ちょっと手伝ってくれないかね」
新人風の男性は、耳元からイヤホンを取り去り、田中さんからスマートフォンを受け取り、まじまじと眺め始めた。
「こうして、こうで、ほら、送信ボタンを押して、送れましたよ」
田中さんは、落ち着いた表情で、ありがとう、と言った。新人風の男性は、ささやかな息抜きの時間を奪われたことに対する苛立ちを隠そうと必死になっているようで、高校生の息子と、仕事疲れのたまった父親の間柄のように感じられた。
大宮駅到着後、彼らは下車した。
「少し遅いが、昼飯にでもするかね、奢るよ」
田中さんは、スーツの裾から、財布を取り出して中身を確認し始めた。
「いいですね、ご馳走になります」
新人風の男性は、田中さんの後を、弾んだ足取りで追いかけた。車内に残っていたのは、隆司一人だけであった。反対側の椅子に置いていたカメラを手に抱えて、ホームに降り立った。
「ちょっと、盗撮させてもらいますね」
新人風の男性と同じく、隆司の心も踊っていた。
束の間、列車に長く揺られていると、たまには背伸びしたくなる。一人になってしみじみと考え事をしたり、本を読むことが出来たりと、本当にいい空間であるけれど、それでも、人の気配を感じると、ある程度の興味が引き寄せられる。先輩おじさんの笑いと、それに答える新人の行く先には、何が待っているのだろうか。
知らぬ間に、発車メロディーが鳴り響いていた。隆司は、急いで車内に駆け込み、自分の座席に戻った。ふと、ホーム上の蕎麦やから、カレーの香しい匂いが漂っていた。
「あの時とそっくりだ」
隆司は、カメラを向かいの椅子に置くなり、考え始めた。脳裏に浮かんでいたのは、十年前、初めて旅に出た幼い隆司が途中下車して食したカレー、そして、隆司の横で同じくカレーを食していた姉の姿であった。