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開く扉の前

作者: 古今

 自習室をでると、冷気が将太の顔に貼りついた。ピタッと顔が渋くなる。口はやや山なりに、目を細め、白い綿のような息を吐き出す。背後にある自習室の生温かいぬくみが首筋の辺りを覆っていた。石油を燃やすにおいも、まだ鼻に残っている。扉の丸いノブを手離すと、緩やかに自習室への退路は閉められ.....たかと思われたが、いっこうにその気配がない。将太は残尿感とも言うべき何とも言えぬ心地がして、扉の方を振り返ってみた。やや名残惜しそうに、扉は微かな隙間を見せびらかしていた。微かなすきま風は、あたかも扉自体が息をしているような小さな吐息のようだ。再びノブを手に取り体重をかけると、カチャリと扉の爪が引っかかった音が聞こえた。テトリスの一本の長い棒を縦にはめて、四段くらい一気に消したような感じがした。

「おう。」

 野太い声が将太の耳に届く。自習室を出たとき、既に将太は典広の姿を目で捉えていた。

「なんで閉めるんだよ。」

「いやあ、なんとなく。」

手に取っていたノブを典広に明け渡しながら、どこ行ってたの、と尋ねる。

「下。食堂。」

 目も合わせずに典広は自習室に入ろうとする。石油を燃やすにおいは、もう将太の鼻に残っていない。廊下のひんやりとした空気が、鼻から脳にかけて一掃してしまった。典広がカチャリと音を立てて、ほんの十秒ほど前までいた自習室に入ろうとする。将太は、またあのにおいが鼻に群がってくるのだろうかと思うと、咄嗟に呟いた。

「そういえばさ、」

 将太は扉のノブを回す典広の右手を見ていた。

「あれ、もう書いた?進路...なんちゃら調査。」

「え?」

「進路なんとか。」

「進路希望調査票?」

「うん、たしかそんな感じのやつ。」

 典広は開きかけた扉を再び押し戻した。カチャリという音はしなかったが、扉を閉めるとき微妙に感じるあの風圧が、その閉められる扉の様子から手に取るように感じた。

「あれなぁ......なんか消えたんだよなぁ。」

「消えたって?」

「鞄ん中に入れたのは覚えてんだけど、いつ取り出したのか、そっから見かけてないんだよ。」

「へぇ、それじゃまだ出してないんだ。」

「うん。でも無くしたなんて言ったらどうなんだろな。ザキ先すっげー怒るだろうな。」

 扉を閉めているとはいえ、この薄い扉の向こうは物音一つさえ無い自習室だ。聞こえる音は、黒鉛を磨り減らす音くらいだろう。将太たちは、自習室に会話が聞こえるかも知れないということを無意識にも警戒して、掠れ声とまではいかない音量で会話をしていた。

「あれ明後日までだぞ。見つかるか?」

「分からない・・・・・・どうにもならなかったらお前の調査票コピーさせてくれよ。」

「え、だってあの調査票って単なる白紙じゃなくて厚紙だぞ。」

 典広の右手は完全にノブから離されていた。

「厚紙くらい何とかなるでしょ。」

「あれは?学校の判子とか押されてなかったっけ。」

「調査票ごときに判子なんかにあったっけ?」

「あったような気がする。朱色の・・・・・・」

「うー、それは誤魔化しようもねぇなぁ。」

 典広は頭を掻いた。左手は骨盤の辺りに据えられる。人は困ったとき手をどうにかして動かす癖がある。

「なんであんなもん書かなきゃいけねぇんだろな。」

「そりゃあ、一応担任くらいは進路の希望は把握しといたほうがよくね?」

「ちがくてさ。なんで進路なんていう大それたことを、あんな厚紙一枚に印刷された数個の枠内に繕わなきゃいけないのか、って。」

 典広の声が少し大きくなった。将太は、典広が抱く質問の主旨がそれでも掴めず、さぁ、と一言返すにとどまる。典広の鼻から、「フンッ」と、息とも何ともつかぬ音が聞こえてくるようだった。

「まあいいや。素直に行こっかなぁ、ザキ先のとこ。」

「おっかねぇな。」

「取って食われるわけじゃねぇだろ。」

「調査票くらいちゃんと管理しとけよな。」

「先生みたいなこと言うなよ。」

「まぁ、あんな仰々しい紙切れを携帯しておけなんてことも嫌だけど。」

「だろ?」

 典広は思い出したかのように、右手でノブを掴みかけた。蝶番が今か今かと待ち構えているようだ。

「とりあえず、あとで行ってみるわ。」

「そうしとけ。」

 将太を横目に、典広は丸いノブを回した。カチャリと爪の部分が引っ込む音がした。キィーと悲鳴のような音が鼓膜を貫通する。扉がじわじわと開けられて、すきま風が将太を自習室に吸い込みそうな気配を醸し出していた。

「じゃあな。」

 典広は躊躇いなく自習室に左足を差し出していた。将太には、自習室が口を開けて典広を呑み込んだように見えた。自習室の、石油を燃やすにおいが将太の鼻にまとわりつく。

「ああ。」

 将太は典広の足下を見ていた。廊下に残された右足が自習室に引っ込み、やがて閉められる扉で典広の姿が隠される。キィー・・・・・・扉の爪が引っかかる音はしなかった。ぴゅー、ぴゅー、すきま風の音が耳をよじ登ってくる。将太は扉のノブを掴んで、前のめりになりながら右足に体重をかけた。

 カチャン。

 自習室にいる人間には、到底気付かれないはずだ。

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