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さくらのサクラ

作者: 水城三日

 自分の名前が嫌いだった。

 小さい頃からずっと、物心ついた時から。いや、もっと後だ。小学生くらいだろうか? まぁ、いい。とにかく、俺は自分の名前が嫌いだった。これ以上無いというくらいに。

 それは、俺の名前がとても珍しい、普通では余り見かけない名前だったから。

 しかし、珍しい名前だからって別に誰かに特別扱いされたりはしなかった。悪い意味では、特別扱いされたけど。

 もちろん、言葉通りの意味だ。

 大人達からは確かに良い名前だと褒められた。お世辞かどうかは知らないが、あの頃の俺はそれを素直に喜んだ。自分の名前に誇りを持っていた。自分の名前は素晴らしいものなのだと。

 だが、素直だったのは別に俺に限った事じゃなかった。俺の周りにいた全ての子供たちも同様に純粋だった。時として、子供は残酷だ。素直が故に真実を口にし、純粋が故に人を傷付ける。自分の思ったことを言葉にしている彼らに悪意はない。しかし、その悪意ない言葉はあの頃の俺を傷付けた。

 変な名前だと、何かある度にからかわれた。

 嫌だった。止めろと言っても、誰も聞かない。その反応が面白くて、さらにからかわれる。

 ただの感想だったはずのその言葉は次第に小さな悪意へと変貌を遂げていた。

 そのうち、どこに行ってもからかわれるようになった。

 中学に上がっても、それは変わらない。当たり前だ。同じ学校の生徒のほとんどが俺と同じとこに上がって来るのだから。

 この頃には、もう言葉は完全な悪意へとなり、それと同時に、俺は自分の名前が大嫌いになっていた。

咲良。

 良く咲く。もしくは、良い花が咲く。そんな意味を込められてつけられた名前。それが、俺の名前だった。俺が女だったら、きっとここまでからかいの対象にはされなかっただろう。普通、「さくら」なんて名前、男にはつけない。

 それでも名付けたのは、生まれた季節が春真っ盛りで、それでいて、大きな一本の桜が、家に植えられていたからだろう。

 きっと家に桜なんて植えられてなくて、自宅出産じゃなければ、きっとまた違う名前になっていたはずだ。

なんにせよ、迷惑な話だった。

「はい、それじゃ皆に自己紹介して貰いますねー」

 特に、こういう日には……。

 四月が始まり、最初のイベント。

 世間でいう始業式。

 しかし、今の俺達は見慣れない所で机に座っていた。

 教室という面では同じだが、面積は間違いなくこちらの方が広い。黒板も、掲示板も、その全てが一回りだけ大きく感じられる。

 全てが変わっていた。

 場所も、生徒も、教師も。

 今日は入学式。新しい生活の始まりを祝う日。今はそのメインである校長のありがたい御経のような挨拶を終え、ようやくこれから一年お世話になる教室に辿り着いた。そこでのこれまた初めてのHRの最中だった。

「それじゃ、そっちの人から順番にどうぞー」

 そう言って、俺達の担任になった若い女の先生が俺の居る場所とは全くの逆方向に指差す。

「は、はい!」

 一番最初に指を差された生徒は少し緊張した様子で立ち上がり、たどたどしく自己紹介を始めた。

「…………」

 そんな彼を、俺は頬杖をつきながら見守っていた。いや、別に見守っちゃいないか。ただ、ぼーっと経過観察をしてただけだ。別に彼の事にそこまで興味が湧いているわけでもないし。

 それよりも、俺はこれからの事を考えて憂鬱になりそうだった。

 これも、もう毎度の事。小、中、そして今、この場で起きる毎回恒例と言っていいイベント。自己紹介。これが、一番嫌いだった。

 皆の物珍しげな視線が。その後の珍しい名前だな、というからかいの言葉が。

 ここまでの流れを俺はもう何度も経験してきた。

 本当にめんどくさい。

 視線を送るだけならまだいい。我慢出来る。しかし、珍しいねと話しかけられた時、これが一番面倒だった。

 その問いに対して、俺は一体なんて返せばいいのか。

 ありがとう、とでも言えばいいのか? それとも、この名前のせいで受けた過去の傷でも曝け出せばいいのか? もし、そんなことを言われて、お前らはなんて反応するんだ? 困るだけなんじゃないのか?

 困るだけなら、最初から話しかけないで欲しい。この名前は、お前らが思っている程、良い名前でもない。いや、そもそもそんなことを言う奴らの大半は物珍しさだけだ。良い名前だなんてこれっぽっちも思っちゃいないだろう。話題のネタが欲しいだけだ。妙な名前を持つ奴がいると。そんな話の肴が一つあるだけで場はさぞ盛り上がるだろう。俺以外は。

 本当に、迷惑な話だった。

「はい、ありがとう。それじゃ、その後ろの子、行ってみようか」

 と、そんなことを考えている間に次々と自己紹介が終わっていく。終わった奴らは自分の番が過ぎ去った事に安堵していた。いいよな、そんな気楽でさ。つくづく、そう思う。

 順番はさらに進み、ついに俺の前の席に座っていた奴の自己紹介が終わった。

 俺の番か……。

「それじゃ、その後ろの子―」

「はい」

 ここまで来たら腹を括るしかない。席を立ち、前を向いて皆と同じように挨拶する。

「渡井 咲良です」

 瞬間、少しだけ教室内がざわっとした。立ち上がった時よりも視線を強く感じる。ここも同じだ。いつもと同じ。誰一人として対応は変わらない。

 きっと、また以前と同じような未来が待っているに違いない。

 そんなつまらない世界を想像していると自然とため息が漏れそうになる。

 って、いやいや。さすがに自己紹介中にため息は失礼過ぎだろ。

 漏れそうになる息を慌てて抑えながら、皆と同じ、誰も聞きたくないだろう趣味と簡単な挨拶だけをして俺の番は終わった。

 自己紹介が嫌な理由、実はもう一つある。

 こういう自己紹介の場合、基本的な順番は決まっている。席順、もしくは「あ」行の人から始まるかだ。まぁ、始業式最初の席なんて大体、後者の順で座っているので、必然的に俺が最後になる。

 その為、印象に残りやすいのだ。

 ほら、一番最初に自己紹介した彼なんかもう見向きもされていない。これだけの人数だと、全員を覚えるのは難しい。だから、とりあえず印象の強い奴だけを覚えるのだ。例えば、名前が珍しい奴とか。

「はぁ……」

 順番も終わり、さっきまで溜めていたため息を小さく吐きだす。これから当分の間は遠目から少し物珍しげに見られる事だろう。

「それじゃ、次の子……っと、君で最後だね。それじゃ、最後よろしくね」

「はい」

 俺の後ろからそんな声が聞こえ、席を立つ。

 あれ、俺の後ろにまだ人がいたのか。

 てっきり、自分で最後だと思っていた。

「渡辺 櫻です。よろしくお願いします」

 凛と、透き通るような声で、彼女はそう言った。

「…………」

 厄年だと思った。

 まさか、俺と同じ名前の奴がいたとは。しかも、それが女と来た。これで、余計に印象が強くなったに違いない。

 何故って、彼女の声がこんなにも響き渡る声だからだ。

 自分の存在を刻みつけて、忘れさせないような。それくらいに存在感のある声だった。透き通るくらいに透明なはずなのに、確かに存在を感じさせる音。

 後ろの彼女が発する声にそんな印象を感じていた。

 それは、俺以外の生徒もそうだったのだろう。少しざわついた様子だった教室が今はぴたりと静まり返っている。その声を聞き逃さんとするかのように。

「それでは、これから一年の間、よろしくお願いします」

 二度目の挨拶で彼女の紹介は終わった。何も変わった紹介をした訳ではない。それなのに、着席した後でも教室はしんと静まり返っていた。彼女の声の余韻を楽しむかのように。

「へ? あ、はい。ありがとうね」

 彼女が座ってから少しして担任はようやく口を開いた。どうやら、俺達以上に聞き惚れていたようだ。

 教室内でも小さな笑みが零れる。

「あー、はいはい。静かにしなさーい」

 照れを誤魔化すように担任が話を進める。

 その後、俺は担任がどんな話をしたのか覚えていない。

 何故って、ずっと気になって仕方なかったからだ。

 俺の後ろにいる、俺と同じ名前を持つ、女の子の事を。

 彼女の声がずっと耳に残っていた。彼女の存在がずっと頭から離れる事はなかった。今もまだ、教室中の空気を変えた、あの声がこだましている。

 もしかして、これが一目惚れと言うやつなのだろうか?

 いやいや、そんな訳がない。というか、一目も見てないし。言うなら、それは一聞惚れだろう。

 いや、だから惚れてないって。

 ただ、気になっただけだ。自分とは正反対だと思ったから。

 その存在感も。性別も。自分の名前に誇りを持っているところも。

 誇りを持ってるかどうかは知らないけど。でも、嫌いではないんだと思う。そう感じる。俺が自分の名前を嫌いだからこそわかる。あの時、自分の名前を言った彼女の声は、自分の名前を恥じてなんかいなかった。わかって貰うように、記憶に残って貰うように、喋っていた。そんな気がする。

 そんな気がしただけ。

 本当のところ、どうなのかなんて知らない。

「はい、それじゃ。次の時間もあるから間違えて帰らないでね」

 気が付けば、初めてのHRは終わっていた。

 担任が居なくなった教室は小さくざわついている。周囲に知りあいの人間がほとんど居ない状況の中だ。皆、どんな人間なのかを観察しているのだろう。こいつと付き合えるのか、こいつは自分と相性がいいのか。

 いきなり、話しかけて来る奴なんて普通は――

「ねぇねぇ」

 いた。

それも、俺のすぐ側に。

「あれ? ねぇ、聞こえてる?」

「聞こえてるよ」

 そう言って振り向く。

 そこには、黒髪の美少女がいた。

 なんていうか、格が違った。一言で言うのなら大和撫子だろうか? 今は制服を着ているからアレだけど、着物とか着たらとんでもなく似合いそうな、そんな感じ。

 そんな美少女が、俺に話しかけて来ていた。

「ねぇ、君も同じ名前なんだね」

「まぁ、な」

 やっぱり、その話か。

 自分と同じ名前なんだ、その話を持ちかけて来るのは当然だ。それに、相手は男。珍しいことこの上ないだろう。

 きっと、珍しいとか、凄い名前だねとか、そんな在り来たりな台詞を吐くのだろう。聞き慣れる以上に聞き飽きた台詞だ。その返しも言い飽きた程に。

 毎年の事が今年もやって来る。

 そう思っていた。

 しかし、彼女の口から飛び出したのは、そんな普通の言葉ではなかった。

「でも、君って自分の名前、あんまり好きじゃなさそうだね」

 彼女は、静かにそう言った。

 驚いた。

 そんなことを言われたのは初めてだったからだ。顔見知りの相手にすら、言われたことはない。それを、彼女はあっさりと言ってのけた。初対面で、しかも会話じゃない。ただの自己紹介、その一言だけで。

「……あれ、違った?」

「いや、違わない」

「そうだよね。なんか、凄く嫌そうだったもん。最初は自己紹介が嫌なのかなって思ったんだけど、その割には普通に喋ってるなって思ってて」

 そこまで見てたのか。

「人間観察が趣味なのか?」

「まさか、私はそんな人間じゃないよ」

「その割には随分と観察されてる気がするんだけど」

「あー、それはね……」

 そう言って目を逸らす。

 なんだ? なんか言いたくないようなことでもあるのか? それとも、何か気になる事でもあったのか?

「まぁ、嫌なら言わなくてもいいんだけどさ」

「ああ、そういうんじゃなくてね。ちょっと気になっただけだから」

「気になった?」

「うん、名前がね。実は教室入る前から知ってたんだ。ほら、校門前にクラス表あるじゃない?」

「ああ」

 納得した。

「それ見た時に私と同じ名前の人がいるって気付いてね。ずっとどんな人か気になってたんだよね」

 つまり、外に貼ってあったクラス表を見た時、たまたま俺の名前が目に入ったんだ。それで、ずっと気になっていたと。

「で、その結果はどうだった?」

「まぁ、悪い人じゃないんじゃない?」

 ま、妥当なとこか。

 少なくとも悪い印象は持たれなかったらしい。

「そんなことよりさ。君の名前、かっこいいよね」

「そうか?」

「良く咲くって書くんでしょ? いいじゃん、良い名前だと思うよ」

「本人は全然良く咲いてないけどな」

「そんなことないと思うけどなぁ……」

 お世辞だ。

 どう見たって、俺は咲き誇っている人間ではない。それは、むしろ俺の目の前にいる彼女の事だろう。その存在感も、明るさも、見た目も。その全部が、本当に桜のようだった。名前を体現したような完璧さだ。この名前が嫌いな俺が羨ましいと思う程に。

 しかし、彼女は首を振る。

「君は、まだ蕾なんだと思うよ。咲いてないだけだよ。咲いたらきっと素晴らしい人になる。私が保証する」

「いや、初対面の人間に保証されてもな……」

「へへ、そっか」

 そう言って、小さく笑った。

「あ、ねぇねぇ。君の事、咲良くんって呼んでいい?」

「いきなりだな」

「いいじゃん。この学校で出来た初めての友達ってことで、ね?」

「友達なのか?」

「違うの?」

「いや……違わないか」

「うんうん、そうだよね! それじゃ、よろしくね。咲良くん!」

そう言って手を差し出す。

「こちらこそ、よろしくな。櫻」

「へ?」

「そっちが名前で呼ぶんだから当たり前だろ? それとも、駄目なのか?」

「ううん、全然いいよ! それじゃ、改めてよろしくね!」

 俺も手を差し出し、握手する。

 期待していなかった。この学校にも。きっと、いつもと同じだと思ってた。たった、一つや二つ歳が増えたくらいで人間の中身はそう変わりはしない。根本の部分は誰だって同じのはずだ。

 だから、同じ事になると思っていた。

 つまらない、楽しくない、からかわれるだけの毎日が続くのだと、ずっとそう思ってた。季節が巡るように、一年が同じように過ぎ去っていく。そんな生活を過ごしていたから。

 しかし、今年は違った。

 同じ名前を持つ少女と出会って、友達になれた。この学校で出来た初めての友人だった。

 目の前の少女は俺の顔を見てにこりと笑う。満開の笑顔だった。

 綺麗だなと思った。

 本当に、名前通りの女の子。本当に、羨ましかった。

「それでね、咲良くん」

 少し、頬を赤く染めながら俺の顔を見る。いや、少し視線がずれている。目を合わせようとはしなかった。なんだろう、俺の後ろを見ているような気がする。

「どうした?」

「えっと、ちょっと言いづらいんだけど。というか、私が悪いんだけど……」

 なんだろう? そんな申し訳なさそうな顔をする必要なんかないはずなんだが。なにか俺に失礼な事をしたのだろうか。さっきまでのやり取りを思い出す。

 いや、何もないな。うん、特になにかされた訳でもないし……。

 じゃあ、何故、櫻はこんな顔をしているのか。

 その答えはすぐにわかった。

「えっと……あの、ね? 仲が良いのは素晴らしい事だと、思うんだけどね」

 声は後ろから聞こえてきた。つい、さっきまで聞いていた大人びた声。いや、まぁ大人の声なんだけどさ。

 つまり、うん。そういうことです。

「す、すいません!」

 慌てて振り返り、席に座る。

 そこには、櫻と同じように頬を赤らめた担任の先生の姿。

 きっと、俺達が手を繋いだと同時に入って来たんだろう。そりゃ、教室に入って来たらいきなり男女が手を繋いでいたらそりゃビックリするだろうな。いや、当事者が何言ってんだって話なんだけどさ。

「え、えと……すみません」

 後ろから櫻の声が小さく聞こえてくる。振り向いて確認する事は出来ないが、きっと声以上に身体も小さくなっているに違いない。

 というか、いまさら気付いたのだが、教室中の視線がこちらを向いていた。多分、先生が来るずっと前から。その中の半分は苦笑いをしながら、残りは少し恥ずかしそうにしながら。俺達のことを観察していた。

「……終わった」

 俺の高校生活の記念すべき第一日。その日、新入生達の間で小さな噂が出回ったのは言うまでも無かった。



 時間というものは早いものだ。

 それは、楽しければ楽しいほど。面白ければ面白いほど。早く早くと俺の前を走って行く。それに置いて行かれないように走り続けると、回りの世界は一瞬にして変貌を遂げていく。

 過去は忘れ去られ、未来がやってくる。その未来を追い越し、それは過去となる。終わりなんかない。ずっとずっと、人生のマラソンをこうやって走っていく。

 時間においてかれないように。

 時間に忘れられないように。

 だけど、その忘れられないようにしている俺達は、一体どれだけの物に忘れ去られているのだろう。

 今の幸せはきっと、一瞬で忘れていってしまう。

 それは、瞬く間に散っていく花のように……。

 散って、咲く。

 この繰り返し。

 人生の中にある、小さな人生。

 それが、きっと。

 幸せ。



 気が付けばもう一週間が経っていた。

 俺が彼女と出会ってからの七日間、久々に学校が楽しいと感じていた。

 なるべく、中学の同級生が行かない学校を選んだのも良かったが、一番はまちがいなく櫻のおかげだった。

 彼女の存在が俺に大きな影響を与えてくれた。

 櫻がいなかったら、きっとこんな気持ちにはなれなかっただろう。あの頃の、つまらない生活を送っていたはずだった。

 名前のことについて、彼女は平気で触れてくる。桜の木を見る度に、彼女は自分達の花だと話し掛けて来る。しかし、それが何故だか不快な気持にならなかった。余りにも自然にそれを口にしているからだろうか。それとも、彼女自身が同じ名をしているからだろうか。

 多分、どっちも違う。

 彼女の言葉が不快に感じないのは、きっと、彼女自身が自分の名前を愛しているからだ。桃色に咲く自分の名前を。彼女は愛していた。それは、同じ名前である俺まで嬉しいと感じてしまう程に。

 だから、彼女といるのは居心地が良かった。名前を呼ばれても、不快にならないから。どれだけ付き合いが長くても名前だけは絶対に呼ばせなかったのに、彼女にはそれを許した。いや、許す許さないの話にすら発展しなかった。

 それだけ、櫻は俺の名前を自然に呼んでいた。

「ねぇ、咲良くん。帰ろっ!」

「ああ」

 放課後。授業を終えた俺達はそのまま教室を出る。

 あの日から、俺達は自然と帰路を共にするようになった。男と女が二人きりで帰る。こんなのからかわれて当然だと思うのだが、初日の事件が原因なのか、そういう目に遭った事は一度もなかった。

「きっと変な勘違いしてるんだろうねー」

 そんなことを言いながら櫻は笑っていたが、それって俺達は付き合ってるってことなんだぞ? お前、それでもいいのか?

 そんな言葉が心を巡る。

 巡るだけ。

 そんな言葉、俺の口から言える訳がなかった。

 へたれ。

 うるさい。黙ってろ。

 今はまだ、このままでいいんだ。

 今は? それじゃいつかは動くのか?

「どうなんだろうな……」

「え? なにが?」

「あ、いや。なんでもない」

「うん? なんか隠してる気がするんだよなー」

 そう言いながら顔を覗き込む。

「……っ」

 整った顔がだんだんと近づいて来るのに耐えられなくて、つい目線をずらしてしまった。それを見た櫻が「あー! 目逸らしたぁっ!」と非難する。

 いや、あんな事されたら普通の男子は絶対に目線を逸らすだろ! 無防備なんじゃないかってくらいに近づいて来るんだぞ。それに対して何故、非難されなければならないのか。

 しかし、そんなこと言える訳もなく、目線を逸らした真実を誤解している櫻はさらに非難を続ける。

「やっぱ、隠し事してるんだー!」

「だから、してないって……」

「じゃ、なんで目線を逸らしたの?」

「それは……」

 言えない。言える訳がない。

 しかし、時間が過ぎるほどに櫻の機嫌が悪くなっていく。

「ふーん、言えないことなんだ? 言えない理由なんだ?」

 そりゃ、そうだ。

 こんなこと伝えたら、きっと櫻は困る。俺だって困る。下手をしたら、この関係だって崩れてしまいかねない。

 そもそも、俺はこの気持ちがなんなのか、わかってすらいないのだから。

 嘘吐き。

 どこからか、そんな声が聞こえた気がした。

「ま、いいけどさ」

 しばらく、半目で睨みつけていたが、さすがに諦めたのか小さくため息を漏らす。その次にはもう話題は変わっていた。

「それよりもさ、そろそろ桜が散っちゃうね」

「そうだな」

校庭回りに生える桜。今はまだ、その身に桃色の花を纏わせているが、それもきっと今週の内だ。桃色は落ち、次第にその身体を緑で染め始めることだろう。

「寂しいよね」

「ああ」

 そんなこと、一度も思った事がない。でも、彼女が言うと本当に寂しく思えてくる。

「お前は本当に桜が好きなんだな」

「自分の名前が付いた木だもん。嫌いな訳ないよ」

「そっか」

「咲良くんは嫌い?」

「好きか嫌いかで言えば、まぁ嫌いかな」

 どちらかを選ぶか迷っただけでも進歩だ。以前の俺なら見たくもないと切り捨てた事だろう。進歩している。しかし、それでも櫻は少し寂しそうな顔をしていた。

「そっか、やっぱり嫌いなんだ」

「まぁ、前ほどではなくなったけどな」

 今はからかわれる事も少なくなった。それは、俺ではなく櫻のおかげだ。こいつの存在感と明るさが回りの印象を変えたのだ。

 だから、感謝している。しかし、それは名前にではなく櫻自身にだ。だから、今の環境が変わっても、きっと俺は自分の名前を愛することは出来ないだろう。この名前さえなければ、俺はきっともっと充実した学生生活を遅れたはずなのだから。

 それにしても、だ。

 俺にはもちろん理由がある。自分の名前が嫌いな理由。

 それじゃ、彼女は?

 櫻にも、もちろん同じく理由があるはずだ。なぜ、櫻は自分の名前をここまで好きでいられるのか。櫻って名前だから? いや、それにしたって好き過ぎる気がする。自分が名前を嫌いだから変に感じてしまう事を差し引いてもだ。

 はっきり言って、異常だと感じた。

「なぁ、櫻」

「んー?」

 櫻は花を眺めながら、返事をした。

「どうして、そんなに自分の名前が好きなんだ?」

「どうして、か……」

 一瞬、悲しい顔をしたのを俺は見逃さなかった。

「何か、あったのか?」

「あったといえば、あったかな。でも、それは私にとって嬉しい出来事だったんだよ。私がこの名前をこんなに好きで居られたのは、その人のおかげなんだから」

「良い出来事だったのか?」

「うん、とってもね」

 それじゃ、何故あんな表情をするんだ?

 嬉しい時にする顔なんかじゃないだろ。それなのに、櫻はそれを嬉しかった出来事だと語る。

 何かを隠している?

 櫻が自分の名前を好きな理由の裏側に、何かがあるのか?

「気になるって顔してるね?」

「そりゃな」

「ね、今度の休みさ。一緒に花見に行こうよ。お弁当作ったげるからさ」

「花見?」

「うん。もう、そろそろ行かないと散っちゃうだろうし、ね?」

「まぁ、別にいいけど」

 自分の家に桜があるから、わざわざ外で見る必要もない。俺の親父はそう言って、一度も花見に連れて行ってくれたことはなかった。

 第一、その頃にはもう俺は桜の事を嫌いになっていたし。

「それじゃ、決まりね?」

「ああ。てか、さっきの話は?」

「その時にでも、話してあげるよ」

 そう言って櫻は静かに笑った。本当に静かに。それは、まるで桜が最後に見せる散り際のようにも見えて。

 もう、会えなくなるのではないのか。

 そんな風に、思ってしまった。



「お、やっほー」

 それから、さらに週が回って休日。

 約束通り、花見をすることになった俺達は二人で決めた待ち合わせ場所にいるはずだった。

 そう、はずだった。

 しかし、何故だろうか。櫻はニコニコと笑顔を浮かべていた。

 我が家の玄関の前で。

「お前、なんでここにいんの?」

「来ちゃった!」

「来ちゃったじゃねえよ!」

 てか、どうして俺の家がここってわかったんだ? 櫻に自分の家の住所とか教えてなかったはずなんだが……。

「今、どうして私がこの家を知ってるのかって思ったでしょ?」

 頷くと、櫻はにやりと笑った。

「実は、いつもこっそり君の後をつけて――」

「じゃ、ちょっと準備してくるから待っててくれ」

「無視! 私のボケを無視!」

 朝から元気なやつだな……。

「で、なんで知ってんだよ」

「うぅ……。うん、実はね、私この辺に住んでるんだよね。でさ、前に咲良くんの家に大きな桜の木があるって言ってたから、もしかしてって思って」

「家、近くだったのか」

 だったら、納得だ。

 ここら周辺で桜の木がある家はここしかない。

 きっと、その桜を頼りにしながらここまで辿り着いたのだろう。

「いや、でも、わざわざ家まで来なくてもよかっただろ」

 待ち合わせ場所も時間も決めていたってのに、これじゃ意味が無い。

「一度だけ、桜が見たくってさ」

「俺の家の?」

「うん」

「じゃ、見てくか?」

「いいの?」

 いいのも何もここまで来て見せないとは言えない。いや、別に嫌々見せようとしている訳でもないが……。とにかく、今、両親が出掛けてて良かった。

「いらぬ誤解は避けたいもんな」

「……?」

「いいから、早く上がってこいよ」

「あ、はい。お邪魔します」

 櫻が靴を脱いだのを確認してから来た道に戻る。その後ろを彼女が静かについて来る。なんとなく、会話が無かった。こちらから振ることもなかったし、さっきまで元気だった彼女も今はやけに静かだった。

 気になって、ちらと後ろを見る。

 櫻は俺を見ていた。

 じっと、真剣な眼差しで。

「どした?」

「へっ? な、なにが?」

 俺が声を掛けると、櫻は驚いた様子でもう一度、こっちを見る。

「いや、俺に何か言いたい事でもあるんじゃないかなと……。こっち見てたし」

「え? 私、咲良くんの顔見てた?」

「気付いてなかったのか?」

「う、うん……。あ、あの、ごめん」

「いや、別に謝られる事じゃ……」

「そ、そうだね…」

「あ、あぁ」

 気まずいっ!

 なんだこれ、なんだこれっ!

 内心バクバクだった。

 目の前の櫻はなんか妙にモジモジしてるし、どことなく頬が赤い気がするし、いや、それを言ったら俺だって間違いなく、赤くなってる。

 気まずい空気が流れる。

 しかし、居心地が悪いわけじゃない。どこか暖かい、そんな気まずさ。悪いことじゃない。ただ、何を言っていいかわからないだけ。

「え、えと……」

 それでも、櫻は何か言おうと口を開く。しかし、その後が出て来ない。俺も同じだった。

 この場に適した言葉はいくつもある。しかし、それを今言ってしまうと俺達の関係がおかしくなる。壊れる。変化する。

 ……いや、待て。俺は今、こいつに何を言おうとしている? 俺は、櫻に対してどんな言葉を投げかけようとしているんだ?

 関係の変わる言葉?

 いやいや、だからどうして俺の思考はいつもそっちの方にばかり転がるんだ。違うだろ。まだ出会って一ヶ月も経ってないんだぞ? さすがにそれは早すぎ――じゃなくて!

 いい加減認めちゃえよ。

 うるせぇ、黙ってろ。

 ずっと、その想いを隠してたんだろ? 心の奥底に。

 奥底? 何言ってんだ。

 ずっと好きだったんだろ?

 ずっとって……それっていつからだよ

 そんなの、出会ってからずっとに決まってんだろ。

「咲良くん?」

「あ、悪い」

ハッと我に返ると櫻が少し心配した様子で顔を覗きこんでいた。それを見てまたドキっとするものの、その煩悩を首を振って頭から吹き飛ばす。

「とりあえず、行くか」

「うん」

 なんとか落ち着きを取り戻し、俺達は今度こそ桜の木の下へと向かう。

「やっぱ、広いんだね」

 櫻の方も大分落ち着いたのか、いつもの様子で声を掛けてくれた。

「まぁ、ここらではな」

 ハッキリ言って俺の住んでいるこの家は屋敷に近い。家の構造だって一般的な洋風ではなく、昔ながらの和風。玄関の外なんか門がそびえ立っているし、庭には普通の一軒家ではまずないであろう池まである。

 あんまり言いたくはないが、まちがいなくお金持ちの方に傾く人間だった。

「ほら、こっちだ」

「うわぁ」

 廊下の突き当たりを右に曲がる。そこから左側は全部中庭に続いている。奥まで行くと和室に出るが、そっちは両親の部屋だ。

 それよりも中庭だ。

 静かに波打つ池の隣にそびえ立つ巨木。その上方から、まるで景色を塗り潰すように桜の花が舞い散る。風が吹く。すると、それはまるで吹雪のように視界の先を桜色に染め上げた。

「…………」

 隣にいる櫻は言葉を失っていた。

 俺には見慣れた景色でも彼女にとっては初めての景色だ。それに、ずっと桜が好きだと言っていた。きっと今、見ている景色は同じでもその中身は別物だろう。俺の中では色あせた景色がきっと彼女の中では輝いて映っているはずだ。

 今なら、聞けるかもしれない。

「なぁ、櫻。どうして、そんなにまで自分の名前が好きでいられるんだ?」

「……私自身だから」

 少しの間を置いて櫻は答えた。

「どういうこと?」

「私の名前は私自身ってことだよ。ここにある名前が私の証明。だから、名前を嫌いになったりなんかしない。だって、それじゃ自分で自分の存在を否定しているみたいだから」

 静かに、しかし真剣に、彼女はそう言った。しかし、すぐに顔を綻ばす。

「って、昔ある人に言われたんだけどね。受け売りだよ。受け売り」

「ある人? 親とか?」

「ううん、違うよ。まぁ、それくらい大事な人って意味ではそうかもしれないけど」

 ちくり。

 その台詞に少しだけ心が痛んだ。

 彼女が、とても嬉しそうな顔をしたから。それだけで、彼女の言う『ある人』がどれだけ大事なのかがわかる。

 正直、ちょっとだけ嫉妬してしまった。

 それに気付かない櫻は話を続ける。

「その人と出会う前の私ってさ、実は自分の名前、好きじゃなかったんだ。今の咲良くん程じゃないけど、それでも好きだなんて思えなかった」

「どうして?」

 男ならともかく、櫻は女の子だ。嫌がる理由なんてどこにもないはずなのに。

「小学生の頃の話なんだけどね。その頃、本を読むのが大好きで、よく図書室に入り浸ってたんだ。暇さえあれば図書室行って本ばっか読んでたの。その時に読んだ本がたまたま桜の話でさ。私、夢中になって読んだんだよね。でも、その話の最後にさ、その桜が綺麗なのはその下にたくさんの死体が埋まっていて、血を吸って生きているからなんだよって。そんな風に書いてあったの。もう、ショックだったよね。私の名前ってこんなに酷かったんだーって。あ、実際は漢字違うからあれだけどさ。あの頃の私って自分の名前漢字で書けなくて、しかも、それも子供向けの本で平仮名だったんだよね。だから、本当にショックでさー」

 そう言って櫻は笑った。

「でもね、そんな時にあの人に出会ったんだ。今でも覚えてるよ。今日みたいに桜がすっごく綺麗に咲いてた日。そんな日に、私はその人に会って言われたの。自分の名前は大事にしないと駄目だよって。そんなに綺麗な名前なんだから、自身持っていいって。そう言って笑ってた。すっごい幸せそうに。その時にね、きっと、その人も自分の名前が好きなんだなって、思ったんだ。だからあんな幸せそうにって。だから、私も好きになってみようかなって、そしたら、幸せになれるのかなって思ったの」

 そして、それは現実となったのだろう。

 明るくて皆からの注目も浴びて、そして、自分に素直で言いたい事をハッキリ言う。

 彼女が見せる動作の全てが彼女の自信に繋がっていた。それはきっと、名前を好きになったからだ。名前を好きになって、そして自分自身を好きになったからこそ。

 羨ましい。本当に……。

「だから、私は自分の名前が好き。大事にしてる。それに、私にはもう――」

「……?」

 何かを言おうとしたが、彼女はそこで言葉を止めた。その事に首を傾げると彼女は笑いながら、

「ううん、なんでもない。それよりもさ、今日のお花見、ここでもいいかな? 下見に行ったんだけど、ここより綺麗な桜の木なんてどこにもなくてさ」

 そう言った。

「え、マジで?」

「あれ、駄目だった?」

「いや、櫻がここでいいならいいんだけど……」

 どうせ、長くはいないはずだし今日は両親も帰って来るのは遅かったはずだ。でも、一応言い訳だけは考えておこう、うん。

 万が一の事があるかもしれないしな。

「それじゃ、ちょっと早いけどお昼にしよっか」

「お昼?」

「もう! 忘れたの? 私が作ってくるって約束したじゃない」

「そういや、そうだっけか」

 確かにそんな約束をしたようなしてなかったような? そこら辺の記憶が少し曖昧だ。でも、確かにそんな話はした気がする。

 まぁ、よく思い出せないが櫻が言うならそうなんだろう。

「じゃ、ほら」

 横に置いていた鞄から少し大きめの風呂敷が出て来る。その結び目をほどいて中から出て来たのは立派な重箱だった。というか、これまちがいなく二人分の大きさじゃない。四人……いや、五人分はゆうにある大きさだ。

「多すぎやしないか?」

「へへー。ちょっとはりきちゃった」

「ちょっとじゃないだろ、これ」

 櫻の料理の腕は以前、お弁当のおかずを貰った時に把握している。だから、味には何も心配していない。というか、櫻レベルの料理を作れる女の子が果たして同じ学校にいるのか。それくらいに、彼女の料理は美味かった。

 だから、嬉しい。嬉しいのだが……。

「うわ……」

 蓋を開けるとそこに見事なまでに料理が敷き詰められていた。一段目、二段目には卵焼きやから揚げなどのおかず、三段目、四段目にはお握りがぎっしりと詰め込まれていた。しかも、ただ詰め込んだのではなく、ちゃんと色彩にまでのこだわりよう。自分ではなく食べてくれる人の為に作ったのだと、そんな愛情さえ感じてしまうくらいだ。

「美味しそうでしょ?」

「いや、美味しそうだとは思うが……」

 思うじゃない。これは美味い。絶対に。ただ、これを二人で食べきるのはやはり無理がある。一人当たりの許容量を確実に超えている。

「昨日の夜から仕込みとかしてたんだよー。久しぶりだよ、こんなに頑張って作ったの」

「うっ……」

 よく見ると、彼女の目の下に少しくまが出来ていた。きっと、遅くまで起きて準備をして、朝早く起きてお弁当を完成させたのだろう。

 それでも健気に微笑んで、まるで何事も無かったかのようにお弁当を取り分けて差し出す。そんな努力の結晶を残すことなんて出来るのか? 

 否! 出来る訳が無い!

「いただきます」

「はい、めしあがれ」

 櫻から小皿を受け取って、早速、から揚げを口の中に入れる。

「……どう?」

 緊張した面持ちで俺を見つめる。そんなの、答えは決まってる。よく咀嚼して飲み込んでから返事する。

「美味しいよ」

 そう、笑顔で答えてやった。

「……むぅ」

 あれ?

 てっきり笑顔で微笑むのだろうと思っていた。しかし、目の前の櫻はその言葉に喜ぶどころか眉間にしわを寄せて不満げな眼差しを向けてきた。

 いや、どうして?

「あ、あの? 櫻さん?」

 何故、そんなに不機嫌でいらっしゃるんでしょうか? 俺、何か悪い事でも言いましたか? 

「別に、なんでもないもん」

 そう言ってそっぽを向く。

 いやいや……。

「絶対になんかあるような態度だろうに」

「むぅ、だっていつもと全く同じ態度なんだもん。こないだお弁当のおかずをあげた時もそんな台詞だった気がするし。せっかくいつもより頑張って作ったんだから少しくらい別の台詞でもいいんじゃないかなぁって思ったり思わなかったり」

「そんなこと言われてもなぁ……」

 美味いもんは美味いんだから、それ以外の褒め言葉と言うものはなかなか思いつかない。本当に美味いとそれ以外の言葉は出ないものだ。しかし、それでは櫻は納得してくれないらしい。俺の方ではなく、桜の方に顔を向け、しかし、目線だけはこちらに向けて不満を訴える。

「どうしろってんだ……」

「グルメリポーターっぽく言ってくれたら許してあげるのになぁ」

「無茶言うな!」

「ふふ、冗談だよ」

 櫻はそう言って笑いながらこちらに向き直る。どうやら、最初から怒ってなんかいなかったらしい。

「美味しいかどうかくらい、顔見てればわかるしねー」

 満足そうに自分の分を皿に取り分け口に運ぶ。

「わかるもんなのか」

「まぁねー。長い事こうやって料理してるとね」

「毎日、作ってんのか?」

「うん、そうしないと生きていけないし」

 また寂しそうな顔。桜を見上げながら、彼女は何かを思い懐かしむように目を細める。

「櫻?」

「あ、ごめんね。ちょっと昔を思い出しちゃって」

「そっか……」

 昔、か……。

 それは、さっき櫻が言った大切な人の事なのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。だって、彼女は桜を見ているのだから。

 こんなにまで想わせるその人は一体どんな人なのだろうか。名前が嫌いだった櫻を変え、今を作ったきっかけとなった人物。俺も、その人に会えば変わる事が出来たのだろうか。櫻のように、俺も自分を好きになることが出来るのだろうか。

 羨ましい。

 そう思う。

 それは一体どっちの意味での羨ましいなのだろう。

 自分を好きになれた櫻に対してなのか、それとも彼女を変えたその人に対してなのか。

 わからない。

 このざわざわとした気持ちは一体どこから、何に対して感じているのだろう。

 俺は、どうしたいのだろう……。



「マジでしんどい……」

「本当によく食べたね……。別に残してくれてよかったのに」

「それを先に言ってくれ…」

「いつギブするのかなーって楽しみにしてたから」

「…………」

「あはは、ごめんごめん」

 笑いながら、空になった重箱をしまう。そう、空。

 あの量、全部食い切りました!

 ちなみに、櫻は早々で脱落。だが、笑う余裕があるところを見ると多分、最初からほとんど食わす気だったのだろう。

「いや、でも美味かったわ」

「そう、それは良かったよ。作ったかいがあった」

 おかげで今日の夕飯はいらなそうだけど。

「これは、忘れられない思い出になりそうだね!」

「こんな死ぬほど食う機会なんか二度とないだろうしな」

 多分、忘れる事は絶対にない。量もそうだし、作ってくれた奴が、櫻だから。

 だから、これはずっと忘れないだろう。

「もう、夕やけだね」

 見ると、いつの間にか外はオレンジ色に染まりかけていた。楽しい時間というのは本当に早く過ぎるもんだ。

「きっと、夜桜はもっと綺麗なんだろうね」

「どうだろうな」

 綺麗かどうか、俺にはわからない。生まれてからずっと見ていた光景だ。目に焼き付いてしまったソレにもう思い出も感動もない。ここにあって当然だからだ。

 例え、一年の内の数週間しか咲かなくても、もうなんとも思わない。また咲いたなっていう認識だけ。

 でも、櫻はきっと綺麗だと思うかもしれない。なんとなく、それを想像出来た。夜の庭で大はしゃぎする櫻の姿。それは、まるで子供のようにはしゃいで――

「咲良くん? 私の顔になんか付いてた?」

「あ、いや……なんでもないよ」

「そう?」

 首を傾げる彼女を横目に俺は小さくため息をついた。

 ここ最近、櫻の顔を見ている時間が増えて来た気がする。しかも、無意識に。そこにはちゃんとした理由がある。

 恋愛感情?

 いや、そんなんじゃない。もっと深い、なにか。その気持ち以上に大事な……。

 恋愛感情以上に大事なものなんてあるのか?

 あるさ。たくさんある。そして、俺はそれを思い出さなくちゃいけない。

 そんな気が、するんだ。

「咲良くんってさ」

「ん?」

 突然、横から話しかけられて少し驚いたが、それを顔に出さず、返事をする。声のした方に振り向くと、その当人はこちらを見ておらず、桜の木を眺めていた。

「なんか、いっつも考え事してるよね」

「そうか?」

 自覚はない。そんなことを言われたのも初めてだ。そもそも、考える事なんかほとんどなかった。まず、この名前以外の悩みが俺にはなかったから。この名前が俺の悩みの全てで、それ故に他の事なんかどうでもよくなっていたからだ。

 だから、もし、櫻の言う通りなのだとするなら、それはきっとその疑問を述べた人間との出会いのせいなのだろう。

「うん、してるよ。それも必死な様子で」

「本当に、人間観察が好きな奴だな」

「はは、もしかしたらそうなのかもね。でも、それは君だって同じことだと思うよ? いっつも、人の顔見てるんだから」

「そうかもな」

 二人して笑う。

 ひとしきり笑ったあと、櫻は大きく息を吐いてこちらに向き直った。

「ねぇ、咲良くん」

「ん?」

「一つだけお願い、聞いてくれないかな」

「お願い?」

 こくり、と頷くと彼女は宙に手で受け皿を作った。そこに吸い込まれるように一枚の桜の花弁が入り込む。

 それを大事そうに掴みながら、もう片方の手でポケットから小さなペンダントを取り出した。

「それは?」

「私のロケットペンダントだよ」

 てっぺんに付いているボタンを押すとペンダントは小さな音を立てて開いた。本来なら、そこには何かしらの写真が入っているものだが、中にはまだ何も入ってはいない。その空間に彼女は桜の花をしまい込んだ。

「どうするんだ? それ」

「うん、これね」

 パチリ、とペンダントを閉じると、そのまま俺の方に差し出す。

「持っていて欲しいんだ、君に」

「俺に?」

 頷く。そのまま俺の腕を掴んで、その手のひらにペンダントを落とした。

「どうして、俺に?」

 銀色光るそれに目をやりながら、当然の疑問を口にする。それに対して櫻は微笑みを浮かべながら答える。

「最後の賭けってやつかな」

「賭け?」

「うん、私の人生最後の賭け。これが駄目だったら私は諦めるよ」

 諦める。それは一体何に対してなのだろう。

 その事を、俺は結局最後まで聞けなかった。その時の顔はもう俺を見てはいなかったから。遠く、空よりも遠い何かをじっと見ていた彼女に、そんな事を聞くのは失礼だと思ったから。

 それに、それだけ大切な物を預けてくれたのだ。きっと近い内に教えてくれるだろうと、そう思っていた。

 しかし、それは違った。知らなかっただけなのだ。彼女の問題はもっと奥。それこそ、誰の手にも届かない場所にあったということを。

 その時になるまで、俺は知る事すら出来なかった。

 何故なら、俺はずっとその事を、大事な思い出を――忘れていたのだから。 



 入学式からもう一ヶ月が過ぎようとしていた。

 桜は散り、桃色に染まっていたあの枝も今では一面が翠色に色づいていた。

 お互いに緊張していたクラスの皆も徐々に打ち解け始め、最初の頃のような物静かさも今は感じられないくらいに賑やかな物になった。

 俺も数人のクラスの人間と仲良くなり、昨日あったテレビの話とか授業の愚痴。そんなどこにでもあるような普通の会話を楽しんでいた。

 中学にいた頃には感じられなかった学園生活。それを、俺は今体験しているのだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。ここには自分の名前を変にいじる奴はいない。普通に、当たり前のように接してくれる。それが嬉しかった。

 きっと、そんなことを口にすれば笑われるだけだろうから、絶対に言葉にはしないが、とても感謝していた。

 今、目の前で笑っている、友人に。そして、大事なことを教えてくれた。普通に接する機会を作ってくれた彼女に――

 彼女?

「どうした?」

 俺の机を囲むようにして話していた男子生徒の一人が不思議そうに声を掛ける。

「いや、なんでもない」

 それに俺は笑顔で返すものの、心の中では何かが引っ掛かっていた。

 確かに、俺は仲の良い友達がいる。それは確かだ。だが、その中に――



 その中に女子なんかいただろうか?



 いや、いなかったはずだ。

 いくら想起しようが、入学式からこれまでの間、そんな体験はただの一度としてなかった。なら、これはなんだ? なぜ、こんなにまで冷たい孤独を感じている?

 俺は孤独じゃない。今、目の前にはこうして友人が笑っているというのに。

 しかし、いつまで経ってもこの想いは消えない。その誰かと楽しく過ごした記憶のようなもの。まるで、かすれたフィルムで映像を見せられてる気分。何かを見ているのに、その肝心の何かがわからない。

「……?」

 ふと、背中に寒さを感じて振り返る。そこには、何もない。このクラスは名前順で席が決まっている。だから、俺の後ろに誰かがいることは絶対にないのだ。

 なら、どうして、そこに寂しさを感じているだろう。何もないはずのその空間に、ぽっかりと穴が空いている等と思うのだろう。

 そこに誰かいたからなのではないのか? だが、それを思い出す事が出来ない。

 本当にそんなことがあったのか? 夢と現実がごっちゃになっただけなんじゃないのか? そう思ってしまう程にその存在は薄く、影のようだった。

「それでさ……? おい、渡井聞いてるか?」

「お、おう。大丈夫、聞いてるぜ」

 こいつらは、俺の事を名前じゃなく苗字で呼ぶ。それは、俺が自分の名前にコンプレックスを感じているのを知っているからだ。そういうところに気を遣ってくれているのは素直に感謝している。

 ……あれ?

 そういえば、一人いなかったか?

 俺のことを名前で呼んでくれる奴が。この学校に入ってからの友人に。

 名前でも不快に思わないくらいの笑顔で当たり前のように呼んでくれる大事な奴が。そこには、からかいの気持ちも何もない。純粋に俺の名前を好いてくれてた誰かが。

 確かにそこにいたのだ。

「……なんなんだよ」

 友人に聞こえない小さな声で苛立ちを吐く。

 大事な物であったはずなのに、その記憶は遠いどこかへと飛んで行ってしまった。それを掴む程、俺の腕は長くない。

 何も掴めないのだ。俺には、何も。

 誰かの、手でさえも……。



「はぁ」

 帰りのHRの終了と共に、俺は背もたれに全力で身体を預けた。あの後、何度も思い出そうと試みたが結局、何一つとして思い出す事は出来なかった。

 ぼやけて見える映像だけ。しかも、それも少し気を抜くと忘れかけてしまう。それは、本当に木の葉のように、一度風が吹けば俺の手から離れて行ってしまう。

「……」

 開いた手のひら。そこに、俺は大切なものを持っていた。持っていたはずなんだ。それなのに、それをどこかに落としてしまった。大切なものだとわかっているにも関わらず。もしかしたら、それは隣にいて当たり前のものだったのかもしれない。だから、気付かなかった。それが、どれだけ大切なものなのかも。

「失くしてから気付く大切さ、ね」

 誰もいなくなった教室で独り言を漏らす。

 全く、その通りだと思った。

 そして、失くしたものは大抵、自分の手には戻らない。もう、遅いのだ。それに気付いた時には、もう分岐点の先を行っている。大切なものはその逆へ。それは次第に平行線となり、交わることは二度とない。それが、この世界のルール。もちろん例外はある。しかし、そんなのは奇跡に近い確率だ。

 だから、今回の俺も少し諦めかけていた。自分はもうレールの上で、ブレーキのないトロッコに乗ってしまい、そして選択した結果なのだと。

 戻って来ないものにいくら手を伸ばしても仕方ないのだと。

「……いや」

 頭を振って、その考えを取り消す。

 違う。諦めてはいけない。そしたら、何もかも終わりな気がした。本当に全てが風となって消えてしまう。空気に解けて全てが消えてしまうと、本気でそう思った。

「絶対に思い出すんだ」

 どうして、こんな曖昧なものに本気になれるのか。自分でも不思議だった。もしかしたら、全て俺の妄想かもしれない。幻なのかもしれない。なのに、どうしてここまで真剣に悩むことが出来るのか。

 それは、多分、真実だから。

 この想いが、映像が、夢でもなんでもなく、本物だから、本気になれる。

 そうだ。この想いこそが夢じゃないと言える証明なのだ。

 だから、思い出す。記憶から消え去りつつある、誰かの存在を。

 もう一度、この手で掴むために。



 家には誰もいなかった。多分、今日も仕事だろう。ここ最近忙しそうにしていたし、きっと遅くなるだろうとは思う。まぁ、いつもこんな感じだったし今さらなことだ。子供の頃はそりゃ少しは寂しい思いもしたが、もう高校生だ。まだ、子供と言えば子供なのだが、それと同時に大人でもある。そんな中途半端なところに立っていたりする訳だが、それでもさすがに親がいないくらいで寂しい思いをしたりはしない。

 玄関を上がり、廊下を歩く。俺の部屋は二階にある為、廊下から中庭に出る突き当りにある階段を上るだけで済む。しかし、なんとなく俺はそこをスルーしてさらに奥、突き当りの中庭へと続く道へと歩き出していた。そこに、大事なものがありそうな気がして。

 桜はもう散っていた。毎日毎日、掃除をするのが大変な程の花びらを舞わせていたあの頃の面影はもうない。

「また来年か」

 葉を付けた桜に軽い独り言を漏らす。もう、誰からも見られる事はない。こいつが目立つのは、また来春だ。それまで、彼は言わなければ気付かれないような、そんな一年を過ごす事になる。

「…………」

 そういえば、俺はなんでここで桜を眺めているのだろうか。これほどに桜を嫌いと言っていた人間のする行動ではない。現に俺は家でもなるべくこちら側には近づかないようにしていた。それほどまでに、俺は桜が嫌いだった。

 なのに、どうして?

 どうして、ここに大切な物があると思ったのか。

 ――その時だった。

 俺の目の前に一枚の小さな何かがひらりと宙を舞った。

「これは……」

 手をお椀の形にすると、そこに吸い込まれるようにして一枚の桜の花びらが入り込んで来た。

「まだ、あったのか」

 素直に驚いた。

 今、俺の目の前にそびえ立つ巨木はもう桃色の花など一枚も見えてはいなかったからだ。だから、もしかしたらこれが最後の一枚だったのかもしれない。

「……っ!?」

 そんな、不思議な寂しさを感じたその瞬間だった。

 突如、脳裏に稲妻が走るかのように、頭の奥底に封じられていたモノが流れ込んできた。それは、忘れていたはずの記憶。今までどれだけやっても思い出せなかった、今日までの記憶がまるでダムの決壊のように流れ込んでくる。いきなりの事で驚いた俺は自然と頭に手をやっていた。その記憶を一つ一つ確認するように、ヘッドホンから流れる声を一つも逃さぬように、俺はしばらくの間、そうやって立っていた。

「……そうだ、思い出した」

 両手を離した俺はぽつりとそう呟く。

 櫻。

 それが、俺の探してた、忘れていた名前だ。

 今なら全部思い出せる。彼女の名前も容姿も彼女の作った料理の味も。話した内容から表情まで全部を明確に思い出せる。

 なんで、なんで忘れていた? こんな大事なことを、どうして今まで――

「いや、そうじゃない」

そんなことはとりあえずどうでもいい。そんな些細な問題、あとでいくらだって考える時間がある。今するべきことはそんなことじゃない。今は――

「櫻に会わないといけない」

 いつから櫻の事を覚えていなかったのか。それがわからないが、少なくとも何日かは確実に経過しているはずだ。その間、櫻は何をやっていたのか。今、櫻はどこにいるのか。それを確かめなければならない。

「問題はあいつがどこにいるのかだが」

 そう口にはしてみたが、俺にはある程度の予想は出来ていた。なんとなく、待っている気がする。

「行ってみるか」

 もしかしたら、もういないのかもしれない。しかし、ずっと待っているとしたら、俺は会いに行かなくてはならない。



 予想は当たっていた。

 校舎を囲む桜並木。その一番大きな桜の木の下に、彼女はいた。桜の幹に手を置き、じっと空を、いや桜の葉を見ていた。何を探しているのか、すぐにわかった。

「桜の花は見つかったか?」

 俺が声を掛けると彼女は少し驚いた表情を作った後に小さく微笑みながら首を左右に振った。

「ううん、見つからない。もう桜の花は散っちゃったよ」

 そう言ってもう一度上を向く。そこには緑に茂る葉があるばかり。櫻の言う通り、そこにはもう花びらなんかありはしないのだろう。

「なぁ、櫻」

「わかってるよ。君の言いたい事。全部、説明してあげる」

 少し間を置いてから、彼女はもう一度口を開いた。

「咲良くんは私の異変にはもう気付いているよね?」

「ああ」

 一時的な記憶の喪失。しかも、櫻の事だけが虫食いのように思い出せなかった。

「あれはね、呪いなんだ」

「呪い?」

「そう。私は今、桜の木と同じ存在なの。ううん、ちょっと違うかな? 私は桜の木に存在を吸い取られたの。だから君には――ううん、他の人にも私を視認することが出来なかった……ふふ、今、何言ってるんだって思ってるでしょ?」

 図星だった。正直、訳が分からない。いきなり、そんなことを言われても納得出来なかった。しかし、さっきまでの異変を考えれば……。

「信じられないのも無理ないよ。私だって最初は信じられなかったんだもん。でも、真実なんだよ。その証拠に私は君の過去を知ってる。なんでかわかる? 私と君、幼馴染なんだよ」

「は?」

「ふふ、やっぱり覚えてないんだね。まぁ、当たり前か」

 苦笑しながら櫻はこちらに歩み寄る。そのまま、横にぴったりとくっついて手を握ってきた。その手は少し冷たい。しかし、彼女はここにいる。その事実だけは暖かく感じられた。

「私達、いっつも一緒に遊んでたんだよ。君の家で」

「俺の?」

「うん。ほら、咲良くんの家って広いじゃない? だから、そこで追いかけっこしてたんだ。あの日も。君も、多分思い出せるはずだよ。今なら」

 そう微笑みかけながら、俺の手を強く握る。その感触のおかげなのか、どうかは知らない。だが、その瞬間、俺の脳裏にある映像が流れ始めた。それは、俺がまだ桜の事を嫌いではなかった時の記憶。

――そして、俺が桜を嫌いになった原因にもなったあの日の事だ。



 俺と櫻はご近所同士で、よく一緒に遊んでいた。いつから遊んでいたとか、そういうのは覚えていない。気が付けば、櫻は隣にいて、それが当たり前になっていた。そんな関係が数年続いた、ある日のこと。いつものように、俺と櫻は家で遊んでいた。今でさえ広いと感じている家だ。あの頃はそれこそ本当に屋敷のように感じていた。それだけ広いから家の中でかくれんぼなんかもやったもんだ。もちろん、親には怒られたが、それでも俺達は大人の目を盗んではこっそりと遊んでいた。

 その日も、かくれんぼをやるつもりだった。しかし、ほとんど毎日そんなことをしていたからか、俺の隣で座っていた櫻は文句を垂れた。

「えー、たまには他の遊びもしようよー」

 その頃、俺は櫻の隠れる場所をほとんど手に取るようにわかっていた。ここが自分の家だからというのもあるのだろう、ここのところ、彼女が負け越していた。だから、新しい遊びにしようと思ったのかもしれない。正直なところ、俺もいい加減かくれんぼに飽きていたところだし、櫻の意見には賛成だった。

「んじゃ、なにするんだ?」

「んーとね」

 顎に指を乗せて少しの間、目を閉じる。それは子供の頃からの彼女の癖のようなものだった。そうやっていると良いアイディアが浮かぶのだそうだ。その言葉通り、その時も名案を思いついたとでも言わんばかりの表情でこちらを振り向いた。

「鬼ごっこしようよ!」

「えー……」

 昔から櫻は運動が得意だった。その中でも特にかけっこが一番で、その足の速さはクラスで一番足の速い男の子にも引けを取らない。だから、この勝負はどうあっても俺に分が悪いのだ。

「えー、いいじゃん」

 しかし、櫻は口を尖らせて文句を言う。何年もの付き合いで、この状態になると一歩も引かない事は俺も理解していた。

「……わかったよ」

 ため息を吐きながら渋々了承すると彼女は小さくガッツポーズをして喜んだ。

 今にして思えば、これこそが間違いだったのだ。

 いや、最初から親の言いつけを守って遊んでいればこんなことにはならなかった。

「じゃ、そっちが鬼ね!」

 じゃんけんの結果、俺が鬼となった。

 目を瞑って十秒を数える。その間に櫻は足音を立てずに部屋から抜け出した。目を開けると俺も早速櫻を探しに部屋を出た。ここまでは、かくれんぼと変わらない。違うのは、今回は彼女を見つけてもタッチするまで終わらないということだ。

 時間は無制限。どちらかが飽きるか負けを認めるまで。

 部屋を出て、真っ先に向かったのは俺の部屋だった。最初に櫻がいる場所は大体そこだ。どうして、俺の部屋なのかは知らないが、いつもそこに来てはどこかに隠れていた。

 そして、その勘は今回も当たった。

 忍び足で階段を上がり、俺の部屋まで来る。一応、ドアに耳を立てて中を確認してみたが、何も聞こえない。だが、人の気配がする。両親がいるということはあり得ない。今頃、両親は近くのスーパーで買い物をしているはずだからだ。でないと、いくら広いとは言え、こんな堂々と鬼ごっこなんか出来やしない。

 ダンッ!

 心の中で三秒数えてから思い切りドアを開け放った。中にはやはり櫻がいて、急な音に驚いた様子でこちらを凝視していた。

「見つけたぞ!」

 勝ったと思った。部屋の中では彼女の足を存分には使えない。いくら掛けっこが早くとも入り口を陣取っていれば簡単には出られない。俺は、後ろ手に鍵を閉めて櫻へと近づいていく。

「……」

 じりじりと詰め寄る俺に対し、ゆっくりと後退する櫻。決着は思っていた以上に早くつく。しかし、次の瞬間彼女は思いがけない行動に出た。

「……おい!」

 櫻は後ろにあった窓を開け、そこに足を掛け始めたのだ。

 確かに逃げるにはそこしか道がない。だが、そこまでやる必要があるのか? そんなんでもし怪我なんかされたら俺が怒られてしまう。こんな、ただの遊びで。

「櫻! 危ないって!」

 必死で呼び掛けるも、彼女はただ勝ち誇ったように笑うだけだった。そのまま、下へと足を掛ける。そこに屋根があることは知っていた。しかし、それでも危険な事に変わりはない。我慢の限界に来た俺は引っ張り上げようと櫻の元へと走った。

 それがいけなかった。

 俺が来る事に慌てた櫻は下も見ずにそのまま窓の縁から足を下ろした。だが、その足場は彼女が思っていた以上に急になっていた。上手く足を乗せられなかった櫻はそのまま――

「あ……っ」

 驚愕の表情のまま、彼女は宙に身体を投げ出した。その下は中庭。そこに向かって真っ逆さまに落ちていく。

 手を伸ばす。

 櫻も手を伸ばす。

 しかし、俺が握ったものは空気。本当に掴みたかった彼女の手はそのまま下へ下へと落下して、そして――



「思い出したかな?」

「ああ」

 ふと、我に返るとさっきと同じ体勢のまま櫻はいた。そうだ、櫻は死んでいない。こうやって、俺の隣にいてくれている。あの後、櫻が中庭に落ちたと同時に帰って来た両親のおかげで治療が間に合ったのだ。どくどく、と流れる血を見た時は死んでしまったのかと号泣したが、櫻はなんとか一命を取り留めた。だからこそ、櫻は今、ここにいる。

 しかし……。

「それじゃ、どうして」

 どうして、こんなことになってしまったのか。過去を思い出してもその秘密には辿り着かない。しかし、これが何かの意味を持っているのは確かだ。

 あとは、彼女の口から真実が発せられるのを待つのみだった。

 桜の花を仰ぎ見た後、彼女はそのまま口を開いた。

「こないだの話、覚えてるかな? 私が桜の木が嫌いだった頃の話」

「ああ」

 本が好きだった事が災いして、自分の名前を嫌いになってしまった話。確か、そういう内容だったはずだ。

「そこに書いてあった本の通りだったんだよ」

「え?」

「桜は人の血を吸う。その血で花びらを綺麗に染めてるって話。実際に、その通りだった。私はあそこで血を流し、それを桜が吸ってあそこまで綺麗な花が咲いたの。その時に私は存在ごと持ってかれちゃったけど」

 にわかには信じられない話だった。しかし、彼女は騙る風でもなく、自然とした様子で話を続ける。

「だから、私は桜が咲いている時だけこうして皆に視認される。どういうことかわかる? この時期でしか人は桜を見ていないってことだよ。桜が散って緑を付ければ、人はもうそれを桜だと理解出来なくなる。花をつけているだけ、桜は桜として生きていられる」

「だから……皆が櫻のことを?」

 こくり、と頷いた。

 存在を奪った物が認識されなければ彼女も同じように視認されなくなる。本当に桜のように。花を咲かせなければ見てもくれない、そんな儚い存在。

 それが、今の櫻なのか……。

「実は、この話ももう何度もしたんだけどね。毎回毎回、同じ話をしなくちゃいけないのも困りもんだね」

「なぁ、存在が無くなるのはわかった。でも、なんで記憶まで……」

「同じ花は二度咲かないからだよ」

 真面目な顔で、櫻はそう言った。

「私の記憶はこの桜そのものじゃないの。言ったでしょ? 桜は血を吸って綺麗な花を咲かせる。私の存在は根元じゃなくて、花にあるの。花の色が私の記憶。花そのものが私の存在」

「だから、花が散れば……」

「そ。君が忘れちゃうのも仕方ないんだよね」

 そう言って悲しそうに笑う。きっと、この話ももう何度もしたはずだ。今、俺の喉から出そうになっている言葉も全て、櫻にとっては聞き慣れた言葉だろう。どうしたら、治せるのか、そんな言葉も出て来たが、ぎりぎりのところで飲み込む。その言葉には何の意味もない。何年も同じ状態なのなら、きっともう何かしらの手は出ているはずだ。それでも、この状態が続くということは――そういうことなのだろう。

「俺には何か出来ることはないのか?」

「ないね。強いていうなら、私のことを忘れないようにするくらい――でも、無理だったでしょ? 今だって、きっとかなり無理してると思うよ」

「……」

 櫻の言う通りだった。

 少しでも気を抜けば、櫻の事を忘れそうになる。今、こうして櫻の顔から目を離さずに絶えず脳に焼きつけておかないと今のことさえも記憶の彼方に飛んで行ってしまいそうだった。

「もう桜の花も散ってる。それに、君にあげたペンダント。今も持っているんでしょ?」

「ああ、だけど……」

 ここに来る前に櫻から貰ったロケットペンダントを持って来ていた。大事に机の奥にしまってあったそれをポケットから取り出す。しかし――

「ああ、やっぱりね」

 中の桜は枯れていた。以前見た桃色の花は黄ばんでお世辞にも美しいとは思えなかった。

「まぁ、仕方ないか。花はいつか枯れるものだし」

 諦めた声でぽつりと呟く。

「もう、時間も余りないからさ。そろそろお別れの挨拶しとこっか」

「諦めるのかよ」

「ううん、諦めてなんかいない。だからこそのペンダントだし。それに、ちゃんと君は来てくれたし。咲良くんは知らないかもしれないけど。これ、すっごい進歩なんだよ。一度忘れた状態で私を思い出すなんて初めてだったんだから。これだけで、私はすごく嬉しかった……」

 その頬を涙が伝う。

 涙を流しながら笑う彼女に、俺はなんの言葉も掛けてやれなかった。わからなかった。今の彼女に対する最適な言葉が。同情すればいいのか? それとも、守ってやればいいのか? もう何年も彼女の期待を裏切ってきた俺に、そんな言葉を投げかける資格があるのか?

 あるわけがない。

 あるわけが、ないのだ……。

「君は悪くないんだよ」

 しかし、彼女はそんなことを言う。俺の中を見通すかのように、優しい笑顔まで浮かべて。誰よりも辛いのは自分のはずなのだ。なのに、どうして、そんな顔が出来るのか。

「また、来年になれば会えるんだから……」

そうだ。確かに来年になれば会える。しかし、俺は櫻の事を忘れ、櫻は俺の事を覚えている。今の関係はそこにはない。また、最初から。リセットされた関係で俺と櫻は歩きださなくちゃならない。いや、歩いてなんかいない。踏みとどまっているだけだ。過ぎて行くのは時間だけ。俺達はもう何年も時間に置いてかれ続けている。

忘れられる事がどれだけ辛いのかはわからないし想像することも出来ない。だが、彼女が涙を流す程に辛い事だけはわかる。

 どうにかしてやりたい。そんな気持ちだけが俺の心を空回りしている。こんなの、どうすればいいんだ。桜で出来た牢獄から彼女を助け出す術。必死に考えるが、いい案なんか浮かぶはずがなかった。

「もういいんだよ。今から何かが動く訳じゃないもの」

 よくなんかない。櫻にとっては当たり前の光景でも、俺に取ってはこれが初めてなんだ。だから、今の俺に出来る事。来年のリセットされた俺じゃなく、今の俺が、なんとかしないといけないんだ。でないと、俺は彼女の思い出を、彼女自身を、殺してしまうことになる。あの日、掴む事が出来なかった手を、今度こそ離す訳にはいかないのだ。

 しかし、櫻は首を横に振る。

「咲良くん。ありがとう。ここまで私を想ってくれて。きっと、君は知らないだろうけど、今年も言っておくね? 私、あなたの事が好き。多分、世界で一番。ずっと昔から、『私に名前の大切さを教えてくれたあの時』から、大好きだったよ。……へへ、この告白も実は六回目だったりするんだよね」

「櫻……」

「いいよ。何も言わなくても、これ以上そんな顔されたら、もう笑っていられなくなっちゃうから。最後は、笑顔でお別れしたい」

「最後ってなんだよ……」

「だって、今年の君とは、もうお別れだもん。ほら、ペンダント見てよ」

 言われるまま、ペンダントに目を通す。そこには、もう桜の花びらが無くなっていた。彼女の存在である桜の花びらが無くなるということ。それがどういう意味を指示しているのか理解した俺は慌てて視線を前に向ける。

「櫻……っ!」

 しかし、そこにはもう彼女の姿はなかった。

 舞い散る花のように。

 彼女の姿は、風に流されて、消えてしまった。



 同時に、俺の、記憶も――



「行ってきまーす」

 玄関から、外に出る。少し早いかもしれないが、気温的にはもうすっかり初夏だった。ここ最近は春なんてあるのかどうかすら微妙なところだ。寒いかなと思いきや次の日には暑くなったりと、本当に気まぐれな天気が続いていた。

 そんな天気だからだろうか、回りの葉も去年より早く成長しているように感じた。それは、もちろん家の桜も――

「行くか」

 そっちの方をちら、と見てから改めて平日の学生の目的地である学校へと足を向ける。今の生活が少しずつ、日常に変わりつつある。楽しいと感じていた心も次第に慣れ始め、これが当たり前なのだと馴染んでいく。そんな変化を感じるのは少し寂しい気もするが、多分、これでいいのだろう。これを普通と感じる事が幸せなのだ。それに、ここで留まるつもりもない。さらに上へ、もう一歩先へ。一段一段、幸せの階段を上っていく。時間に置いてかれないように。

 いや、違うな。時間に置いてかれないように、じゃない。自分達で時間を作るのだ。時間の中で、自分達の時間を作りだす。

 それだけの力が、俺にはあった。

 だからこそ――

「よっ!」

「きゃっ! ……えっ? えっ? なんで?」

 俺は、落ちる櫻の手を掴めたんだ。

「なんだよ。幽霊みたいな顔してさ」

 吃驚した様子で目を見張る。

 まさか、忘れられた人に肩を叩かれるなんて思ってもみなかったのだろう。なんせ、彼女の中では自分はもう消え去った人間だと、そう思っていたから。

「な、なんで……。わかるの? 私のことが? 見える?」

 大きく一回、首肯する。

 瞬間、櫻の目に大きな涙が流れ始めた。

「お、おい。今は他の奴も見てるから!」

「だ、だってぇ……だってぇぇぇ……っ!」

 さすがに、泣かれるとは思ってなかった。慌てて、彼女を慰める。しかし、時間が経つに連れ、段々と涙の量は増えていき、彼女の嗚咽だけが響き始める。

 今の時間帯、通学路となるこの道は生徒で一杯になる。櫻も俺も、同じ制服を着ているので、きっと傍から見たら女の子を泣かせた悪い男の図が出来ているに違いなかった。こころなしか、刺さる視線が痛い。

「わかった。とにかく落ちつける場所に行こう、な?」

 小さく頷くのを確認した後、逃げるようにその場を後にした。


「ねぇ、どうして私の事が視認出来るの?」

 俺達が向かった先は、以前、櫻が行こうと言っていた桜並木だった。ここも、もう桜の花は咲いていない。他の木と同じ、ただの街路樹となっている。そのおかげなのだろうか、ついこのあいだまで賑わっていたこの道も今ではほとんど人気がない。どことなくお祭りの雰囲気が残っているのが妙に寂しい。だが、好都合だった。

 ここまで来る間、ずっと泣いていた櫻の目元は真っ赤だ。そんな状態の彼女を余り人に見せたくはなかった。

 手ごろな場所まで来ると二人して腰を落とす場所を探す。花見用だろうか? そこにはいくつものベンチが一定間隔で設置されていた。そのうちの一つに腰を落とす。さっきから、俺を見る彼女の目は真剣だ。それも当たり前な話だ。何故、自分が見えているのか。きっと櫻には何が起こったのか検討も付かないだろう。

 だが、その答えは極めて単純。きっと誰でも思いつく、それでいて誰も真似なんかしようとしない。そんな方法だ。

 だから、詳しい説明も前置きも必要ない。ただ、単純に、一言だけ、彼女に告げてやった。

「燃やした」

「は?」

「だから、燃やした」

「燃やしたって……桜を?」

「うん」

「……は、はぁっ!?」

 口を開けて数秒、櫻は大声を上げてベンチから立ち上がった。そのままの勢いで俺の両肩を掴むと、ずいっと顔を至近距離まで近づけた。整った顔が視界の全面に映り込む。

「ほ、ほんとにやったの?」

「ああ。今、こうやって櫻と会話しているのが一番の証拠だろう?」

「そ、そりゃそうだけど……。でも、どうやって」

「俺も結構ギリギリだったんだ。お前が見えなくなった後、意識が霞んで行くように櫻の事を考えられなくなってきて、必死で家の桜まで戻ってさ。その時にはもう本当に、どうしてこんな事してんのかわからなくなってるくらいで、でも、頭の中で桜をどうにかすることだけが反響してたんだ」

 そのままの勢いで俺は桜の木に火を放った。もちろん、大木なので簡単には燃えない。台所からあるだけの酒とライター。それにマッチ。燃えやすそうな発火剤。それを家中から掻き集めて燃やし尽くしてやった。いや、やろうとした。

 少しずつ上へと昇って行く炎を眺めている内に大騒ぎをしながら両親が庭に転がり込んできたのだ。帰る途中に家から煙が上がっている所が見えたのだろう。両親は慌てながら俺を火から遠ざけ、消防車を呼んだ。幸いにも火は燃え移る事なく消化された。しかし、桜の木はもう駄目だったそうだ。死んでいると、そう通告されていた。

「だからなんだね……」

 心配そうな声を出しながら俺の右頬をさする。それだけで、俺の神経が鋭い痛みを訴えた。父親に思い切り殴られ、赤く腫れてしまったのだ。その頬を櫻は優しくさする。

「まぁ、長い間大事にしてきた桜を台無しにした訳だからな。当たり前だ」

 あれだけ立派に成長するのに、果たしてどれだけの時間を使ったのだろう。俺が燃やさなければ、きっと、あの木はさらに何十年と生き続けたはずだ。そんな命を俺は奪った。きっと、当分の間、口すら聞いてくれないだろう。

 でも、これでよかったと思う。

「こうやって、櫻を助け出せたんだしな」

「咲良くん……」

 またも、泣きそうになる彼女の頭をぽんぽんと叩いてから俺も立ち上がる。ここから、先の言葉は座りながら言う事は出来ない。それは彼女に対して失礼だから。

「さて、それじゃ俺も返事を言わないとな」

「え?」

 きょとんとした顔で俺を見上げる櫻に苦笑する。

「おいおい、お前が言ったんだぞ。もう忘れたのか?」

「え、えーと……」

 思い出そうとこめかみを押さえるが、あの様子じゃどうあっても思い出せないだろう。

「昨日、告白しただろ?」

「告白……あっ!」

 そのワードを自分で口にした途端、顔を赤くする。俺がこれから何を言うのか、彼女にも理解出来たらしい。

「一応、確認なんだけどさ。昨日のアレは、その通りに受け取っても、あの……いいん、だよな?」

 小さくこくりと頷く。

 それを確認しても、まだ上手く口が動かない。

 何やってんだ。ここまで来て。

 内に潜む自分が俺を叱咤する。

 ずっと、想っていたんだ。この気持ちがなんなのか、知らないだけで。俺も、ずっと想っていた。だから、伝えるんだ。俺も、言葉で。

「俺も、櫻が好きだ」

 数十秒の間を置いて、俺はそう口にした。しかし、彼女の表情は変わらない。じっと、俺の目を見つめる。……もしかして、声に出せてなかったのだろうか。

 そんな心配が脳裏をよぎったが、しかし、それは杞憂に終わった。

 彼女の目から涙が二つ、流れたからだ。

「私も、私も咲良くんのことが好き!」

「知ってる」

 もう、それ以上、言葉はいらなかった。

 櫻が俺の胸に飛び込み、それを受け止める。長い間止まっていた時間が今、動き出した。

 それは、まるで花のように。

 彼女を抱きしめながら、上を見上げる。

 散らした花の中から小さな実が見えた。赤い二つの実。なんとなく、それが自分達のように思えて仕方なかった。

 花を散らせ、俺達は実となった。これから、その実を育て、もう一つの木を作り始める。それが成長した時、俺達はまた花を咲かすのだ。俺の名前のように、そして、彼女の名前のように。

 しかし、彼女の存在を奪った桜のようにはならない。俺達が育てる桜は人の幸福は奪う物じゃない。幸せを、分け与えるものだ。満開になった時、全ての人が綺麗だと感じるような、そんな花を咲かせる。その為の栄養は、二人の努力。それだけだ。

 胸の中に顔を埋めていた櫻が顔を上げる。

「ねぇ、二人で綺麗な桜、咲かそうね?」

「ああ」

 ――その日、俺達の春は終わり、一歩だけ時が進んだ。






Fin



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