ふと、気づけば…
よろしくお願いします
毎朝大して変わりのない風景。うるさいだけの人の話し声。ニット帽を目深にかぶって、イヤホンをきつめに挿してもそれらは僕の神経に触ってくる。この日々が僕は嫌いだけど、変えることはできない。十月の早朝、僕は大学へ行くために電車に乗っていた。県外のその大学は僕の自宅からは距離があり、一限の授業に間に合おうと思ったらゆっくりと眠ることもできない。暖かい布団から体を起こすだけで今日一日の活力の半分を使ってしまった。そして残りの半分は、自転車での自宅から最寄り駅までの五分間に使ってしまったから、実質今の僕は死に体だ。きっと今日一日を寿命を少しずつ削ってだらだらと過ごすんだろう。考えるだけで嫌になる。他の人から見た僕はどんな風に見えるのだろうか。考えるまでもない。さえない大学生風の男が窓の外を見ながら下らないことを考えている――ぴんぽん、大正解。客観的に考えて僕の悩みは無意味だ。誰もがきっと退屈な日常に飽き飽きしている。それでも我慢して表面上取り繕って生きている中にどうして自分は皆の前で笑えないのだろう。一人鬱々としつつ電車のつり革に手を釣り揺れていると、僕の前に座っていた人が席を立った。不安定な姿勢から座ったためか思ったよりも勢いがついてしまい、隣に座っていたサラリーマンに眉を顰められた。目を合わせずに会釈をして(会釈といえるかわからないけど……)、シートに身をゆだねる。少し暖かさが残ったシートに、そういえばさっきのは女子高生だったと脳裏にかすめたが頭を振って思考を散らした。僕は眠いんだ。けど寝たら乗り過ごしてしまう。単純な言葉でしか物事を考えられなかった僕はいつの間にか僕は眠ってしまっていた。
目を覚ますとそこは見知らぬ街だった。とはいっても別に不思議な力によって唐突にとかそういった類のものではなく、ただ単に眠りこけていた僕が終点に来てしまったというだけの話だ。町の名前は、○○行――とかそういった電車の終点として知っているだけのもので、来たことはもちろんどこの県なのかさえ分からなかった。改札で支払った金額から考えて結構な辺境に来てしまったらしい。駅を出て軽く伸びをする。長時間同じ姿勢を保っていたためかたったそれだけの行為が妙に気持ちが良かった。大学をさぼって、知らない街で、伸びをする、たったそれだけの行為に少し気分が高揚した。
町には大きな建物がなく、車の通行も少なかった。パッと見ただけでも過疎化が進みつつあることが分かる。僕は目的地もなく歩いていく。人のあまり入っていない喫茶店、さびれたガソリンスタンド、やたらと駐車場の広いコンビニ。そういったものを横目で見つつぶらぶらと歩いていく。悪くない気分だった。普段と違った行動をするというのは、たった少しの違いでも十分に気分転換になる。少し疲れたので目先にあった公園に入る。そこは小さな公園で、住宅地の空き地の真ん中にぽつんと位置していた。僕は設置してあったブランコに腰掛けて煙草を吸った。二本目を吸い始めようと火をつけていると、小さな女の子がボールを持って僕の近くに寄ってきた。
「おじさん、あそぼ」
「いいよ」
別段目的があるわけではなかったので付き合うことにした。
「おじさんじゃなくておにいさんな」
「ん」
女の子は、小奇麗な服を身に着けたそこそこいいところの子供といったところだった。年は正直わからないが、たぶん小学生に上がって間もなくといったところだろう。つるつるとしたゴムボールを交互に投げる。よくわからないがキャッチボールだろうか。とにかく僕らは延々とその行為を続けていた。女の子が飽きるまでやろうと思ったが僕の方に少し飽きが回ってきた。キャッチボールを続けながら話しかける。
「ねえ、たのしいかい」
「うん」
「それはよかった。小学校は楽しいかい」
「うん。楽しいよ」
「それもよかった。けど、今日は学校は休みなのかい」
「ううん。行かなきゃダメだよ」
「さぼってるんだ」
「うん」
「じゃあ、僕と一緒だ」
「?」
「僕も今日は大学に行かなくちゃ駄目な日なんだ」
「だいがく?」
「そう大学。簡単に言うと小学校の次の次の次に行かなくちゃ駄目なところなんだ」
「絶対?」
「えっと、義務じゃないけど君の家ならいかなくちゃいけないんじゃないかな……知らないけど」
「ぎむ?」
「難しいか」
「うん」
「そか」
延々と玉投げを続ける。
「本当に楽しいかい」
「うん」
「ふうん」
こんな風に同じことを繰り返して飽きたりしないこの子がうらやましかった。それともこの子も成長したら僕のように思うようになるのだろうか。
「僕は少し飽きてきたよ」
「……おしまい?」
「うん」
「わかった」
女の子はそういうと後ろを向き僕から大きく距離をとってまたくるりとこっちを向いた。あんなに離れたらボールが届かないかもしれない。女の子は輪っかにした手を口に当てた。
「おにいさん、きっといいことあるよ!」
ひょっとしたら彼女はこれを言いに僕の傍に寄ってきたのかもしれない。そう思うとおかしくなって、僕は自然に笑顔になってしまった。僕も叫び返す。
「余計なお世話だよ!」
「あは」
今気づいたけど彼女は笑った顔が一番かわいらしい。
「おにいさん、ぱーす!」
「わかった!」
僕は思いっきり振りかぶった。
例えばこれが小説で僕が主人公だった場合の話。毎日に活力を失ってしまった学生が、ぶらりと立ち寄った街で出会った少女に出会うという事件を経て、日々を明るく生きていこうと思う人間に成長した――それだけの話だったのに。
手をすっぽ抜けてしまったボールは彼女の頭上を大きく超え、道路に出てしまった。彼女はおかしそうに何か言いながら(たぶんノーコンな僕をからかうようなこと)道路に出た。道路の真ん中に転がっているゴムボールを拾うと彼女は嬉しそうにこちらに向かって手を振った。
彼女に迫る大型トラックの影にきづかないまま。
固い鉄の塊が彼女の柔らかい体を無残にも潰し跳ね飛ばす。この距離からでも即死だとわかる鈍い音があたりに響く。放物線を描いて飛ぶ彼女の体はまるでいびつなゴムボールのようだった。彼女は死んでしまった。
死んでしまったはずだった。
ぼんやりとした頭で現状を確認する。まずは女の子、手を振ったまま固まっている。次にトラック、彼女の五十センチと離れていない距離で固まっている。そのほかの風景も固まっている。いや、違うこれは固まってるんじゃなくて、止まっている。時間が止まっている。そんなこと実際にありうるのだろうか?いや、現に僕は今それを体感している。
とにかくいまするべきことをしよう。今にも車に引かれそうになっている少女を抱きかかえる。時間が止まっていても問題なく動くようで、大した労力を使うこともなかった。安全な場所に移動させ、一息つく。これで、少女は死なずに済んだ。僕が助けたのだろうか?いや違う。僕がいたからこんな危険な目にあったのだ。
「僕がいなければ……」
ふいに頭によぎったのは、僕の願い。小さなころから繰り返し想像しては、自分を慰めていたそういう最後。
綺麗に消えたいという願望。
「今なら……」
出来るかもしれない。
僕は、こんな自分に元気をくれた少女を利用することにした。
いつもなら小学校で授業を受けている時間、わたしは家で朝ごはんを食べていた。いや時間的に朝ごはんとは言えない、どちらかというとお昼ごはんか。お母さんは朝早くに仕事に出かけてしまったけど、いつものわたしなら勝手に学校に行くことくらい出来る。ただ今日は目覚まし時計をセットし忘れていたのだ。たまの失敗くらいみんな大目に見てくれるだろう。
わたしの家はお母さんと私の二人暮らし、アパートに住んでいる。お父さんはいないけど別に何の不満もない、だってわたしにはお母さんがいるから。お母さんは毎日朝早くに出かけて、夜遅くに帰ってくる。何の仕事をしているかはよく知らないけど関係ない、お母さんは家族のために頑張っている。ならわたしの仕事は毎日を楽しそうに送ることだと思う。
食べ終わった食器を流し台で洗って片付ける。ふと、天気が気になって外を見ると、いつもは誰もいない公園に男の人がいるのが見えた。藍色のジャンパーに黒色のコートのその人はブランコに座ってぼーっとしていた。わたしは妙にその人の事が気になった。
わたしはお気に入りの服を着た後、ゴムボールを胸に抱えて家を出た。本当は学校に行かなくちゃいけなかったけど、その人を見て少し気が変わった。初めての朝寝坊と見知らぬ人影に気持ちが少し変になっていたのかもしれない。
「おじさん、あそぼ」
「いいよ」
間を置かずに帰ってきたその言葉に、わたしの方が驚く。正直自分でも期待していなかったからだ。
「おじさんじゃなくておにいさんな」
「ん」
そのひとは思い出したかのように言った。
ピカピカのボールは誕生日にお母さんが買ってくれた物だ。お友達と遊ぶときに使いなさいと言われていたから、今まで一度も使っていない。
わたしがボールをぽーんと放ると、お兄さんは難なく手に収めた。
「かわいい服だね」
「ありがと」
お兄さんはわたしが取りやすいように勢いを殺したパスをした。それでもわたしは不格好なキャッチになってしまう。
お気に入りの服はお母さんが、少し無理をして買ってくれた。本当にたまにしか着ないけど一番のお気に入りだ。
「学校は楽しい?」
「――うん。たのしいよ」
わたしは、学校が、楽しい。楽しくなくちゃ、いけない。
あそこに味方が一人もいなくてもそれは変わらない。
「本当に楽しいかい?」
「うん」
毎日が、幸せ。幸せ。
わたしは一人でも大丈夫。
しばらくそうやって二人で遊んでいたけど、お兄さんは少し飽きてしまったようだ。
お兄さんが投げたボールは大きくわたしの頭の上を超えていってしまった。
ころころと転がるボールを追いながら、どうしてこの人に声をかけたのかと不思議に思った。
後になって気付いたのだけど、私は遊び相手が欲しかったんじゃないか。ひょっとして私はあの時笑っていたんじゃないかって。
私はいま病院のベッドにいる。お兄さんは、私をトラックからかばって死んでしまった。お母さんは事故後、お兄さんの両親らしい人に涙を流して謝っていた。その人たちは、息子の命を無駄にしないように生きてくれと言って去って行った。
私は生きて、お兄さんは死んでしまった。
不思議なのはどこも悪くない私がもう十年も入院していることだ。
ありがとうございました