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第9話:六芒星と安寧

ギルドに併設された宿屋の一室。

そこは、元いた世界の格安ビジネスホテルよりもずっと簡素だったが、今の俺には宮殿のように見えた。

木製のベッド。清潔なシーツ。そして、窓から差し込む夕暮れの光。


「……はぁ」


深く椅子に腰掛け、テーブルの上に置かれた小冊子を広げる。

冒険者登録の際に渡された「ギルド利用規定」だ。そこには、先ほど先輩受付嬢が説明していたランク制度が詳しく記されていた。


Fランク(新人):受注可能は星二つまで。


内容:雑用、薬草採取。討伐は禁止。


「……だよな」


俺が剥がした依頼書には、確かに「1」という数字が書いてあった。

だが、その横に描かれていたのは、ただの五角形の星(★)ではなかった。

複雑に線が交差する、六つの角を持つ星。


特殊依頼(六芒星依頼):通常の星とは別格の高難度カテゴリー。


六芒星 1:Cランク3人以上、またはBランク以上が単独で受注可能な特殊危険任務。


「…………」


冷や汗が流れる。

つまり俺は、新卒研修の初日に「部長クラスが数人がかりで進めるプロジェクト」を、一人で、それも「だいたい合ってる」程度の理解度で強行突破したようなものだ。

そりゃあ、受付嬢の顔から血の気が引くわけだ。本来なら死んでいても文句は言えない。


コンコン、とドアが叩かれた。


「お食事をお持ちしましたー」


入ってきたのは、さっきのダウナーなエルフではなく、恰幅の良い宿の女将だった。

差し出されたのは、湯気が立つ具沢山のスープ、噛み応えのありそうな黒パン、そして小皿に盛られた塩漬けの肉。


「……うまっ」


スープを一口すすった瞬間、身体中の細胞が歓喜の声を上げた気がした。

前の世界では、コンビニのパンを歩きながら詰め込んだり、深夜にカップ麺を啜ったりするのが日常だった。

誰かが作った温かい飯を、座って食べる。

たったそれだけのことが、今の俺にはこの上ない報酬に感じられた。


銀貨二十枚。

この世界では、銀貨一枚でそれなりの食事が二、三回はできるらしい。

二十枚あれば、贅沢をしなければ一ヶ月は暮らしていける計算だ。


「……生き延びた、んだよな」


食後、ベッドに横たわり、天井の木目をぼんやりと眺めた。


固い。

だが、不思議と嫌ではない。


むしろ、妙に安心する硬さだった。沈み込むようなマットレスよりも、「ここにいる」と現実を支えてくれる感じがする。


腹は満ちている。

喉も乾いていない。

雨風を防げる屋根があって、扉には鍵まで付いている。


――たったそれだけの条件が、こんなにも人間を落ち着かせるのか。


「……今日、濃すぎだろ」


朝は、ただの会社員だった。

気付けば知らない場所にいて、知らない街に連れてこられ、文字が読めない依頼書を持たされ、化け物に襲われて、気絶して、起きたら地形を変えていた。


意味が分からない。

理解が追いつくわけがない。


だが、もう考える気力も残っていなかった。


視線を横にずらすと、テーブルの上に置いた銀貨の袋が見える。

さっき女将に教わって、少しだけ中身を確かめた。


銀貨二十枚。


革袋に入っているだけなのに、やけに重く感じた。

金属としての重さというより、「今日生き残った証拠」みたいな重さだ。


指先を軽く握ったり開いたりしてみる。


――痛くない。


森であれだけ吹き飛ばされ、骨がどうにかなっていてもおかしくない衝撃を受けたはずなのに、今はただの筋肉痛みたいな鈍さしか残っていない。


「……なんで動けてるんだ、俺」


考えかけて、やめた。


答えが出ないことを考えるのは、もう十分やった。

この世界の理屈は、たぶん元の常識では測れない。


明日、測定をする。

ギルドがそう言っていた。


なら、その時に嫌でも分かるだろう。


分からないことは、未来の自分に押し付ける。

今はそれでいい。


廊下の向こうから、食器を片付ける音と、誰かの笑い声がかすかに聞こえてくる。

宿としては決して高級ではないのだろうが、その生活音が妙に心地よかった。


元の世界では、隣の部屋の物音なんて鬱陶しいだけだったのに。

今は、人が近くにいるというだけで、変な安心感がある。


「……寝るか」


まぶたが、重い。


抗う理由もない。

体が勝手に、休息を選んでいる。


明日になれば、また何かが起きるのだろう。

面倒事かもしれないし、ろくでもない展開かもしれない。


それでも――


少なくとも今日は、追いかけてくる魔物も、

訳の分からない怒号も、

理不尽な視線もない。


静かだ。


その静けさに身を任せたまま、意識はゆっくりと沈んでいった。


異世界に来て、初めての、

何にも邪魔されない眠りだった。

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