第4話:胸の奥に沈んでいたもの
泥の匂いと血の味が混ざった空気の中で、意識が沈む。
視界は暗く、音は遠く。ただ、「痛み」だけが妙に生々しい輪郭を持ってそこに残っていた。
身体はもう動いているのか、それとも止まっているのかさえ分からない。
ただ――沈んでいく。
深く。もっと深く。
そこは、魔物も、森も、農夫の悲鳴も届かない場所だった。
……思い出したくもないはずの記憶が、なぜかそこにあった。
いじめが始まる、少し前の頃。まだ「日常」というものが、辛うじて形を保っていた時期。
部屋のカーテンは閉めっぱなしで、淀んだ空気。
机の上には散らばった菓子の袋と、気が抜けてぬるくなった炭酸のペットボトル。
ノートパソコンの画面だけが、暗闇の中でやけに明るく発光していた。
当時、妙にはまっていた動画サイト――ネコネコ動画。
理由はよく分からない。面白いから見ていた、というより、ただ視界に流れてくる情報を脳に流し込んでいただけだった。
ビースト先輩。
クラッカー☆。
断片的なネタや、脈絡のない編集動画。
何が面白いのか説明しろと言われても、きっとできなかったと思う。
でも、画面上を横切るコメントと一緒に見ると、なぜか笑えた。
論理ではなく、「感覚」で笑っていた。
本当に、それだけだった。
その中でも、やけに繰り返し再生していた動画があった。
タイトルは「21才」。青い鳥発祥のミームだ。
内容は短い。画質も良くない。どこかの路上で撮影された、ただの口論の映像だった。
画面の中の男性が言う。
『もちろん俺らは抵抗するで?』
間。
少年が返す。
『どうてい抗すんねん』
そして男性が、わずかに重心を移動させ、踏み込みながら――。
『……とっ……』
ほんの一瞬の溜めのあと。
『 拳 で 』
コメント欄が爆発する。
流れてくる文字。同じ言葉の連打。改変された台詞。
意味の分からない盛り上がり。
それを見ながら、当時の俺は、なぜか笑っていた。
何が面白いのか、理解していたわけじゃない。でも、笑っていた。
何度も見た。
音MADになったものも見た。
別のキャラに言わせた動画も見た。
真似しているだけの投稿も見た。
また元の動画に戻って、コメント付きで見て、笑った。
その繰り返し。
笑いが一段落したあと。
ふと、画面を見たまま、独り言のように呟いたことがあった。
「……なんか、かっこいいな」
誰に聞かせるでもない、ただの独り言だった。
強そうだからでもない。正しいことを言っているわけでもない。
むしろ、意味なんてほとんど無い。
それでも。
あの短い踏み込みと、「言い切り方」だけが、妙に頭に残った。
そこで記憶は終わる。
楽しかった思い出でもない。大切な記憶でもない。
黒歴史と呼ぶには十分で、わざわざ思い出す価値なんて、本来は無いはずのものだった。
さらに意識が沈んでいく。
あんなに鮮明だった痛みも、耳障りな魔物の咆哮も、遠い海の底の出来事のように遠ざかっていった。
気が付くと、俺は椅子に座っていた。
――映画館だった。
照明は落ち、スクリーンだけが淡く白く光っている。
客席には、誰もいない。いるのは、俺一人だけだ。
妙に静かで、落ち着いていて、そして、どういうわけか理解してしまった。
(……ああ、これ、走馬灯か)
現実感はないが、妙な納得感だけはあった。
やがてスクリーンに、ざらついた映像が映し出される。
中学時代の教室だった。
ナレーションのように、頭の中で言葉が反芻される。
――だが、ある時期を境に、いじめは終わっていた。
――きっかけは思い出せない。
――誰かが止めてくれたわけでも、劇的な事件があったわけでもない。
――ある日、急に何もされなくなった。
――理由が分からないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
スクリーンの中の俺は、ロッカーの前に無様に倒れていた。
思い出せないんじゃない。思い出したくなかっただけだ。
これが――その「きっかけ」だった。
取り巻きたちが、愉しそうに笑っている。
交互に蹴りを入れてくる。靴底が脇腹に当たるたび、視界がぐにゃりと揺れる。
「ほら、もっと動けよ」
「反応薄いなー、生きてる?」
やがて、主犯格の男がパン、と手を叩いた。
「はいはい、ちょっと下がって下がって。道開けて」
取り巻きたちが面白がりながら、俺を中心に距離を取る。
主犯格は教室の端まで歩いていき、壁に背をつけた。こちらを冷たい目で見据える。
助走をつける気だと、すぐに分かった。
倒れたままの俺は、泥の中に顔を埋め、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……もちろん俺は抵抗するで……」
主犯格が叫ぶ。
「ア〇ロ、いきまーす!!」
走ってきた。全力だった。
勢いをつけて跳び、両足で俺を蹴り飛ばすつもりなのが分かる。
その瞬間――俺の身体が、意識より先に勝手に動いた。
倒れたまま、壁に手を叩きつける。思い切り、地面を押し出す。
横に、転がるようにして回避した。
次の瞬間。
ドゴンッ!!
凄まじい衝撃音とともに、主犯格の両足が、俺のいた場所のすぐ後ろ――ロッカーの扉を突き破って中に突き刺さった。
教室が、一瞬で凍り付いた。
取り巻きたちが唖然としている。
「ちょw 待て、ちょ……ちょっとはまってしまた、皆助け――――」
その情けない声が響く途中で、俺はすでに立ち上がっていた。
何も考えていなかった。ただ、身体が熱かった。
「 拳 で 」
ロッカーに足を取られたまま、身動きのできない主犯格の顔面に。
俺は、渾身の力で右拳を叩き込んだ。
初めて、人を殴った。
加減なんて知らなかった。
拳が、めちゃくちゃに痛かった。骨に響いて、涙が出そうだった。
でも、堪えた。
今度は、ちゃんと声に出して、目の前の全員に向かって言った。
「もちろん、俺は抵抗するで」
取り巻きたちの方へ振り返る。
震える足を踏み出し、次の一言を、決め台詞を言おうと口を開きかけた――そのとき。
教室のドアが、暴力的な勢いで開いた。
「何をしてるんだ!!」
担任教師だった。
教師は教室の惨状を見て、数秒間、完全に硬直した。
ロッカーに足が突き刺さったまま気絶した主犯格。
殴った直後のポーズで、拳を赤く腫らしている俺。
恐怖で凍り付いた取り巻きたち。
教師は、俺を、軽蔑と怒りの混じった目で見据えた。
そして、低く言った。
「……全員、職員室だ」
映像が、そこで止まった。
暗転。
映画館のスクリーンが、ゆっくりと無機質な黒に戻っていく。




