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第3話:読めない依頼書と、だいたい合ってる採取

ギルドの壁から、適当に一枚の依頼書を剥がした。

 六芒星が一つ。記号の意味は教わっていないが、たぶん一番下のランクだろうということだけは直感で分かる。


 内容を確認しようと紙に目を落とした。


「……薬草採取、か」


 そこだけは読めた。問題は、その下に書いてある細かい説明だった。

 文字は同じ言語のはずなのに、妙に崩れているというか、文法が致命的に変だ。


コノ草、ミドリ色。

ハ、三枚カ四枚、タマニ五枚。

ニオイ、スコシ苦イ。

抜ク時、根ヲ丁寧スルコト。


 その先は完全に異世界語――あるいは、ただの殴り書きで読めない。


「……カタコトだな」


 誰が書いたのか知らないが、妙に不安になる説明文だった。

 だが、まあ薬草の依頼だ。そこまで厳密なものでもないだろう。読めない部分も多いが、成り行きでどうにかなる気がした。

 そもそも、今の俺にはどうにかする以外の選択肢がない。


 王都の外へ出て、しばらく歩く。

 石畳が途切れ、土の道に変わり、やがて背の低い草が広がる原っぱに出た。

 遠くでは農夫らしき人影が鍬を振っている。のどかな、それこそ絵に描いたようなファンタジーの光景だ。


 依頼書に描かれていた雑なスケッチと、足元の草を見比べる。


「……これ、か?」


 似ている気がする草を一本摘む。また別の草を見る。


「……これも、か?」


 正直、違いが分からない。

 依頼書の説明が「三枚か四枚、たまに五枚」なので、この辺りに生えている草はだいたい全部当てはまりそうに見える。

 少し考えたあと、俺は結論を出した。


「……まあ、似ていればいいだろう」


 それからは、見た目が近そうな草を次々と抜いていった。

「根を丁寧に」と書いてあった気がするので、できるだけ土を崩さないように意識して引き抜く。


 足元が小さなクレーターだらけになっていくのを無視して、袋の中をそれらしい草で埋めていく。


「……こんなものか」


 依頼としては十分な量に見える。

 土の塊を払い、袋の口を縛ろうとした、そのときだった。


 ――ガサ。


 奥の茂みから、小さな音がした。

 風にしては、不自然な揺れ方だった。


 視線を向ける。草が、もう一度揺れる。

 ガサゴソ、と、何かが動いている明確な気配。


「……動物か?」


 この世界に来てから、まだ野生の生き物をちゃんと見ていない。

 少しだけ様子を確かめようと、そちらへ歩み寄る。


 足を一歩踏み出した瞬間。

 茂みの奥で、明らかに「こちらを警戒した」動きが止まった。

 空気が、わずかに張り詰める。


 そのとき、ふと手元の依頼書の端が、風にめくれた。

 そこには、俺が読めない異世界語が赤い墨で小さく、だが殴り書きするようにこう記されていた。


 【注意:近隣にてA級魔物、多数出現の可能性あり】


 背後の茂みが、大きく、爆発するように弾けた。

 茂みが爆発するように弾け、そこから「それ」が現れた。


 外見はイノシシに似ていた。だが、明らかに異常だった。


 体表は岩のように硬質化し、剥き出しの筋肉が不自然に盛り上がっている。何重にも枝分かれした牙は、獲物を逃さぬための凶器そのものだ。


 濁った目は焦点を結んでおらず、ただ破壊衝動だけを撒き散らしている。

 漏れ出る呼吸音が重く空気を震わせ、生き物というよりは、巨大な「圧力」そのものがそこに立っているような錯覚を覚えた。


(……無理だ)


 戦おうなんて、微塵も思わなかった。

 本能が、全身の細胞が、全速力での逃走を命じている。

 俺は一歩、後ずさる。だが、その背後の草むらも次々と揺れ始めた。

 一体ではない。同種の個体が、音もなく俺を囲んでいた。


 そのとき、少し離れた畑の方角から、裂けるような悲鳴が上がった。

 先ほどまでのどかに鍬を振っていた農夫が、必死の形相で獣に抵抗している。

 だが、その抵抗はあまりに無力だった。


 農夫の体は、獣の一撃で紙屑のように弾き飛ばされた。

 逃げようと地面を這った瞬間、別の個体に背後から噛み砕かれる。

 土の上に引きずられ、形が崩れ、言葉にならない絶叫が不自然に途切れる。

 あとに残ったのは、生々しく、湿った捕食の音だけだった。


「……あ」


 喉が、砂を噛んだように乾く。

 呼吸が浅くなり、指先が冷たく強張る。

 足は今すぐにでもここから逃げ出したがっているのに、地面に縫い付けられたように動かない。

 視界が不規則に揺れ、意識が足元から引きずり込まれるような感覚。


 ――その揺れに導かれるように、記憶が、一番思い出したくない場所に繋がった。


 チョークの粉の匂いが漂う教室。

 机の中に詰め込まれた、泥だらけのゴミ。

 いつの間にか無くなっている教科書。

 背後で、わざとらしく響く笑い声。

 殴られた理由は思い出せない。そもそも、殴る側に理由があったのかさえ分からない。


 担任は見て見ぬふりをした。親に言っても「気にするな」と、それ以上踏み込むことを拒絶された。

 状況は何も変わらず、逃げ場はどこにもなかった。

 世の中は理不尽だ。それが俺にとっての、最初の世界の形だった。


 だが、ある時期を境に、それは終わっていた。

 きっかけは思い出せない。

 誰かが止めてくれたわけでも、劇的な事件があったわけでもない。

 ある日、急に何もされなくなったのだ。

 理由が分からないまま、ただ時間だけが過ぎていった。


 なぜ終わったのか。

 何があったのか。

 何か、俺が見落としている決定的なことが――


 必死に思考の糸を辿りかけた、その瞬間。


 目の前の魔物が、地面を砕きながら突進してきた。

 思考は強制的に遮断され、死の質量が眼前に迫る。


 理由を思い出すより先に。

 現実のほうが、容赦なく牙を剥いてきた。


――ガツン、と。


 視界が火花を散らし、世界が激しく回転した。


 構えを取る余裕も、回避する術もなかった。魔物の突進を正面から受けた俺の身体は、木の葉のように宙を舞い、背後の巨木へと叩きつけられる。


 幹に激突した衝撃で、人の胴体ほどもある太い木が、乾いた音を立ててへし折れた。


 肺の中の空気が、強制的にすべて押し出される。

 地面に崩れ落ちると同時に、熱い塊がせり上がり、口からドロリとした血反吐が溢れた。


(……ああ、これだ)


 意識が急速に遠のき、白く滲んでいく。



「ほら、もっとちゃんと反応しろよ」


 教室。埃っぽい空気と、鼓膜を刺すような笑い声。


 その日は、いつもより執拗だった。

「じゃれ合い」という免罪符を掲げた手が俺の肩を掴み、抗う間もなく教室床へと叩きつけられる。

 息が詰まり、必死に酸素を求めて喘いでいた、そのときだ。


「いくぞー!」


 無邪気な掛け声とともに、助走をつけて走ってきた一人が、俺の脇腹に全力で蹴りを叩き込んだ。


 身体が少し浮き、掃除用具入れのロッカーに激突する。

 ガシャリ、と嫌な音を立てて金属が歪んだ。


 ――再び、森。


 魔物が耳を奪うような唸り声を上げ、次の一体が突進してくる。

 理解が追いつかないまま、また身体が弾き飛ばされた。受け身も取れず地面を転がり、全身の骨が悲鳴を上げる。


 起き上がるよりも早く、別の魔物が横から体当たりを見舞う。

 交互に、容赦なく、ただ物理的な質量だけが俺を破壊し続ける。

「防御」すら許されない。俺という個体が、確実に壊れていく。



 歪んだロッカーの前に伏したままの俺を、いくつもの影が囲んでいた。

 取り巻きたちが、愉しそうに笑っている。


「おいおい、そんな当たり方したら壊れるだろ」


「避けろよな? どんくさいんだよ」


 投げかけられる言葉には、まだ「理由」があった。

「ノリが悪い」「空気を読め」「おもんない」。

 断片的には、正論の皮を被った理屈が混じっていた。だから俺は、何も言い返せなかった。

 だが、回数を重ねるごとに、言葉は純粋な悪意へと変質していく。


「ほんと使えねぇな」


「なんで居んの?」


「邪魔なんだけど」


 理由が消え、ただの「否定」だけが残っていく。


 ――ドスン。


 また一体、突進が命中した。

 吹き飛ばされ、泥に塗れた地面に叩きつけられる。


 痛みの質が、記憶と完全に重なった。

 場所も、相手も、何もかも違うはずなのに。

 状況は、あの頃とまるで同じだった。


 抵抗できない。

 説明もない。

 ただ一方的に、理由もなく壊される。


 泥の中に顔を埋めたまま、俺の指がわずかに動いた。

 自分でも、なぜ動いたのか分からない。


 そこにあるのは恐怖でも、燃え上がるような怒りでもなかった。


「……またか」


 ただ、諦めに似た冷ややかな感覚だけが、胸の奥底に静かに沈んでいった。

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