第6話:虚構を超えた一撃
教会の扉をくぐると、そこには静かな森の景色が広がっていた。
人の気配はまるでなく、民家らしき建物も一切ない。
小さな砂利道が一本、森の奥へと続いているだけだった。
「……とりあえず、この道を進むしかなさそうだな」
「うん……」
ラァラは不安げな表情で、俺の隣をぴったりと歩いてくる。
その手は、まだ俺の袖を掴んだまま離れようとしなかった。
二人はしばらく無言で森の道を歩く。
風が止み、森全体が――まるで息を潜めているようだった。
その時。
*グルルル……*
低く、喉の奥で唸るような音。
「っ……今の、聞こえたか?」
小声で問うと、ラァラがこくりと頷く。
震える指先が袖にぎゅっと力を込めるのが分かった。
唸り声は徐々に近づく。
そして――森の影がゆっくり動き、ぬるりと姿を現した。
灰色の毛並みを持つ四足の異形の獣。
鋭い牙、光る両眼。
首には淡く光る、奇妙な首輪のようなもの。
「っ……なんだ、あれ……?」
思わず後ずさると、ラァラが震える声で答えた。
「魔獣だよ……どうしてこんな場所に……!?」
「おいおい……魔獣って……」
異世界ファンタジーでよく見るやつ――
って、そういえば、今はその異世界にいるんだった。
だけど、普通こういうのって“魔法で戦う”のが定番だろ?
相手は人間じゃない。
話が通じるわけもない、完全に“敵”。
――俺の魔法って、こんな相手にも通じるのか?
魔獣が、ピタリと足を止めた。
両肩を低く落とし、地を抉るように爪を構える。
喉の奥から、低く重く、獰猛な唸り。
その瞬間、魔獣が地を蹴った。
――来た……!
反射的に体が動いた。
咄嗟にラァラの肩を押しのけ、右手を前に突き出す。
「くっそ! やるしかないのかよ……!」
魔力を一点に集中し、一気に解放する。
空気がピリリと震え、空間そのものがきしむような音を立てた。
直後――
現れたのは、魔獣を丸ごと呑み込むほどの巨大な竜。
全身を黒煙のような魔力に包み、禍々しくゆらめく輪郭。
見る者の心を凍らせるような圧倒的な“存在感”だった。
地を揺らす低い咆哮が森を震わせる。
その声を響かせながら、竜は魔獣を真っ直ぐ睨み据えた。
――……頼む、退いてくれよ……!
願うように呟くと、魔獣がわずかに立ち止まった。
唸り声を喉に押し込み、前脚の踏みしめる力が弱まる。
牙を剥き、竜をにらみ上げ――揺れる瞳。
だが次の瞬間、その躊躇は消えた。
魔獣が吠えた。
そして、竜へと跳躍する。
「っ……来るのかよ……!」
鋭い爪が振り下ろされる――その瞬間。
*バシュッ。*
竜の胸に触れた瞬間、
巨大な黒い体は煙のように掻き消えた。
まるで――
最初から幻以外の何ものでもなかったみたいに。
空を切った魔獣が地面に着地し、困惑して低く唸る。
「……あ……あぁ……」
俺は言葉を失った。
やっぱり、ダメだった。
発動していた『凄い魔法に見える魔法』――
それは本当に、ただ“凄い魔法に見える”だけの魔法だった。
触れたら、消える。
実体なんて、どこにもない。
――ハリボテにもほどがあるだろ……。
わかってたさ。
見た目だけの魔法だって、ちゃんとわかってた。
でも……あれだけ“凄そう”に見えたら、少しくらい期待するじゃんか……。
「……なるほどな。見た目だけでビビらせる魔法――だったってわけか」
低く、くぐもった声が森の奥から響いた。
顔を上げると、木々の隙間からあの大男が姿を現した。
右手には、魔獣の首輪と同じ淡い光を放つ奇妙な装置。
魔獣はその気配に反応し、ぴたりと動きを止めた。
そして大男に気づいた瞬間、まるで命令を待っていたかのように足元へと寄り添う。
「どうりで、さっきのも攻撃らしい攻撃がなかったわけだ。
そもそも、属性が解放済みのガキなんて――こんな所にいるわけねえんだ」
俺は拳を握りしめた。
……やっぱり、俺には無理だったのか?
そんな声が、心の奥底から囁く。
――いや、まだだ。まだ終わっちゃいない。
自分の中にある四つの魔力器。
そのうち一つには、“あのハリボテ魔法”が込められていた。
――だけど、残りの魔力器は、まだ使える。
今度は……
別の魔法を――“同時”に叩き込む。
魔獣を操っていたこの大男が、さっきの魔法はただの見せかけだと確信しているのなら――
その前提を、もう一度ひっくり返せばいい。
俺は新たに魔力を練り、『ハッタリが通用し易くなる魔法』を別の魔力器に込めた。
大男を、ゆっくりと見据える。
「……さっきの魔法、ただの見せかけだと思ってるんだろ?」
大男の眉がピクリと動いた。
「は? なにが言いてえ」
「言っておくが、あの竜は俺が消しただけだ。あのまま放っておいたら、お前のペットだけじゃなく――俺たちまで巻き添えを喰らいそうだったからな」
わざと肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
胸の奥に魔力が集まっていく。
『ハッタリが通用し易くなる魔法』が、確かに作用している。
俺は右手をゆっくり掲げ、言葉を続ける。
「つまり、魔獣を退治する程度のことなら――」
「うるせぇ!」
怒鳴り声が俺の言葉を鋭く遮った。
「どうせまた、見た目だけのハッタリだろ。だったら試してやるよ!」
大男が手にした装置を強く握った瞬間、
魔獣の首輪がパァンと音を立てるほど強く光った。
魔獣が怒り狂った咆哮を上げ、地を蹴る。
巨体が一直線に跳びかかってきた。
――っ、ヤバ……!
全身が一気に強張る。思考が追いつかない。
だけど――背後には、ラァラがいる。
震える脚に力を込め、咄嗟に右手を振り上げた。
「くっそ……!」
現れたのは、眩い閃光と耳鳴りを伴う一発の光球。
音と光が交差し、空気すら弾ける――かのように見える凄さ。
だが――魔獣は止まらない。
光の玉へ、そのまま突っ込んでくる。
そして、魔獣の爪が光球を切り裂こうとした、その瞬間――
光と音が、ふっと掻き消えた。
「やっぱり、ただの見せかけか。――ガキの遊びだな」
大男が鼻で笑った。
――終わった……。
そう思った、そのときだった。
大気が爆ぜるような轟音が、森を揺さぶった。
風が荒れ狂い、視界が白く弾け、耳の奥を鋭く叩く。
「……え?」
呟いた頃には、魔獣の体表に“氷の紋様”が浮かび上がっていた。
静かに、だが確実に――全身へと広がっていく。
網目のように、冷たく、鋭く。
直後、空間を裂くような風音が走った。
*シュパアァァァンッ……!*
凍りついた網目に沿って、魔獣の体が容赦なく裂けた。
縦横無尽に奔った斬撃は、巨体をまるで氷塊のように断ち割り、
軌跡には、砕けた氷の粉が静かに宙を舞った。
断末魔すら、ない。
裂けた体から立ちのぼるのは血ではなく、白い霧のような冷気。
森の地面に残ったのは、氷の破片だけだった。
俺は、その異様な光景の前で呆然と立ち尽くしていた。
――何が……今、起きた?
目の前の惨劇が現実なのかすら分からない。
自分の魔法がどう作用したのかも、理解が全く追いつかない。
体は震えていないのに、心だけが妙にざわついていた。
息をするのも、忘れていた。
すると――
「なんだっ……!? おい、ふざけんな……っ!
離せっ、何が……何が起きてる……!」
大男の叫び声が、唐突に森の静寂を破った。
その声で、俺はようやく現実に引き戻された。
大男は地面に押し伏せられ、背中側に回された腕を必死にもがいている。
まるで“見えない力”に押さえつけられているようにしか見えなかった。
横には、散り散った魔獣の氷片を見つめ、息を呑んだままのラァラがいる。
――……違う。ラァラがやったんじゃない。
なら誰が……。
その時、森の気配が一斉に動いた。
葉が擦れ、足音が複数の方向から迫ってくる。
「……パオタロ、もう解除してくれて大丈夫だ」
どこからともなく、落ち着いた男の声。
「了解」
その直後、三つの影が視界に現れた。
空気を裂くように姿を現したその者たちは、同じ型の制服を身につけていた。
一人は“真っ白な制服”。
残る二人は青い制服。
年齢はそれほど変わらないように見えたが、
白の男だけは、わずかに年上――そして、圧倒的な“気配の深さ”があった。
白い制服の男の右手には、淡く白い魔力が揺らめいている。
風と冷気が繊細に交じり合い、先ほど魔獣を斬り裂いたあの斬撃を思わせる気配。
さっきの魔獣を一瞬で斬ったのは――こいつだ。
白い制服の男が一歩前へ出る。
「王血部隊・甲種の者だ。
あの男――魔獣を操っていた男を追っていた。
少し、君たちにも話を聞かせてもらいたい」
冷たい風が森を抜け、
舞い散った氷の粉が、静かに空へ浮かび上がった。




