幕間:ある夜の胃痛
――ある大きな屋敷の一室――
「コウゲツが消えたとはどういうことだ……!」
ヒカルたちが水の魔人と対峙した翌日の夜。
王都シングウにほど近い隣州を治める公爵家の当主は、報告を受けるなり憤然と立ち上がっていた。
頬の血管が浮き、机の脚がわずかに軋む。
「状況から推測しますに……おそらく『魔女の嫉妬』に巻き込まれたのではないかと」
報告した男は慎重な声音で答えた。
その一言に、部屋の空気がひやりと冷える。
「根拠は?」
「コウゲツ様の研究室には出入りを監視する記録システムがございます。
記録によれば、コウゲツ様が最後に入室されてから二名が退室していますが……
いずれもコウゲツ様ではありませんでした」
「転移者ということか?」
「おそらくは。
退室記録がない以上、コウゲツ様は研究室から消えたとしか……。
それに、室内には何かが燃やされた痕跡も……」
「なんだ、はっきり言え!」
「はっ。おそらく……
私がコウゲツ様に個人的に頼まれてお渡ししていた新魔法リストが燃やされたのではないかと――」
「……つまり私に黙って新魔法の開発を進めていたというのか!?」
「申し訳ございません!
何度もお止めしたのですが、『新魔法が開発できぬのなら、転移者などもう召喚しない』と駄々をこねられまして……やむを得ず。
しかし、新魔法の使用自体は転移者にやらせておりましたので、本来コウゲツ様ご自身が『魔女の嫉妬』に巻き込まれることはないはずでした。それがなぜ……」
「なんということだ……。あのお方には何と申し開きすればよいのだ……」
「その点につきましては、ご安心くださいませ。
新魔法を使用させていたのは『期待外れの転移者』だけにございます。
計画に支障はございません」
「そういう問題ではないわ!
あのお方よりお預かりしていたコウゲツを失ったことを、どう申し開きするつもりだと訊いているのだ。
そもそも……一体どのような魔法を開発していたのだ!」
「そ、それは……」
「早く申せ!」
「はっ。コウゲツ様がどうしても若い女性に好かれたいと仰られましたので、『ハッタリが通用し易くなる魔法』や『あの行動に好意があったのか後で分かる魔法』などを献上いたしました。
また、女性に振られるたびに深く落ち込まれていましたので、『寝つきがよくなる魔法』や『無駄に前向きになる魔法』なども併せて献上いたしました」
「ば、馬鹿な……!」
公爵は言葉を失い、肩を落とした。
「も、申し訳ございませんっ!」
男は慌てて床にひれ伏し、震える声で謝罪した。
公爵は部下の謝罪を聞き流すように、額に手を当ててため息をついた。
「胃が痛いわ……。それで、研究室から出たという転移者はどうするつもりだ?」
「それが……斥候の報告によりますと、転移者たちはコウゲツ様の研究室から、第三貴族フリードマン家が領有されているメルガルテンへ出たとのことでございます。
どうやらコウゲツ様は、フリードマン家から魔石を調達する手筈を整えておられたようで……」
「なんと! フリードマン家とも繋がっておられたか。
それにしても、魔石鉱山を掘り当ててからというもの、フリードマン家当主ルードヴィヒ殿の勢いは増すばかりだな」
「はい。ですが閣下、今回のコウゲツ様失踪の件、
ルードヴィヒ様に責を押し付けることも可能かと」
「……どういうことだ?」
「転移者たちは、メルガルテン領内で王血部隊・甲種部隊長のシシン様と接触し、
その保護下に置かれました」
「シシン殿だと? それでは迂闊に手を出せぬではないか」
「ええ。
そのためルードヴィヒ様は、シシン様が離れた隙を狙い、
水の魔人を召喚して転移者たちの始末を試みたとのこと。
しかし、それも失敗したようでして……」
「ハハっ! それは愉快だ。
コウゲツ失踪の件も含め、すべてメルガルテン領内で起きたことにしてしまえばよいわけだな?」
「さすが殿下。左様でございます」
「よかろう、それで進めろ。
ただ、転移者が現れたことが公になれば騒ぎになるぞ。
“あのお方”も動きづらくなるかもしれぬ」
「雲の上の世界のことは、私ごときが申し上げる立場にはございませぬ」
「今さら、つまらぬ奴だ。
……そういえば、コウゲツが魔石を所望されていた理由は何だったのだ?」
「そ、それは……私にもよくわかりかねますが……」
「メギド、貴様まさか、私の前でシラを切るつもりか?」
「め、めっそうもございません!
斥候の報告によりますれば……
ルードヴィヒ様が魔石を用いた精神支配魔法の開発に、すでに一定の目途を付けられたとのことでして……」
「……それがどう関係するというのだ。はっきり申せ!」
「はっ……。
コウゲツ様は、
『女性の気持ちをちょっとでも操れるようになれたら、
こんな新魔法リストなど必要ないのに』と、
女性に振られるたびに嘆いておられました。
魔石を所望された理由も、おそらくそのような私的な事情が絡んでいるのかと……」
「……なんと愚かな!」
公爵は再び言葉を失い、深いため息と共に肩を落とした。
「はい。ですが、ルードヴィヒ様の魔石のおかげで責を逃れられるのですから、
結果的にはこれでよかったのかもしれませぬぞ」
「……確かにな。
だが、二日後の『属性解放の儀』では、ルードヴィヒ殿を筆頭に“例の一派”がついに動きを見せるようだ」
「あの一派がついに動かれますか……して、閣下はいかがされるおつもりで?」
「まだ時期尚早だ。しばらくは静観を決め込むとしよう。
どちらにも動けるよう、手は打ってあるがな」
「それがよろしいかと存じます」
ちょうどその時、控えていた護衛兵が緊張した面持ちで入室した。
「ご報告申し上げます! 王都より『イチサンセン』がご到着になりました!」
「わかった。下がってよい」
護衛兵が退室すると、部下の男が静かに問いかけた。
「では閣下、ご出立なさいますか?」
「ああ、すぐに準備を頼む。それと――」
公爵は一瞬思案するように視線を落とし、静かな口調で付け加えた。
「念のため、リョゼツも同行させよ」
その名を聞いた部下の男ははっと息を呑む。
部屋の空気が一段と重くなった。
「リョゼツ殿を、でございますか? しかし、あのお方を動かすとなれば……」
「構わん。そのための『イチサンセン』だ。
万が一があってからでは遅い」
「……承知いたしました」




