第3話 逆襲のはじまり
✦⋯⋯♔ 令嬢 ♔⋯⋯✦
「アルアリエルさま、失礼します」
ミルと名乗る少年の手が、私の腕をつかむ。
世界が、回る。
甲高い衝撃音。
くるりとひるがえされた私の鼻先で、氷のカギ爪がミルの剣と打ち合った。
息が詰まり、のどの奥から悲鳴が漏れた。
――私の、首が、狙われていた。
ミルの腕が、肋骨がきしむほど強く私を抱きしめる。
鋭い動きで足を振り上げ、氷に一閃。
見た目ほどの強度はないのか、氷はガラスのように砕け散った。
「ムダです、リリアンさま」
再び、彼は私ごと前を向く。
リリアンはいつのまに、右手の《氷花の手袋》を床に押しつけていた。憎らしげに拳を作り、床板にすりつけていた。
細長いツタ状の氷を床から地面へ、そしてぐるりと大回りして、私たちの背後へと伸ばしていた。先端から氷の腕を立ち上げて襲いかかったのだ。
「つまらないトリックだ。氷はその《手袋》からしか造れないご様子――見えていますよ」
リリアンは小さく舌打ちし、悔しげに唇を噛む。彼女の手から伸びていた氷のツタは、あっけなく霧とともに消えた。
「……なんて不愉快な男なの……」
「よせ、リリアン!」
エゴールが鋭く声を上げる。
「おまえたちもだ。あれを殺させるな!」
場が硬直した。
剣の柄を握り直す金属音。
民衆の低いさざめき。
ベルトランも動けず――
全員が息をひそめて見守っている。
「アルアリエル、貴様の差し金か!」
エゴールの叫びが胸を裂く。
「やめて! 私は、もう……」
「声をおさえて。僕は唇を読めます」
熱を帯びた彼の息が、耳をかすめる。
聞こえるのは彼の呼吸か。
私の心臓の音か。
「あなたを、助けたい」
緊張が、背骨をなぞりあげた。
彼は私の首筋にあてている刃に、私にだけ見えるように、そっと自分の指先を押しつけた。
血は出ない。
傷ひとつ、つかない。
「ただのオモチャです。バレたら終わり。これでもう……僕の命はあなた次第。どうかあなたの『聞く耳』を、僕に」
首筋に汗がにじむ。
ためらいながらも、小さくうなずいた。
「納得できますか。王子のお裁きに」
(――知らない。どうにもならない)
唇が、わずかに動いた。
「あなたは死んでも利用される。侍女たちだって何をされるかわからない」
(そんなこと、ないと信じたい)
「断髪の聖女さま。あなたが報われることはない。何年もかけて世界を救ったのに、無視される。愛人が王子を手に入れる」
(やめて)
「悔しくありませんか」
えぐるような一言。
(あなたに、何がわかるの)
「ムカつきませんか」
うるさい。
「あいつら、ぶん殴りたくありませんか」
「わかりきったことを言わないでよ!!」
叫びが口をついた。
目の奥が熱くなった。
噛んだ唇がちぎれそうになった。
にじんだ視界の向こうで誰もが、異様そうに見てきた。
エゴールも、リリアンも、ベルトランも。
そんなに私が泣くのが不思議なのか。
お前たちのせいなのに。
「あなたはやっていない」
(……なぐさめはやめて)
頭が冷える。
唇が空回りする。
「なぐさめじゃない。真犯人はリリアン・フォルナ、あの女です。彼女の『有罪』を証明してください。僕がサポートします」
(私が?)
「平民の僕には『発言力』がありません。大声と暴力で驚かせるのがやっとです。王子と戦えるのは、あなたしかいない。アルアリエル公爵令嬢」
エゴールに、逆らうだって?
(できるわけ、ない……)
「イヤならやめていい。このまま死ぬか、戦うか。選んでください」
「いつまでも許すと思うな、下郎」
ベルトランの声。
右手を振って合図をすると、兵士たちが鉄のこすれる音とともに私たちを取り囲んだ。ハルバードの刃が光る。鈍色のプレートアーマーが、冬の陽光をするどく反射して私の胸をしめつける。
何人かは木製の杖を手に、何かつぶやいている。
――見覚えがある。〈催涙の魔法〉だ。
杖の先端に嵌められた鉱石が妖しい光を帯び、魔法の前兆が漂った。
「令嬢を死なせずに、ことを済ませるすべがないと思ったか」
「……ご準備、手間取ったようですね、伯爵閣下」ミルが軽口を叩く。「もっとノンビリされてもよかったのに」
「減らず口を。そなたほど酔狂ではないのでな」
「いいんですか。あなただってお気づきのはず。ご令嬢は……!」
「黙れ。耳を傾けるものなどいない。わからぬか!」
ベルトランの怒声が、ミルの抗弁を圧殺する。
彼のたじろぎが、腕を通して私に伝わった。
「――クソ。ダメか」と。
ごく小さく、つぶやいた。
「は――ははははは。エラそうにしておいて、もう手品はおしまいか!」
エゴールがリリアンを抱き寄せ、私を指差して嘲笑う。ざまあみろ、と。心の底から愉快そうに私たちを見下ろしていた。
「王子さま。あの者は車裂きにしましょう?」
リリアンがエゴールの腕にからみつく。
「私の魔法でお造りしますわ。トゲトゲがいっぱいついたスッゴい残酷なのを」
「おお、それはいい。ベルトラン、そやつは殺すな。面白い姿にしてから殺してやろうッ」
ベルトランはうんざりした様子でため息をついた。嫌悪の感情を隠そうともしない。
「……とのことだ。ぞんぶんに悔いるがいい」
「……あわれみ、恐れ入ります」
そのとき、気づいた。
ふてぶてしく笑っているミルの手が、震えを押さえつけるように、必死に剣の柄を握りしめていた。
恐れ知らず、向こう見ずだと思っていた。
私はバカだ。
彼のように口も頭も回る男が、この蛮行の意味を察せぬはずもない。
怖くないわけが、ないのに。
(なぜ、あなたは)
身体をかたむける。
彼の顔が見たくなった。
目と、目を、合わせる。
腕のなかで、唇で問いかける。
(どうして、助けてくれるの。声をあげてくれるの)
何の得があるのか。
まるでわからなかった。
「『探偵』だからです」
兵士たちの魔法の光に照らされながら、ミルは正面から私を見据えていた。瞳には、ふるえながらも揺るがない強さがあった。
(たんてい)
思わずオウム返しに答える。
「僕は――遠い国から流れてきたんです。そこにあった仕事です」
聞いたこともない言葉。
「探るもの。偵うもの。ウソを見破り、真実を見つける仕事です」
(お役目ということ?)
「そんなカッコつけたもんじゃないです」
彼は小さく自嘲気味に首を振った。
「僕もあなたと同じです。あいつらのウソが許せない。ぶん殴ってやりたい。ムカついて、ガマンならなかったんです」
(――――わかった)
「え?」
(教えて。探偵。
どうやるの。
あなたのやり方を教えて。
言いたいことが山ほどある)
ミルはぽかんとした表情を浮かべたあと、力強くうなずいた。
「お望みのままに。探偵の作法、お教えしましょう。一発かましてやりましょう。まずは……」
「……ン? おい、何をしている!」
エゴールが目を見開いた。
私の足元に荒縄が落ちた。
解放感が全身を駆け抜けた。どうやったのかは私にすらわからないが、ミルが私の拘束をほどいてくれていた。ぱさりと、ミルの黒いケープが、私のほとんどむきだしの肩にかぶさった。
「なにって、見てのとおりですよ、殿下」
ミルが私から離れ、こうべを垂れる。
「ご覧ください。『悪役令嬢』のおでましです」
彼の宣言とともに私は顔を上げ、自由になった手で髪をはらう。ジャケットをはためかせながら右手を大きく振り上げる。
何から言うべきか、少し迷う。
すぐに決まる。
まずは、ためらいの精算からだ。
「殿下。私、本当にあなたのことが好きでした」
エゴールの顔を視界に入れた。
額に汗してうろたえて、ベルトランに頼りきりで、リリアンに鼻を伸ばしている情けない顔。
ひどく色あせて見えた。
――なんで、私が。
「婚約した日から、ずっと。聖女の旅の四年間もあなたを想わぬ日はなかった。なのに今の殿下は決めつけで私を断罪して……」
――なんで! こんな男のために、私が死んでやらなくちゃならないんだ!
私は、あの日々の記憶を思い出す。
あの長い旅。祈り、傷つき、呪いに立ち向かった日。
世界を救うためなんて、ぼやけた話なんかじゃない。
殿下に、殿下だけに、捧げたつもりだったんだ。
信じていたのに。
夢も努力も思い出も全部ウソにされた。砕かれて捨てられてバラまかれて踏みつけられた!
――ふざけるな。私は世界を救ったのよ!
私の四年間をバカにして。マヌケ面のエゴールも、ぶりっこのクソ女のリリアンも、娘を殺されたくせにアホ面のベルトランも、ギャーギャーと楽しそうに野次ってる平民どもも! どいつもこいつも許せないッ!
「私を『悪役令嬢』と呼ぶのなら、望むところ。悪役として言わせてもらいます」
ちらりとミルに目をやった。 探偵の作法。彼はこう言った。
「指先を、思いっきりつきつけて」と。
「リリアン・フォルナ男爵令嬢。そして、エゴール・エルディリオン第三王子。絶ッ対に許さない。大ウソつきのド腐れクソ野郎ども」
私の思い出。壊した責任を取らせてやる。
絶叫をあげさせてやる。
これまでの聖女としての私を、
王子を想っていた私を、
弱かった私を、何もかも叩き返してやる。
――ここからが私の逆襲だ!
「あなたたちを! 真犯人として、告発します!」
二人の顔色が青ざめる。
場の空気が、ぴしりと割れる音がした。
果たして、できるだろうか。
私に、やれるのだろうか。
エゴールとリリアンの『正義と愛の物語』に、打ち勝つことが。
「大丈夫。あなたはきっと向いている」
彼の声が、私の背筋に入り込んだ。
ぞくりと、ふるい立たされた。
「『悪役令嬢の物語』は、薄っぺらい愛になんか負けません」