第15話 エピローグ1:すべての陰謀から、あなたを護る
✦⋯⋯❖ 探偵 ❖⋯⋯✦
事件が終わってから、二カ月ほど経った。
僕は、馬車の中で、窓の外を眺めていた。
魔法の力で支えられた馬の脚は速く、坂も岩場もどんどん乗りこえながら軽やかに走っていく。
同乗しているのは、オフショルダーのブラックドレスを着た公爵令嬢。プラチナホワイトの髪、トワイライトブルーの瞳。肩に先端がふれるくらいのショートボブは毛先がきれいに切りそろえられ、大きく開かれたドレスの首元には控えめなネックレスが光る。頭には花房。
右手の人差し指には《聖女の指輪》。
――改め、《魔女の指輪》。
アルアリエル・ド・ラ・ルミエール。
僕は下座に座り、緊張しながら、上座に腰かける彼女をちらりと見やった。
――肩、出てる。鎖骨、きれい。首筋、なにそれ……。
直視できない。特に、大変豊かな胸元。うっかりでも目をやったら不敬罪で処される。これがこの世界の標準的なドレスというのだから恐れ入る。ショートボブの破壊力やばすぎる。いや、髪はリリアンのせいなんだけど。
――会話を。会話をしないと。身が持たない。
馬車はとても広いから窮屈さはないが、アルアリエルは僕のことなど気にとめずに本のページをめくっている。背表紙には『姫と修道士の恋歌』。たぶんロマンスものだ。
こちらにも買ったばかりの娯楽小説があるので、退屈はせずに済んだ。古城の幽霊をテーマにした怪奇もの。この世界、文字を読める平民は珍しくない。町には大衆向けの青本を扱う本屋もある。ミステリー小説が生まれていないのは残念だが。
この世界の文化水準は、地球の歴史でいえばおよそ十七世紀後半にあたる。『シンデレラ』を思わせる、ひらひらのドレスと舞踏会の世界。帆船が海を渡り、新聞が出回る世界。ただし、魔法がある代わりに、火薬は流通していない。だから銃も大砲もなく、武器は剣や弓、そして魔道具が主流だ。
そして、この国では、フランス王国のブルボン朝をなぞるかのように、たったひとりの女王による『絶対王政』が敷かれている。僕たちが打倒したのは、そんな恐るべき女王の息子。第三王子エゴールだった。
❖ ―― ♔ ―― ❖
――あの『夜』。
あの、アルアリエルの〈悪逆の魔法〉による〈全軍指揮〉。
星空の雨がごとき魔法の大爆撃は、エゴールを破壊した。
それはもう、ていねいに心をこめて。
ほんの十数秒のことだった。
終わった跡には黒焦げのクレーター。
全裸の禿げた男が膝をついていた。
髪も服も持ち物もほぼすべて消し飛んでいた。
即死威力の魔法が、薄皮一枚隔てて地面に炸裂し続けたのだ。背骨を絞め上げられるような死の恐怖を、彼は何度も味わわされた。
何度も――何度も、何度も、何度も。
結果、エゴールはカスカスに乾ききった枯れ木のようになっていた。魔法三原則『どんな魔法も《魔法の道具》には効かない』により、《王族の紋章》と《黄金の宝鍵》だけが傷一つないままに転がっていたが、アルアリエルに操作された兵士の一人が、魔力の通っていない手斧で叩き壊してしまった。
で、完全決着を見届けた僕はどうしたかというと……逃げた。
平民にすぎない僕がここまでにやらかしたことは、どれもこれも一発アウトのフルコンボ。
王子の判決に異を唱える不敬罪。
伯爵配下の兵士たちへの暴行罪。
公爵令嬢を人質にしての脅迫罪。
真犯人がつかまろうが僕が死刑なのは変わりないと思った。だから、逃げた。
けど、十日ほど逃げ隠れしたあと、思い直した。
この世界での僕の家族に、追及が行くかもしれないと。
僕は野宿しながら、誰とも縁のない名もなき罪人として自首しようと決めた。ベルトランは、くみ取ってくれると思った。
恐怖と後悔のあまり夜通し泣きまくった。
だが翌朝、伯爵邸に戻った僕に、門兵は言った。なんのことだ、と。知らない、と。あの日、僕が蹴り倒してしまった兵士だった。彼は頭と首についたアザを指して、模擬戦で負けてケガをしたと言い切った。
「やったのはたぶん、お前の知り合いだろう。うん、そうに違いない」
兵士は明後日の方角を向きながら、ぶっきらぼうに言った。
「伝えておいてくれ。いい腕だった。やるじゃないか。伯爵からも伝言がある。礼を言うと」
わかったらさっさと帰れ、原因不明の竜巻があって片付けに追われていると、追い返された。
町に戻り、話を聞いて回ってみて、状況がわかってきた。どうやら、公爵家と王家の間で話し合いがあったようだ。アルアリエル公開処刑などという蛮行はすべてなかったことにされていた。殺人の容疑をかけられたものの、調査によって疑いが晴れた……と。人々の口を封じきれるものではないが、国家は、女王陛下は、公開処刑の話題をすべて無視することに決めた。
結果、僕はあの日、何の罪も犯していないことになった。
状況がリセットされ、正当な裁きが執行される。エゴールとリリアンは王都に連行された。伯爵令嬢殺害の罪に問われることになる。いくら第三王子といえども無罪放免などありえず、何らかの建前はつくだろうが、人前に出てくることは二度とないだろう。リリアンはもはや語るに及ばず。
かくして、事件は解決した。
あの方にはもう二度と会うこともないと思っていた。
……ミル。私がなんで怒っているかわかる? 感謝すら言えていなかったのに。あなたのような優秀な人、逃がすわけがないでしょう?
はい。
完全に、考えが甘かったです。
❖ ―― ♔ ―― ❖
「見えてきたわ、ミル。あれが大宮殿よ」
回想から我に返ると、視界に入ってきたのは、信じられないほど巨大な城だった。
城どころか、もはや街だった。あまりにも大きすぎて全体像がよくわからない。純白をベースに、青と金のアクセントカラー。ブランシュ・エルディリオン女王陛下が住まう王都中央大宮殿――圧倒される光景だった。
「正直なところ、僕、実感が湧きません」
日常に戻って異世界転生ライフに悪戦苦闘していた僕を、アルアリエルが訪ねてきた。
用件は耳を疑うようなものだった。
僕を、公爵家の『一代限りの騎士』にしたいと。
あの日、僕は殺人事件解決に現地調査員として協力したことになっていた。その功績によるものだ。僕が生きている間のみ有効で、子孫には継承できない。でも、平民の身からすれば破格の栄誉だ。
「改めて、助けてくれてありがとう。ミル」
彼女は言った。
「それに、私のお願いについても。即答してくれるなんて思わなかった」
本題はここからだ。
僕に、特別な役職を用意したいという。
アルアリエルは現在、公爵領ではなく王都中央大宮殿に居を置いている。
彼女一人に限らない。この国の上級貴族のほとんどは、少しでもブランシュ女王のそばにいるために宮殿に住み込み、政治や駆け引きや舞踏会の日々を送っている。
領地の運営なんてだいたい行政官任せだ。この国の上級貴族にとって何よりも大事なのは、見栄と陰謀のパワーゲームで華麗に生き残ること。
前世でいえばヴェルサイユ宮殿に酷似した、豪奢で過酷なワンダーランド。
宮殿内は女王に謁見を求める貴族、外国からの使節、請願者、使用人や出入りの商人、観光客まで含め、一万にも及ぶ人々が入り乱れている。
――彼女は今後も、狙われる。
大宮殿に、アルアリエルをやっかむ貴族や魔法使いは多いだろう。高価な宝物をねらう盗人も《魔女の指輪》を狙うだろう。何より、いくら極悪人とはいえ、息子を奪われた女王陛下がどう思うだろうか。
だからこそ、僕の探偵としての能力を、今後も頼りにしたいのだという。
アルアリエルの生命と尊厳を護りぬく。
調査力と推理力を駆使し、お姫様を護る。
そのための、たった一人の騎士。
職名は『探偵騎士』。
話を聞いただけで、高揚感を全身が包んだ。
――この世界でも探偵ができるなんて。
数日前、僕のもとを訪ねたアルアリエルに説明を受けた時、僕は二つ返事で引き受けることに決めた。この世界、十六ともなれば働きに出る年齢だ。父も快く見送ってくれた。僕は前世の記憶を思い出しこそしたが、あくまでもこの世界の人間だ。独り立ちを親に祝ってもらえるのは素直に誇らしかった。
「ふふふ」
アルアリエルはおかしそうに笑った。
「危険な仕事だと、伝えたつもりですけれど」
「望むところです。……ただ、聞きたいことがあります」
不満などあるはずがない。
ただ、疑問は残っていた。
聞くべきかは、迷いがあった。
でも、確かめるべきだと思った。
「どうして、狙われると分かっていて、大宮殿での暮らしを選ぶんです? 逃げちゃってもいいんじゃないですか? 僕、そっち方面でもお役に立てますよ。女王陛下への言いわけが必要なら適当にいい感じのやつを……」
「あなたの優しさは嬉しい。でも、それはできない」
「どうしてです? あなたの〈悪逆の魔法〉があれば、国を相手にだってできそうだ」
「ううん。今回のことで思い知ったわ。私はかつての聖女の旅で、『聖女』というブランドに守られているだけだった。だって私が失敗したら国が丸ごと滅んでしまうもの。みんなが、私を大切にしてくれた」
でも、と、アルアリエルは言う。
「私は使命を果たしてしまった。もう私は用済み」
「そんなこと……」
「そうでしょう? あなたは推理できるはず」
言葉に詰まる。反論できなかった。
僕も理解できてしまった。
もう――彼女がどうなっても、誰も困らない。
「それにね」
アルアリエルは静かに首を振った。
「〈悪逆の魔法〉は万能ではないの。あの夜、私がエゴールを圧倒できたのは、あくまで奇襲だったから。そして、彼が油断しきっていたからよ」
彼女は右手の人差し指、《魔女の指輪》にそっと左手を重ねた。
「この《指輪》は、一日に一〇分間しか使えないという制約がある。エゴールとの対決は、その短い時間の中ですべてを終わらせるための、危うい綱渡りだったの」
「一〇分……!?」
短すぎる。何らかの制限はあるだろうと思っていたが、あまりにも。
「二分を五回に小分けにするなどはできるけどね。国や軍隊を相手にするような、大それたことはできない。世界の果てにある『呪い』を打ち払う程度の魔法よ」
――改めて戦慄した。〈全軍指揮〉をあやつるアルアリエルは、残り時間を意識しているようには全く見えなかった。自分の魔法の脆弱性を一切悟らせず、完全無欠の最強無双を演じきったのだ。リリアン相手の推理ショーといい、やはりこの人は……。
「何事も使い方次第よ。大抵の相手には負けない。私はそうやって世界の果てで生き残ってきた。でも、悪意をもった人間は、時として魔物をも上回る。それがよく分かったの」
――本当に、ほかに手はないのか。
公爵領に引きこもる? ダメだ。エゴールやベルトランのような窓際族でもない限り、絶対王政下の上級貴族は宮殿暮らしが大原則。まして公爵というのは国の超トップ層だ。父母や家臣が宮殿にいる以上、適齢期の令嬢たるアルアリエルに、そんな勝手は許されない。
何もかも捨てて、身分を隠して辺境で暮らす? 修道院に入る? これもダメだ。「聖女の名声」と「悪役令嬢の烙印」で、彼女の存在は国じゅうに知れ渡っている。絶世の美貌、あふれる魔力、元聖女という経歴。悪党どもにとってこれほどの獲物はいない。彼女に隠遁生活という選択肢はない。寝込みを襲われて奴隷にされる未来しか見えない。第一、この世界の修道院は……。
いっそ、外国にでも逃れるか? 無理だ。リスクが高すぎる。国宝級の《指輪》を持つ彼女を、他国が素直に保護してくれる保証なんてどこにもない。この国が彼女を外国にすんなり逃がすとも思えない。
――詰んでるじゃないか。
「だから、王都中央大宮殿に戻るしかないの。もしエゴールが私と結婚してくれたなら、彼の領地でのんびり暮らす選択肢があったかもしれないけれど」
僕の思考を断ち切るように、アルアリエルは言った。窓の外の大宮殿を見つめながら。
「女王陛下の領域に入ることで、不届き者が簡単に手出しできないようにする。私が平穏に暮らせる可能性があるのは、衛兵たちがたくさんいて、公爵家の守りもある、あの鳥かごの中だけなのよ」
「アルアリエルさま……」
僕は反論できなかった。命を狙う者は多いが、外よりは護衛も情報も揃う。皮肉なことに、最も危険で最も安全な場所。
「でもね。私は絶望しないの。あなたさえ来てくれるなら」
何でも持ってるせいで、どこにも行けない元聖女。
それは絶望にしか思えなかった。けれど。
「ねえミル。私、こう見えて、負けず嫌いなんです」
――うん。知ってる。
「聖女の旅に出て、必死に使命を果たして、何が残ったと思う? 悪評と裏切りと処刑台。ふざけてるでしょう?」
瞬間、陽光が車窓から差し込んだ。
「だから、決めたの。私は勝ち抜き、生き残る。そのために『悪役』を選ぶ。もう誰かのためには戦わない」
アルアリエルの髪がきらめいた。プラチナホワイトのそれは光を照り返し、角度によって複雑に色合いを変える。虹のように、あるいは万華鏡のように。
「私は四年もかけて世界を救ったのよ? 幸せになる権利があるはずだわ。あの宮殿でなら、うまくやればどんな贅沢な暮らしもできる。私を食いものにしようとする連中を全員叩き潰し、快適な人生を手に入れる。私の平穏と、尊厳と、幸福を」
アルアリエルは、あの時のように。
必死に。懸命に。心のかぎり。
焼けつくほどに、まばゆく微笑んだ。
「これは、ただのエゴ。
でも。それでも、お願いしたいの」
僕は彼女の願いを理解した。
「どうか私を守ってほしい。
あなたにしか頼めない。
あなたにしか、頼みたくない」
――きれいだ。
「私はルミエール公爵家の令嬢で、稀代の魔法使い。あなたが望むままにどんな報酬でも用意するわ。だから……」
僕は、うなずいた。
だって、僕は、この『悪意』に惹かれたのだから。
王子と戦うと決意してくれた、あの時。
絶望から立ち上がる艶姿。
すべてのウソをひっくり返した逆襲のカリスマ。
僕は――気付いた。
「どうか、私のものになって」
僕は、あの姿に、惚れてしまったのだと。
「アルアリエルさま。あなたの期待に応えます」
悟られないように目を逸らして頭を下げた。
「あなたがどんなに悪役と呼ばれようとも。
どんな悪党が、あなたを陥れようとしても。
すべての陰謀から、あなたを護ります。必ず」
かつて、僕にとっての探偵は、誰のためでもない、ただひとつの客観的真実を見つけ出すものだった。探偵としての使命は、間違いをただし、正しい状態にすることだと思っていた。
――あなたの無罪証明は難しい。
――やるべきは、あの女の有罪証明です。
二十一世紀の僕は、こんなやり方はしなかった。けれど、これからはもう違う。僕にとっての真実とは彼女だ。目の前の少女は、僕が護りたいと心から願った依頼人。
「ありがとう。よろしくね、私の騎士」
僕は、何だってすると決めた。
❖ ―― ♔ ―― ❖
無骨なしつらえの空間で、儀式はたいへん厳かに行われた。室内には古めかしい武具や盾が誇らしげに飾られている。重そうなマントに身を包んだアルアリエルの父、ルミエール公爵が、僕を騎士に任命すると宣言した。剣の刀身で僕の肩にそっとふれる。
「なにか、望むことはありますか」
公爵は、物腰の柔らかさと気品を兼ね備えた人だった。
僕は深く頭を下げた。
「許されるのならば。一代限りなのは承知しています。けれど『家名』の名乗りを、お許しいただきたいのです」
「構いませんよ。名誉とはそうしたもの。では、どんな名を望みますか?」
「アシノ。ミル・アシノ。今後、そう名乗りたいと思います」
「変わった名前ですね。なにか由来が?」
かつての僕の名前だ。
葦乃 眸。
あまりにも遥か遠い世界、二十一世紀の日本で、道半ばで死んだ少年探偵の名前。
人間とは考える葦である。
好きな名前だった。
だから、ここでも名乗りたいと思った。
たとえ、かつてと在り方が異なるとしても。
少年探偵としての僕は死んで。
『悪役令嬢の探偵騎士』となった。