第8話 空白とは
夜がすっかり更けた頃、ラドリーの部屋の扉が乱雑に叩かれた。
「ラド、今夜はちょっといい酒が手に入った。付き合え」
馴染みのある声に、ラドリーは短くため息をついた。
扉を開ける前にノブが勝手に回り、陽気な旧友——マイロが顔を覗かせる。
片手に酒瓶、もう一方には紙袋。中身は彼の好物、スパイスナッツだろう。
「……勝手に入るな、マイロ」
「だったら鍵をかけとけって。ほら、グラス出せ。今夜のはちょっと奮発したんだぜ」
マイロは慣れた手つきでソファに腰を下ろすと、袋からナッツを取り出し、卓上にグラスを二つ並べた。
その一連の動作には、長年の付き合いから生まれた気安さが滲んでいた。
かつてマイロは、ラドリーと共に戦場を駆けたハンターだった。
幾多の修羅場を潜り抜けたが、仲間の死を機に限界を悟り、命を懸ける生き方に終止符を打った。今は街の警備員として穏やかな日々を送っている。
引退を決めたとき、マイロはラドリーにも同じ道を勧めた。
だが、ラドリーはただ静かに首を横に振っただけだった。
それ以来、マイロは時折ラドリーの部屋を訪れるようになった。
無事な顔を見るだけで、心が安らいだ。
かつて背中を預け合った絆は、戦場を離れても消えることはなかった。
「ったく……」
ラドリーが肩をすくめ、ソファの隅へ視線を移す。
そこには白い猫型の自動人形——ソラが、小さく身体を丸めて座っていた。
しっぽの先を揺らしながら、まっすぐにマイロを見つめている。
「……こいつが、噂の子猫ちゃんか」
マイロの目が細くなる。
そこには好奇心と、ほんの僅かな警戒心が混じっていた。
「ボク、ソラ。こんばんは!」
ソラが明るく挨拶をする。
その声は機械とは思えないほど自然で、柔らかく、温もりを感じさせた。
マイロはわずかに眉を上げ、やがて小さく笑う。
「おっと、こいつは手強いな。人懐っこいタイプか。俺はマイロ、よろしくな。で、その名前は誰がつけたんだ?」
「わからない。でもたぶん、やさしい人がくれたの。空の色の瞳だからソラ。空っぽのソラ。『空っぽ』だから、『楽しい』をいっぱい詰め込める、素敵な名前なんだって」
「へぇ……詩人だな」
マイロが面白そうにラドリーを見やる。
ラドリーはそれに応えず、静かにグラスを傾けた。
マイロは再びソラをじっと見つめる。
毛並み、瞳、筋肉のわずかな動き——どれを取っても、生きた動物そのものだ。
ただの“猫”という言葉では、とても表現しきれない。
「……まったく、信じられねぇ。これが人工物とはな」
ソラは小首を傾げ、しっぽを揺らす。
「なにか変?」とでも言いたげな仕草だった。
「外見も動きも完璧だ。下手すりゃ人間より自然に見える」
ラドリーは黙って頷く。
マイロの目には、かつてハンターだった頃の鋭さが一瞬だけ戻っていた。
敵か味方かを即座に見極める、あの目だ。
「問題は……中身だな。最初から空っぽなのか、それとも消されたのか」
「……プロトコルが封印されてる。誰かが、かなり深い部分で意図的にやったらしい」
「となると、何もないんじゃなくて、何かが——隠されてるってわけか。……誰が、何のために?」
「見当もつかない。記録も性格制御も、すべて不明だ」
「じゃあ今のこいつは、完全に“素”の状態か。制御されていない、まっさらな存在ってことだな」
再びグラスが音を立て、沈黙が落ちる。
「……“空っぽ”って言葉も、ただの例えじゃないのかもな。名前の“空”と、身体の白。合わせて“空白”ってわけだ。つまり、こいつ自身が“空白”として意味を持たされてるのかもしれない」
ラドリーは応えず、静かに酒を飲む。
「でもさ、空白ってのは裏を返せば、何にでもなれるってことだ」
「……使い方次第か」
「そういうこと。もしこいつが戦闘AIベースだったとしたら……放っておくのは、起爆装置に手を触れずに置いておくのと同じだ。善にも悪にも、簡単に傾く」
ラドリーは自然とソラに目を向けた。
その白い毛並みには、今はただ——無垢さだけが宿っているように見えた。
「お前は、どう思ってるんだ?」
「……判断には、まだ材料が足りない」
「でも、気にしてるんだろ。いつものお前なら、厄介なもんはとっくに売り払ってるはずだ」
ラドリーは返す言葉を見つけられず、黙った。
そのとき、ソラがぽつりと呟いた。
「ボク……悪いもの、なのかな」
その声は柔らかかったが、部屋の空気を一変させた。
静かで、けれどどこか胸に残る音だった。
ラドリーの眉が僅かに動く。
だがすぐには答えない。明確な答えが、自分の中にまだなかったからだ。
代わりにマイロが口を開いた。
いつになく穏やかな声音だった。
「違うさ、ソラ。お前が悪いかどうかなんて、誰にも決められねぇ。それに空白ってのは、好きなもので埋めるためにあるんだ。絵を描く前のキャンバスみたいにな。お前が空っぽなら、これから何を詰め込むかが大事だ」
ソラは少し考え、それから微笑んだ。
「じゃあボク、甘いお菓子と、きれいな歌と、面白い冒険を詰め込むよ!」
マイロが笑う。
「そいつは楽しみだな。ラドリー、お前んとこの子猫ちゃん……このまま放っといたら、そのうち、この街ひっくり返すぞ」
ラドリーは肩の力を抜き、短く応じた。
「……分かってる」
そう言って、ソラの頭を軽く撫でる。
その耳はふにゃりと柔らかく、人工素材とは思えない、不思議な温もりがあった。
——手放すには、まだ早い。
そう思った自分に、ラドリーは内心で少し驚いていた。
マイロはそれを見て口角を上げる。
「随分と、お優しくなったな……変わってきたんじゃねぇか? お前も」
「……飲んだら帰れ」
ラドリーが目を逸らすと、マイロは笑ってグラスを掲げた。
「そういう不器用なところも含めて、分かってるさ。ただな、ラド……この子を空白のままで終わらせるな。お前がそうしない限り、この子はきっと、何かになる」
その言葉にラドリーは何も言わなかった。
ただ静かにグラスを手に取り、窓の外へと目を向ける。
——空白。
何もないということは、何でも描けるということだ。
夜空は高く、澄み渡っていた。
満ちた月が、黒の中にぽっかりと“空白”を描いている。
その下で、真っ白な猫が心地よさそうに丸くなっていた。