表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
猫、猫、猫!  作者: 綾白
第2章 満たすもの
8/40

第8話 空白とは

 夜がすっかり更けた頃、ラドリーの部屋の扉が乱雑に叩かれた。


「ラド、今夜はちょっといい酒が手に入った。付き合え」


 馴染みのある声に、ラドリーは短くため息をついた。


 扉を開ける前にノブが勝手に回り、陽気な旧友——マイロが顔を覗かせる。

 片手に酒瓶、もう一方には紙袋。中身は彼の好物、スパイスナッツだろう。


「……勝手に入るな、マイロ」


「だったら鍵をかけとけって。ほら、グラス出せ。今夜のはちょっと奮発したんだぜ」


 マイロは慣れた手つきでソファに腰を下ろすと、袋からナッツを取り出し、卓上にグラスを二つ並べた。

 その一連の動作には、長年の付き合いから生まれた気安さが滲んでいた。


 かつてマイロは、ラドリーと共に戦場を駆けたハンターだった。

 幾多の修羅場を潜り抜けたが、仲間の死を機に限界を悟り、命を懸ける生き方に終止符を打った。今は街の警備員として穏やかな日々を送っている。


 引退を決めたとき、マイロはラドリーにも同じ道を勧めた。

 だが、ラドリーはただ静かに首を横に振っただけだった。


 それ以来、マイロは時折ラドリーの部屋を訪れるようになった。

 無事な顔を見るだけで、心が安らいだ。

 かつて背中を預け合った絆は、戦場を離れても消えることはなかった。

 

「ったく……」


 ラドリーが肩をすくめ、ソファの隅へ視線を移す。


 そこには白い猫型の自動人形——ソラが、小さく身体を丸めて座っていた。

 しっぽの先を揺らしながら、まっすぐにマイロを見つめている。


「……こいつが、噂の子猫ちゃんか」


 マイロの目が細くなる。

 そこには好奇心と、ほんの僅かな警戒心が混じっていた。


「ボク、ソラ。こんばんは!」


 ソラが明るく挨拶をする。

 その声は機械とは思えないほど自然で、柔らかく、温もりを感じさせた。


 マイロはわずかに眉を上げ、やがて小さく笑う。


「おっと、こいつは手強いな。人懐っこいタイプか。俺はマイロ、よろしくな。で、その名前は誰がつけたんだ?」


「わからない。でもたぶん、やさしい人がくれたの。空の色の瞳だからソラ。空っぽのソラ。『空っぽ』だから、『楽しい』をいっぱい詰め込める、素敵な名前なんだって」


「へぇ……詩人だな」


 マイロが面白そうにラドリーを見やる。

 ラドリーはそれに応えず、静かにグラスを傾けた。

 マイロは再びソラをじっと見つめる。


 毛並み、瞳、筋肉のわずかな動き——どれを取っても、生きた動物そのものだ。

 ただの“猫”という言葉では、とても表現しきれない。


「……まったく、信じられねぇ。これが人工物とはな」


 ソラは小首を傾げ、しっぽを揺らす。

 「なにか変?」とでも言いたげな仕草だった。


「外見も動きも完璧だ。下手すりゃ人間より自然に見える」


 ラドリーは黙って頷く。


 マイロの目には、かつてハンターだった頃の鋭さが一瞬だけ戻っていた。

 敵か味方かを即座に見極める、あの目だ。


「問題は……中身だな。最初から空っぽなのか、それとも消されたのか」


「……プロトコルが封印されてる。誰かが、かなり深い部分で意図的にやったらしい」


「となると、何もないんじゃなくて、何かが——隠されてるってわけか。……誰が、何のために?」


「見当もつかない。記録も性格制御も、すべて不明だ」


「じゃあ今のこいつは、完全に“素”の状態か。制御されていない、まっさらな存在ってことだな」


 再びグラスが音を立て、沈黙が落ちる。


「……“空っぽ”って言葉も、ただの例えじゃないのかもな。名前の“空”と、身体の白。合わせて“空白”ってわけだ。つまり、こいつ自身が“空白”として意味を持たされてるのかもしれない」


 ラドリーは応えず、静かに酒を飲む。


「でもさ、空白ってのは裏を返せば、何にでもなれるってことだ」


「……使い方次第か」


「そういうこと。もしこいつが戦闘AIベースだったとしたら……放っておくのは、起爆装置に手を触れずに置いておくのと同じだ。善にも悪にも、簡単に傾く」


 ラドリーは自然とソラに目を向けた。

 その白い毛並みには、今はただ——無垢さだけが宿っているように見えた。


「お前は、どう思ってるんだ?」


「……判断には、まだ材料が足りない」


「でも、気にしてるんだろ。いつものお前なら、厄介なもんはとっくに売り払ってるはずだ」


 ラドリーは返す言葉を見つけられず、黙った。

 そのとき、ソラがぽつりと呟いた。


「ボク……悪いもの、なのかな」


 その声は柔らかかったが、部屋の空気を一変させた。

 静かで、けれどどこか胸に残る音だった。


 ラドリーの眉が僅かに動く。

 だがすぐには答えない。明確な答えが、自分の中にまだなかったからだ。


 代わりにマイロが口を開いた。

 いつになく穏やかな声音だった。


「違うさ、ソラ。お前が悪いかどうかなんて、誰にも決められねぇ。それに空白ってのは、好きなもので埋めるためにあるんだ。絵を描く前のキャンバスみたいにな。お前が空っぽなら、これから何を詰め込むかが大事だ」


 ソラは少し考え、それから微笑んだ。


「じゃあボク、甘いお菓子と、きれいな歌と、面白い冒険を詰め込むよ!」


 マイロが笑う。


「そいつは楽しみだな。ラドリー、お前んとこの子猫ちゃん……このまま放っといたら、そのうち、この街ひっくり返すぞ」


 ラドリーは肩の力を抜き、短く応じた。


「……分かってる」


 そう言って、ソラの頭を軽く撫でる。

 その耳はふにゃりと柔らかく、人工素材とは思えない、不思議な温もりがあった。


 ——手放すには、まだ早い。


 そう思った自分に、ラドリーは内心で少し驚いていた。


 マイロはそれを見て口角を上げる。


「随分と、お優しくなったな……変わってきたんじゃねぇか? お前も」


「……飲んだら帰れ」


 ラドリーが目を逸らすと、マイロは笑ってグラスを掲げた。


「そういう不器用なところも含めて、分かってるさ。ただな、ラド……この子を空白のままで終わらせるな。お前がそうしない限り、この子はきっと、何かになる」


 その言葉にラドリーは何も言わなかった。

 ただ静かにグラスを手に取り、窓の外へと目を向ける。


 ——空白。


 何もないということは、何でも描けるということだ。


 夜空は高く、澄み渡っていた。

 満ちた月が、黒の中にぽっかりと“空白”を描いている。


 その下で、真っ白な猫が心地よさそうに丸くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ