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猫、猫、猫!  作者: 綾白
第1章 優しい嘘
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第7話 ハンターの勘と猫の空っぽ 

 工房を出た後、ふたりの間に言葉はなかった。

 ソラはさっきまでの溌剌とした様子が嘘のように、ラドリーの少し後ろを、まるで影のようについて歩いていた。


 間に流れる空気は重く、沈黙の厚みが妙に心に引っかかる。

 ラドリーはふと、自分の足取りが、いつもより重たいことに気づいた。


 たかが機械の人形だ。

 しかも、ついさっき拾ったばかりの。


 情などない。あるわけがない。


 なのに、どうしてこんなに落ち着かないのか。

 訳の分からない苛立ちが、胸を掻き乱す。


 その時——背後で気配が止まり、思わず振り返る。


 ソラが立ち止まっていた。

 鼻をひくひくと動かして、何かの匂いを嗅いでいる。


「……甘い匂い」


 言われてみれば、確かに。


 すぐ先にある屋台から、香ばしく甘い香りが漂ってきていた。


 たい焼きの店だ。

 焼けた生地と、餡の湯気と、懐かしさを混ぜたような、ほっとする香り。


 ラドリーは気づけば言葉を口にしていた。


「食べるか?」


 ソラは顔を上げてラドリーを見た。

 何かを測るように、じっとその顔を見ている。


 その視線に、不意に「距離」を感じた。

 精緻な人形の(かんばせ)が、今はひどく無機的で遠く思える。


 ラドリーはその違和感を振り払うようにたい焼き屋へ向かい、ふたつ買った。

 ひとつをソラに差し出す。


「ほら、食えよ」


 だが、ソラは受け取らない。


「ボク……匂いと、ラドリーの顔で……お腹いっぱいになるから。ラドリーがボクの分も食べて」


 ラドリーは、たい焼きを持ったまま一瞬、手を止めた。


「バカなこと言ってないで、さっさと食っちまえ」


 ソラは微かに瞬きをした。

 そして、ぽつりと言葉を落とす。


「でも……食べたら、ボクの空っぽの中……何かが爆発しないかなって」


 その言葉に、ラドリーは返す言葉が出なかった。


 ふたりのあいだを風がすり抜けていく。

 甘い匂いと共に、沈黙がふたりを包んだ。


 ソラは目を伏せたまま続けた。


「ボク、ラドリーに迷惑かけたくない。……壊れちゃうなら、ずっと空っぽのままでいい」


 その声は小さくて、けれど、耳に染みるように真っ直ぐだった。

 ラドリーは何も言えずにただ、見つめることしかできなかった。


 ──壊れちゃうなら、ずっと空っぽのままでいい。


 それはどこか、自分自身にも重なる響きだった。


 空っぽの中に、何かを入れるのが怖かった。

 けれどそれは、ずっとひとりだった証でもあった。


 ──こいつは今、本当に怯えている。


 ラドリーは、自分の中にある苛立ちが、ソラの無垢さに触れて、少しずつ融けていくのを感じていた。


 ふっと息をつき、空を仰ぐ。


 空は夕暮れに染まり始めていた。

 夜の黒に引きずり込まれるように、視界からゆっくりと水色が消えていく。


「……大丈夫だ」


 ソラが顔を上げる。

 ラドリーはその水色の瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。


「俺の——ハンターの勘が言ってる。お前の中にあるものは悪いもんじゃない。きっと……いいもんだ」


 その言葉は、計算でも論理でもなかった。

 ただソラを安心させたくて、気づけば口をついて出ていた。


 柄にもないことをしている自覚はあった。


 無責任で、何の根拠もない——嘘。


 だが、不思議と後悔はなかった。


 たとえそれが、何の意味もない空っぽな言葉だったとしても——

 今だけは、その嘘を真実にしてやりたいと思った。


 ソラが目を丸くして、ラドリーを見上げた。


「……ほんとに?」


「ああ。本当だ」


「ラドリーのハンターの勘って……すごいの?」


 一瞬答えに詰まりかけたが、ここまで来たらもう引けない。

 ラドリーは胸を張るようにして、堂々と言い切った。


「当たり前だ」


 すると、ソラの顔がぱあっと明るくなった。

 まるで曇天を割って光が射すように。


 その眩しさにラドリーは目を逸らしながら、たい焼きを押しつけるように渡した。


「……じゃあ、食べてみる」


 そう言ってソラは受け取ったそれを両手で持ち、そっと口に運んだ。

 生地の香ばしさと餡の甘さに、目を細めて笑う。


「おいしい……」


 その笑顔に、ラドリーは気づかぬうちに、ほんの少しだけ肩の力を抜いていた。


 たったひとつの嘘が、誰かの心を救うこともある。

 そう思えたのは——多分、生まれて初めてだった。


 ——売れば大金になる。


 それは今も変わらない事実だ。

 だが、それで本当に豊かに生きられるのか? 


 その思考は、ソラの明るい声に吹き飛ばされた。


「ねぇラドリー。ボク、爆発しなかった! ラドリーの勘、すっごいね!!」


 ふっと、ラドリーの口元が緩んだ。


「ラドリー、ちょっと笑った?」


「……笑ってない」


「うそ。ラドリー笑うと、かっこいいね!」


「……いいから、帰るぞ」


 ラドリーは素っ気なく言い、くるりと背を向ける。

 しかし、その足取りは軽い。


 ソラは嬉しそうにその後を追った。


 夕焼けの空は、焼きたてのたい焼きのように暖かく、優しい金色に染まっていた。

評価やブクマなど、そっと残していただけると嬉しいです。

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