第7話 ハンターの勘と猫の空っぽ
工房を出た後、ふたりの間に言葉はなかった。
ソラはさっきまでの溌剌とした様子が嘘のように、ラドリーの少し後ろを、まるで影のようについて歩いていた。
間に流れる空気は重く、沈黙の厚みが妙に心に引っかかる。
ラドリーはふと、自分の足取りが、いつもより重たいことに気づいた。
たかが機械の人形だ。
しかも、ついさっき拾ったばかりの。
情などない。あるわけがない。
なのに、どうしてこんなに落ち着かないのか。
訳の分からない苛立ちが、胸を掻き乱す。
その時——背後で気配が止まり、思わず振り返る。
ソラが立ち止まっていた。
鼻をひくひくと動かして、何かの匂いを嗅いでいる。
「……甘い匂い」
言われてみれば、確かに。
すぐ先にある屋台から、香ばしく甘い香りが漂ってきていた。
たい焼きの店だ。
焼けた生地と、餡の湯気と、懐かしさを混ぜたような、ほっとする香り。
ラドリーは気づけば言葉を口にしていた。
「食べるか?」
ソラは顔を上げてラドリーを見た。
何かを測るように、じっとその顔を見ている。
その視線に、不意に「距離」を感じた。
精緻な人形の顔が、今はひどく無機的で遠く思える。
ラドリーはその違和感を振り払うようにたい焼き屋へ向かい、ふたつ買った。
ひとつをソラに差し出す。
「ほら、食えよ」
だが、ソラは受け取らない。
「ボク……匂いと、ラドリーの顔で……お腹いっぱいになるから。ラドリーがボクの分も食べて」
ラドリーは、たい焼きを持ったまま一瞬、手を止めた。
「バカなこと言ってないで、さっさと食っちまえ」
ソラは微かに瞬きをした。
そして、ぽつりと言葉を落とす。
「でも……食べたら、ボクの空っぽの中……何かが爆発しないかなって」
その言葉に、ラドリーは返す言葉が出なかった。
ふたりのあいだを風がすり抜けていく。
甘い匂いと共に、沈黙がふたりを包んだ。
ソラは目を伏せたまま続けた。
「ボク、ラドリーに迷惑かけたくない。……壊れちゃうなら、ずっと空っぽのままでいい」
その声は小さくて、けれど、耳に染みるように真っ直ぐだった。
ラドリーは何も言えずにただ、見つめることしかできなかった。
──壊れちゃうなら、ずっと空っぽのままでいい。
それはどこか、自分自身にも重なる響きだった。
空っぽの中に、何かを入れるのが怖かった。
けれどそれは、ずっとひとりだった証でもあった。
──こいつは今、本当に怯えている。
ラドリーは、自分の中にある苛立ちが、ソラの無垢さに触れて、少しずつ融けていくのを感じていた。
ふっと息をつき、空を仰ぐ。
空は夕暮れに染まり始めていた。
夜の黒に引きずり込まれるように、視界からゆっくりと水色が消えていく。
「……大丈夫だ」
ソラが顔を上げる。
ラドリーはその水色の瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。
「俺の——ハンターの勘が言ってる。お前の中にあるものは悪いもんじゃない。きっと……いいもんだ」
その言葉は、計算でも論理でもなかった。
ただソラを安心させたくて、気づけば口をついて出ていた。
柄にもないことをしている自覚はあった。
無責任で、何の根拠もない——嘘。
だが、不思議と後悔はなかった。
たとえそれが、何の意味もない空っぽな言葉だったとしても——
今だけは、その嘘を真実にしてやりたいと思った。
ソラが目を丸くして、ラドリーを見上げた。
「……ほんとに?」
「ああ。本当だ」
「ラドリーのハンターの勘って……すごいの?」
一瞬答えに詰まりかけたが、ここまで来たらもう引けない。
ラドリーは胸を張るようにして、堂々と言い切った。
「当たり前だ」
すると、ソラの顔がぱあっと明るくなった。
まるで曇天を割って光が射すように。
その眩しさにラドリーは目を逸らしながら、たい焼きを押しつけるように渡した。
「……じゃあ、食べてみる」
そう言ってソラは受け取ったそれを両手で持ち、そっと口に運んだ。
生地の香ばしさと餡の甘さに、目を細めて笑う。
「おいしい……」
その笑顔に、ラドリーは気づかぬうちに、ほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
たったひとつの嘘が、誰かの心を救うこともある。
そう思えたのは——多分、生まれて初めてだった。
——売れば大金になる。
それは今も変わらない事実だ。
だが、それで本当に豊かに生きられるのか?
その思考は、ソラの明るい声に吹き飛ばされた。
「ねぇラドリー。ボク、爆発しなかった! ラドリーの勘、すっごいね!!」
ふっと、ラドリーの口元が緩んだ。
「ラドリー、ちょっと笑った?」
「……笑ってない」
「うそ。ラドリー笑うと、かっこいいね!」
「……いいから、帰るぞ」
ラドリーは素っ気なく言い、くるりと背を向ける。
しかし、その足取りは軽い。
ソラは嬉しそうにその後を追った。
夕焼けの空は、焼きたてのたい焼きのように暖かく、優しい金色に染まっていた。
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