第6話 空っぽの中の謎
ラドリーの声は、すぐにまた真面目なものへと戻った。
「こいつは自分が何者かを……忘れてる。記録がない。空っぽなんだ」
ナディアはふと、遠い目をした。
「……あんた、覚えてる? 昔、遺跡で拾ってきたポンコツMEOW-RONのこと。もう一度誰かに撫でられたい、なんて寝言みたいなこと言ってたやつ」
「覚えてる。止まる直前、ありがとうって言ってたな」
「稀にあるのよ、そういう個体。長く放置されたせいで記憶の断片が魂みたいに残る……って言えばロマンチックだけど。この子は違う。断片じゃない。何か確かなものがある」
ソラは小さく、しっぽの先を揺らしている。
「この子の中枢、プロテクトが何重にも掛けられてる。明らかに何かを封じてる。問題は——それが攻撃性である可能性を否定できないこと」
その言葉に、ソラがぴたりと動きを止めた。
耳を伏せ、不安そうにラドリーを見上げる。
「今のところは攻撃性の兆候はないわ。構成は防御特化。でも、もしそれが解除されたら? それこそが本来の目的だったら?」
ナディアの言葉に、ラドリーは短く目を閉じた。
「……つまり、暴走のリスクがあるってことか」
「可能性の話よ。でも、私は技術者だから言うの。これは、所有者不明の旧世界の未知のフルカスタム機。つまり——人類がかつて手放したもの。……その意味を忘れないで」
ラドリーは顎に手を添え、考え込むように眉間を寄せた。
「封印って……解除できるのか?」
「無理ね。外部アクセスからは一切遮断されてる。OSのコアレベルで暗号化されてるから、解除するには内部トリガーか正規のアンロックキーが要るわ。下手に触れば、自己崩壊プロトコルが起動しかねない」
「つまり、触るなってことか」
「そう。最悪、この工房ごと消し飛ぶわね」
その言葉の重さが、空気を凍らせる。
一瞬の沈黙。
やがて、ソラが震えるような声でつぶやいた。
「ボク……そんなに危ないの?」
その問いには、怯えよりも戸惑いが滲んでいた。
自分という存在の輪郭がぐらつく音が、ソラの胸の奥で軋んでいた。
ナディアがゆっくりと視線を落とし、声の調子を和らげた。
「違うわ。ソラが危険な存在なんじゃないの。……ただ、あなたの中に何かが眠っているかもしれない。それが、ほんの少し気になるだけ」
一呼吸置いて続ける。
「あなた自身は無垢なままよ。今もずっと」
ソラは微かに瞳を伏せた。
揺れた尾が床を打ち、細い声が漏れる。
「ねぇ、ボク……ここにいても、いいのかな……?」
その問いは、まるで霧の中に消えるようだった。
誰にも届かない、誰にも応えられない、痛みだけを残す言葉。
機械仕掛けの人形のはずなのに、その声には人間以上の脆さが滲んでいた。
静寂——
ナディアは掛ける言葉を見つけられず、胸が苦しくなった。
視線が自然とラドリーへと向かう。
だがラドリーもまた、言葉を持たなかった。
ただ静かに、ソラを見つめていた。
——売るために拾った。
それだけだった。
けれど今、それ以外の何かが、胸の奥で膨らみ始めていた。
それが後悔なのか、同情なのかは、自分でも分からなかった。
ただ、目の前の存在が自分と同じ空っぽを抱えていることだけは分かっていた。
静けさが、じわじわと工房を蝕んでいく。
換気ファンの低いうなり声だけが、遠くで続いていた。
それすらも、やがて薄れていく。
色も、音も、熱も——世界から剥がれ落ちていくようだった。
空っぽ——
ソラは自分の胸の奥に、ぽっかりと空いたその穴を改めて見つめていた。
空虚。未知。封印。
自分が、誰なのか。
どこから来て、どこへ向かうのか。
何ひとつ分からない。
居場所が、どこにもなかった。
あれほど心を弾ませた街の灯りも、今や厚いガラスの向こう側。
手の届かない幻のように、遠かった。
すぐそばにいるはずのラドリーでさえ、途方もなく遠く感じた。
世界が冷たく、静かに沈んでいく。
まるで深い夜の底——夜明け前の——一番暗い闇に迷い込んだかのように。