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猫、猫、猫!──機械の猫に心を与えるのは罪ですか?  作者: 綾白
第7章 選ぶということ

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第36話 それぞれの選択

 ラドリーは何も言わずに、ただ立ち尽くしていた。

 何かが胸の奥で、重く深く沈んでいた。


 その静けさの中で、ソラが戸惑うように口を開く。

 そのひと言を声にする前に、ほんのわずかに間があった。


 ソラは目を伏せ、言葉を選ぶように——いや、覚悟を決めるように、小さく言った。


「……売ってもいいよ?」


 その言葉に、ラドリーは心臓が一瞬止まった気がした。


「は?」


 反射的にそう返した。

 理解が追いつかないのではなく、理解したくなかった。


「だって、ラドリーが困ってたら……ボク、役に立ちたい。ラドリーはボクに、いっぱい、『楽しい』をくれたから。……たい焼きと、ベストと、パンケーキと……」


「やめろ、数えんな」


「マイロと、はちみつと、ネットの嘘ニュースと……」


「マジで、やめろ」


「だけど……できれば、もうちょっとだけ、ここにいたいなって思っただけ」


 真っ直ぐな声だった。

 偽りが、一つもなかった。


 優しすぎるその言葉に、胸の内側が切り裂かれる。


「……バカが」


 ラドリーはソラの頭を、くしゃっ、と荒く撫でた。

 しかしその手は、震えるほどに優しかった。


 手のひらの温もりが、胸の奥に沁み込んでいく。


 暖かかった。

 軽くて、小さい。


 けれど確かに、自分の手のひらにある心の温度。


「ここにいたいなら、いればいい」


 誰に向けた言葉だったのか。

 ソラか、自分か。


 答えは出ない。

 だが、声に出した瞬間、自分の中で何かが決壊した。


 ——壊れちゃうなら、ずっと空っぽのままでいい。


 いつかのソラの言葉が、耳の奥で聞こえた気がした。

 それはラドリーが空虚を抱えながらも、ひとりで生きていた理由でもあった。


 ずっと、空っぽでいれば壊れない。

 埋めなければ、失うものもない。


 何もないことが楽だった、傷つくこともないから。


 だから空っぽにしてきた。

 そうやって、ただ生きていた。


 空虚になど、慣れていたつもりだった。

 けれど、今——その空虚が、ひどく怖かった。


 それでも、ソラのやわらかな温もりが、その怖れを少しずつ溶かしていく。


 ラドリーは確かに感じていた——


 その温もりが、自分の空っぽを、埋めはじめていることを。

 その温もりが、自分の中にある迷いを、少しずつ消していくことを。


 いつか失うとしても、それでもいい。

 確かな「今」を残したいと思った。


「広くはないが、お前の分のスペースくらいはある。居たい場所は自分で決めていい」


 その言葉は、誰かに許可を与える言葉であると同時に、ラドリー自身が自分に向けてようやく言えた、許しだった。


「……ほんとに、いいの?」


 小さな声だった。

 迷うような、戸惑うような。


「当たり前だ」


 ラドリーは静かに、しかし確かな意志を込めて言い切った。

 今度は優しく、ソラの頭を撫でる。


 迷いも不安も、全部抱えて。

 それでも「ここにいていい」と言える強さを、ようやく手に入れた気がした。


 そして大切な想いなら、言葉にして伝えなければいけないと思った。


 永遠である必要などない。

 今という、この瞬間に。


「俺は——お前に、ここにいてほしい。だから、ここにいろ」


 心のど真ん中から出た声だった。

 それは彼が、怖れではなく、願いを選んだ証だった。


 ソラが、まんまるな瞳でラドリーを見上げた。

 さっきまでの冷たい雨の音が、少しだけ遠ざかったような気がした。


「ほんと……?」


「ああ、本当だ」


 ラドリーは、まっすぐに視線を受け止めた。

 そして、笑う。


 不器用で、あたたかい——


 それでいて、どこか不敵な笑みだった。


「……まぁ、庭付きの豪邸ってのは、ちょっと羨ましいけどな」


「じゃあさ! パンケーキ屋さん作ろうよ!!」


「無茶いうな」


 ラドリーは鼻で笑いながら、またテレビの前に戻っていく。

 画面では、ふわふわのパンケーキに蜂蜜がとろりとかけられていた。


「……はちみつ、買い足しとくか」


「やったあ! ラドリー、今日は良い日だね!」


 外の雨は、まだ絶えることなく降り続いている。

 それでも、明日は晴れると予報は伝えていた。


 それならば——


 空を隔てる雲を裂けば、その先に——

 虹は、もう架かっているのかもしれない。


 光はいつも——そこにあるのだから。

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