第36話 それぞれの選択
ラドリーは何も言わずに、ただ立ち尽くしていた。
何かが胸の奥で、重く深く沈んでいた。
その静けさの中で、ソラが戸惑うように口を開く。
そのひと言を声にする前に、ほんのわずかに間があった。
ソラは目を伏せ、言葉を選ぶように——いや、覚悟を決めるように、小さく言った。
「……売ってもいいよ?」
その言葉に、ラドリーは心臓が一瞬止まった気がした。
「は?」
反射的にそう返した。
理解が追いつかないのではなく、理解したくなかった。
「だって、ラドリーが困ってたら……ボク、役に立ちたい。ラドリーはボクに、いっぱい、『楽しい』をくれたから。……たい焼きと、ベストと、パンケーキと……」
「やめろ、数えんな」
「マイロと、はちみつと、ネットの嘘ニュースと……」
「マジで、やめろ」
「だけど……できれば、もうちょっとだけ、ここにいたいなって思っただけ」
真っ直ぐな声だった。
偽りが、一つもなかった。
優しすぎるその言葉に、胸の内側が切り裂かれる。
「……バカが」
ラドリーはソラの頭を、くしゃっ、と荒く撫でた。
しかしその手は、震えるほどに優しかった。
手のひらの温もりが、胸の奥に沁み込んでいく。
暖かかった。
軽くて、小さい。
けれど確かに、自分の手のひらにある心の温度。
「ここにいたいなら、いればいい」
誰に向けた言葉だったのか。
ソラか、自分か。
答えは出ない。
だが、声に出した瞬間、自分の中で何かが決壊した。
——壊れちゃうなら、ずっと空っぽのままでいい。
いつかのソラの言葉が、耳の奥で聞こえた気がした。
それはラドリーが空虚を抱えながらも、ひとりで生きていた理由でもあった。
ずっと、空っぽでいれば壊れない。
埋めなければ、失うものもない。
何もないことが楽だった、傷つくこともないから。
だから空っぽにしてきた。
そうやって、ただ生きていた。
空虚になど、慣れていたつもりだった。
けれど、今——その空虚が、ひどく怖かった。
それでも、ソラのやわらかな温もりが、その怖れを少しずつ溶かしていく。
ラドリーは確かに感じていた——
その温もりが、自分の空っぽを、埋めはじめていることを。
その温もりが、自分の中にある迷いを、少しずつ消していくことを。
いつか失うとしても、それでもいい。
確かな「今」を残したいと思った。
「広くはないが、お前の分のスペースくらいはある。居たい場所は自分で決めていい」
その言葉は、誰かに許可を与える言葉であると同時に、ラドリー自身が自分に向けてようやく言えた、許しだった。
「……ほんとに、いいの?」
小さな声だった。
迷うような、戸惑うような。
「当たり前だ」
ラドリーは静かに、しかし確かな意志を込めて言い切った。
今度は優しく、ソラの頭を撫でる。
迷いも不安も、全部抱えて。
それでも「ここにいていい」と言える強さを、ようやく手に入れた気がした。
そして大切な想いなら、言葉にして伝えなければいけないと思った。
永遠である必要などない。
今という、この瞬間に。
「俺は——お前に、ここにいてほしい。だから、ここにいろ」
心のど真ん中から出た声だった。
それは彼が、怖れではなく、願いを選んだ証だった。
ソラが、まんまるな瞳でラドリーを見上げた。
さっきまでの冷たい雨の音が、少しだけ遠ざかったような気がした。
「ほんと……?」
「ああ、本当だ」
ラドリーは、まっすぐに視線を受け止めた。
そして、笑う。
不器用で、あたたかい——
それでいて、どこか不敵な笑みだった。
「……まぁ、庭付きの豪邸ってのは、ちょっと羨ましいけどな」
「じゃあさ! パンケーキ屋さん作ろうよ!!」
「無茶いうな」
ラドリーは鼻で笑いながら、またテレビの前に戻っていく。
画面では、ふわふわのパンケーキに蜂蜜がとろりとかけられていた。
「……はちみつ、買い足しとくか」
「やったあ! ラドリー、今日は良い日だね!」
外の雨は、まだ絶えることなく降り続いている。
それでも、明日は晴れると予報は伝えていた。
それならば——
空を隔てる雲を裂けば、その先に——
虹は、もう架かっているのかもしれない。
光はいつも——そこにあるのだから。
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