第35話 譲れないもの
明け方から降り続く雨は止む気配もなく、窓の外の街並みは、どこか遠く淡く霞んでいる。
重たい雲が世界を厚く覆い隠し、空を鈍く沈めているようだった。
部屋の中はコーヒーの香りと温もりに満ちていた。
ゆったりとした時間が流れ、ソラはラドリーの膝の上で丸くなっている。
テレビではパンケーキ特集が流れていて、ソラのしっぽが、まるで夢をなぞるように揺れていた。
「ラドリー、今日ってお出かけするの?」
「いや、今日は何も予定はない。お前が騒ぎを起こさなければ、静かな日になるはずだ」
「騒ぎなんて起こさないよ。ボク、愛されロボットだもん」
ラドリーが小さく笑う。
その小さな隙を割るように——玄関のチャイムが鳴った。
「……誰だよ」
こんな天気に訪ねてくる物好きは、そう多くない。
訝しみつつ立ち上がり、玄関の扉を開ける。
そこには、仕立ての良いスーツを着た初老の男が立っていた。
その隣には、付き人らしき若い男。
「ハンターのラドリー・ハイストン殿ですな。お初にお目にかかります」
「……失礼だが、どちら様だ?」
ラドリーの声は冷静だったが、わずかに目元が険しかった。
休日の朝に不意に訪れた見知らぬスーツの男たち。警戒するのは当然だった。
男は、笑みを崩さず軽く頭を下げた。
「ゼイン・ヴァルベックと申します。街でいくつかの事業を手がけておりましてね。最近では、この街の再開発にも携わっております」
差し出された名刺は、厚みのある上質紙。
著名な建設会社と不動産管理会社、福祉財団……複数の肩書が並んでいる。
その裏にあるものを、ラドリーは直感的に感じ取った。
「今日は少々、込み入った相談がありましてね。突然の訪問、どうかご容赦願いたい」
ラドリーは名刺に目を落としたまま、黙っていた。
「単刀直入に申し上げます。そちらの猫型自動人形……ソラくんでしたかな。あの子を、私に譲っていただけませんか」
重い沈黙が落ちた。
ラドリーの目がわずかに鋭くなる。
指先が名刺を折りかけたが、すぐに力を緩め、平らなまま返す。
「……ソラを、売れと?」
「買う、というより……お迎えしたいのです。もちろん、正式な譲渡手続きはすべてこちらで行います。謝礼も、ご希望に沿うよう最大限誠意を尽くします」
「……理由は?」
ゼインは頷いた。
「孫娘がいるのです。まだ七つ。事故で両親を失い、心を閉ざしてしまいましてね。あの子の笑顔を取り戻せるなら、どんな手段でも試したい……そう思っていた折に、偶然、あなた方の姿を街で拝見した」
彼の目が、奥の部屋に向かって細くなる。
「実に自然な感情表現。高度な学習性。まるで人間の子どものようだった。あれは旧世界の技術の結晶です。今となっては再現不可能な……まさに、傑作」
ラドリーは黙ったまま、腕を組んだ。
「繊細な子です。扱いは丁重にします。お約束しますとも。寂しくなどさせません。広い屋敷、遊び相手、専属の技術者とケアチームも用意できます。つまり、あなたの元より……恵まれた環境を」
ラドリーの眉が、かすかに動いた。
「……随分と踏み込んだ申し出だな」
「必要だと思ったのです。人形とはいえ、あの子には心がある。それを前提に私は向き合いたい。だから、こちらも真剣です。金額も環境も、あなたには申し分ないはずです」
冷たくもなく、強引でもない。
ただ、確信だけが静かに刺さる。
「……」
ラドリーの手が無意識に拳を握る。
冷静に考えれば悪い話ではない。
「優しい金持ちに買われるなら、お前も幸せになれるかもしれない」——かつてソラに、そう言ったのは自分だった。「そういう選択肢もある」と。
ソラを拾った日のことが、ひどく遠く思えた。
ただの機械の人形に、深く関わるつもりなどなかった——はずなのに。
ラドリーが返事をできずにいると、奥からソラが顔を覗かせた。
「ラドリー? だれか来たの?」
ゼインは顔を綻ばせ、しゃがみ込んだ。
まるで孫娘に話しかけるように、やさしくソラに声をかける。
「こんにちは、小さなお友だち。お名前は?」
「ボク、ソラ! ラドリーと住んでるの」
「そうか、それは素敵だ。ねえ、ソラ。君にちょっと提案があるんだ。新しいおうちに来てみないかい? お庭も広くてね、毎日甘いお菓子があって、お友だちもたくさんいるよ」
ソラは一瞬、まばたきをして考えるような顔をした。
そして、すっと顔を曇らせ——何も言わずに、ゆっくりとラドリーの背に隠れる。
「……ボク、今のおうちが好きだよ。ラドリーも、マイロも、たい焼き屋のおばちゃんも、みんな、いるから」
ゼインの微笑が、ほんの少しだけ固くなった。
その眼差しがゆらぎ、言葉を探すように逡巡する。
しかし彼は、静かにひとつ息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。
「……そうですか。ならば仕方ありませんな」
そして名刺を改めて差し出した。
「気が変わったら、いつでもご連絡ください。誠意は変わりませんので」
そのまま礼儀正しく一礼して、静かに去っていく。
付き人も、何か言いたげにラドリーを一瞥したが、無言で頭を下げるとその背に続いた。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
雨の音だけが、世界を隔てるように遠く聞こえていた。




