第29話 選ぶということ
夜気が静かに街を包み、遠くに見える灯りが窓辺のガラス越しに揺れていた。
窓際の小さな机の前に座ったラドリーは、分厚い書類を膝の上で閉じたまま、しばらく無言のまま表紙を見つめていた。
白い紙には、簡潔な印字と署名欄があった。
けれど——その一枚には、自分のこれまでとこれからを分ける重さがあった。
薄暗い室内で、金属の椅子がわずかにきしむ音がした。
その音に反応したのか、部屋の隅でネジ遊びをしていたソラが、ぴくりと耳を立てて顔を上げた。
「ラドリー?」
とん、とん、と軽やかな足音が近づく。
ソラはゆっくりと歩み寄り、ラドリーの足元にちょこんと座った。
「おなか痛いの?」
「……違うよ」
思わず苦笑する。
けれど笑っても、その奥の感情はまだ整理ができていない。
「でもなんか、むずかしい顔してるよ? 怒ってるとかじゃなくて……困ってる?」
ソラの声は、いつもと変わらない無垢さを帯びていたが、ちゃんと空気の違いを察していた。
ラドリーは言葉を探したが、すぐには口にできなかった。
胸の奥に引っかかっているもの——それが誇りなのか、未練なのか、あるいは過去から続く「在り方」そのものなのか、自分でもはっきりとは分からなかった。
彼の視線は、机の脇に置かれた封筒へと移る。
マイロが夕方、ふらりと立ち寄って置いていったものだ。
中には、都市の警備課からの正式な書類。
タイトルには「特別民間協力員 任命に関する打診」とあった。
評価文にはこれまでの実績——旧世界の遺跡調査、ハンターとしての高い技量、冷静な判断力——が簡潔に記され、その上で提案されていた。
これからは外で命を懸けるのではなく、街の外周警備や探索ガイドなど、市民生活のための安定した業務に従事してほしい、と。
「協力員って、なに?」
ソラがひょいっと前足を伸ばし、ラドリーの膝の上に乗せる。
青空のように澄んだその瞳が、無邪気に彼を見上げていた。
まるで雲一つない昼空のように、真っ直ぐな眼差しだった。
「……街の仕事だ。外に出るよりも、中で人を守る側になるってことだな」
「ふうん……それって、いいこと?」
ラドリーは少しだけ息を止めた。
簡単には答えられない。
それでも、視線を落として答える。
「多分、な」
「そっか。じゃあ、いいことなんだね!」
間髪入れずに笑顔を浮かべてそう言うソラを見て、ラドリーは思わず吹き出しそうになる。
この世界に、こんなふうに「良い」と「悪い」を疑いなく信じられるやつがいることが、時々不思議に思えた。
だが、だからこそ——
「でもな、もしこの仕事を受けたら、俺は……ハンターじゃ、なくなるかもしれない」
「えっ……じゃあ、遺跡に行けなくなっちゃうの?」
「行けなくはないさ。ただ、頻度はぐっと減る。もっと人と話す時間が増えて、街の中のことを優先しなきゃならなくなる」
ソラはしばらく黙りこみ、しっぽの先で床をちょんちょんと叩いていた。
考えているときの癖だ。
やがて、ふと顔を上げて、にやっと笑う。
「……じゃあさ、たい焼き屋さんには毎日行ける?」
「それは……おまえ次第だな」
ラドリーの口元がわずかに緩む。
「えへへ、じゃあボク毎日行きたいな。お仕事って、難しいものだと思ってたけど……ラドリーが一緒なら、どんなのでも大丈夫だと思う!」
その言葉は、真っ直ぐ胸に届いた。
ラドリーは視線を外し、軽く息をついた。
「……俺はな、昔の仲間が一人、また一人とやめていって、自分だけが遺跡にしがみついてるような気がしてたんだ。古い道具みたいにな。けど……おまえといると、少し違う道も、考えてもいいのかもしれないって思えるんだ」
ソラは少しだけ目を丸くした後、嬉しそうににこっと笑った。
「……ボク、ラドリーの役に立ててる?」
「そうだな」
ラドリーは、今度こそはっきりと頷いた。
「ああ、立ってるよ。少なくとも……迷う時間をもらえた」
ソラのしっぽがぱたぱたと揺れ、満足そうに頷く。
「じゃあ、迷いながらでもいいよ! だって、どこに行くかより、誰と行くかの方が大事だもん!」
ラドリーはしばらく言葉を失い、そしてゆっくり手を伸ばしてソラの頭を撫でた。
機械でできたはずのその頭は、思いがけないほど暖かかった。
きっとそれはソラが変わったのではなく、自分の心が少しずつ変わってきたからだ。
「……しばらく考えてみるよ」
そう呟き、ラドリーは深く背もたれに体を預けた。
その夜、彼は久しぶりに深く眠った。
翌朝、ソラが水色のベストを羽織って、「たい焼き調査任務に出発ですっ!」と元気に叫ぶことなど夢にも思わずに。




