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【中編 残響郷《ざんきょうきょう》の双心】

 翡翠の門をくぐった瞬間、鐘凪(かねなぎ)(ひびき)の肺にひやりと冷気が刺さった。残響郷(ざんきょうきょう)と呼ばれるこの異界の大地は、翠青の草原と空虚な琥珀色の天空で構成され、吹き抜ける風は石造りのオルガンを思わせる乾いた音を奏でている。自然が鳴らす環境音はどれも〈終わりかけの旋律〉を帯びており、どこかで誰かが弔いのリズムを刻んでいるようだった。


 ――音の死骸が漂う世界。

 響は懐中鈴をそっと握り、銀の球体越しに自分の心拍を感じた。妹を失った夜を思い出しつつも、隣で息を切らす鈴原(すずはら)(みお)の存在が、その記憶に温度を与える。


 赤錆びた石柱の影から、黒曜石の羽根を持つ弩雀(どじゃく)が飛来した。風を切る矢羽根の軌跡が空気を灼き、澪の銀髪を掠めて散る。

 「っ──!」

 咄嗟に響は鈴を鳴らし、半音の衝撃波を捻り出す。カシャリ。螺旋状の音圧が弩雀の翼を歪ませ、数羽が空中で光の粒へ変わった。が、その背後には矢を操る-譜刻師(ふこくし)-が潜んでいるらしく、紫紺の呪符が次々に風へ乗った。


 澪は震える唇を噛み、拳を握る。

 「わたしの声で……止める」

 恐怖を押し潰すような掠れ声。響の胸に、鈴の膜が薄く張り詰めた。

 「無理はするな。君が傷つくのは……」

 言いかけた刹那、弩雀の一羽が澪の上衣を裂いた。白磁の肩と赤い擦過傷が露わになり、彼女の体温が逃げる。


 「響……今は怖さより、痛みが強い。だから歌わせて」

 澪は深く息を吸うと、肺底から《哀韻》を解放した。

 ――低く湿った音階。

 それは雨が石畳を舐める夜更けのように静かな始まりだったが、一拍ごとに青い光を孕み、風景そのものを震わせた。呪符は弧を描きながら灰となり、弩雀は羽根をたたんで地へ落ちた。譜刻師の影が遠くで狼狽の声を上げる。澪の歌は“痛み”という名の糸を引き出し、それを共鳴で断ち切る――そんな力を秘めていた。


 戦闘が途切れた後、二人は草原の裂け目に立つ石造りの遺跡へ身を寄せた。そこで初めて、響は澪の肩の傷に気づく。

 「手当てを……」

 自分のシャツの裾を裂き、即席の包帯を拵える。指先が彼女の鎖骨をかすめ、濡れた皮膚の冷たさが伝わる。

 「痛むか?」

 「包帯より、あなたの服が気になるわ」澪は申し訳なさを滲ませながらも、視線を逸らせずにいる。

 裂けたシャツの隙間から覗く腹筋に、響が遅れて気づき、頬を赤らめる。

 「……ま、まあ、服は替えがきく。でも君の血は替えがきかない」

 澪は困り笑いを浮かべ、そっと耳元で囁く。

 「ありがとう。じゃあ、お礼に少しだけ歌うわ」


 洞壁に反射する澪のハミングは、薬草の匂いと火照りを纏い、戦闘でささくれた神経を静かに撫でた。響は目を閉じ、鼓膜に織り込まれる残響を味わう。妹を救えなかった夜、彼は絶望の無音に包まれた。しかし今、澪の声が胸の深部で新しい拍動を刻む。音を失ったはずの世界で、確かに“何か”が生きている。


 やがて裂けた空を埋めるように、遠方の地平で黒い雲が蠢く。喧鴉軍の本隊。巨大な軍旗が翻り、無数の烏面が空を覆う。澪の瞳に怯色が宿るが、響は包帯を結び終えた手を握り締めた。

 「君の声は呪いではない。痛みを暴き、癒しを生む――そう解釈する」

 澪は微かに震えながらも笑みを返す。「恐怖と恋は、同じ周波数かもしれないわね」

 「なら、僕たちで正しいキーを選ぼう」


 黒雲の中心から撃ち出された黒羽の礫が、空気を裂いて遺跡に降り注ぐ。澪は哀韻を、響は鈴音を重ね、二つの波形が干渉して虹色の衝撃波となった。弩雀の群れが霧散し、譜刻師の呪符は紙吹雪へ変わる――だが、雲の奥に潜む殲滅の気配はまだ衰えない。


 薄明のような蒼光が、遺跡の床に走る。そこに“回響塔(えきょうとう)”への古い道標が浮かび上がった。塔こそ喧鴉軍の本陣、そして響の妹・奏葉(かなは)に繋がる真相の入口。澪が拳を胸に当てる。

 「哀韻で、あなたの過去を抉ることになるかもしれない。それでも……?」

 「構わない。抉れた場所に君の歌が残れば、僕は空洞でなくなる」


 風琴の風が二人の裾を揺らす。雷のような羽ばたきが空を覆うたび、澪は響の手を強く握り返した。

 「行きましょう。あなたの鈴と、わたしの声で」


 共鳴する心拍が足裏から大地へ伝わり、回響塔へ続く石畳が夜光を帯びて浮き上がる。黒雲の底で無数の烏面が叫びを上げ、嵐の羽音が迫る――だが恐怖は、二人の指の隙間から零れる温度で塗り替えられていく。


 ――痛みと歌と鈴が三重奏を奏でる先に、《哀韻、鈴弦、そして未来》の和音が確かに待っている。


(中編・了)

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