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【前編 鈴の深夜、湖上へ堕つ】

挿絵(By みてみん)

 鐘凪(かねなぎ)(ひびき)は、都市の余熱が蒸す八月最終夜、郊外の歩道橋で立ち止まった。アスファルトの割れ目から立つ草が風に黙礼し、遠くで蜩が虚ろに鳴く。胸ポケットの懐中鈴(かいちゅうりん)-*は祖父の形見だ。銀の膜で包んだような小さな球体を指で弾けば、澄でも濁でもない半音が世界を震わせる――その一瞬、視界は砕けた硝子の欠片となり、縦横の軸が転倒した。


 落下なのか浮上なのか判らぬまま、水の靄が肺へ侵入した。鼓動は遠雷、呼吸は膜越しの泡。視界が晴れると、頭上には揺らめく碧水、足下には銀泡の星屑が瞬いていた。ここは*-湖境(こきょう)-*、重力の向きを忘れた水底世界。響は呑み込み難い現実を確認しようと頬を抓ったが、痛みより先に冷感が肌へ染み込んだ。


 妹を失った夜から、彼は「音を奪われる」恐怖に過敏になった。空虚の温度を嗅ぎ分ける奇妙な嗅覚が身に付き、耳の奥にはいつも鈴の欠片が転がっているようだった。今、その欠片が胸で小さく鳴り、視線の先――逆さまに垂れる-枯樹(こじゅ)-へ誘った。


 枝先で揺れるのは、月光を纏った銀髪の少女。透き通る肌に、墨色の瞳が夜の鏡を浮かべている。ゆっくりと唇が開く。


 「遠くて近い鈴の人、《あなた》ね?」


 霞んだフランス語訛りで紡がれた日本語。その声だけで、空気が一段深い藍へ沈んだ。彼女は鈴原 澪(すずはら みお)。“哀韻”を宿す歌い手――と、後に知るのだが、今はただ湖面が波紋を描くだけ。


 「僕の鈴が君を呼んだのか。けれど、ここはどこの未明だ?」


 澪は枝を蹴り、軽やかに湖面へ降り立つ。足首が触れるたび、青銀の飛沫が音符のように弾けた。


 「-無音境(むおんきょう)-。声音を捨てた神々の墓場。でも《鈴》だけは迷い込める――そう聞いたわ」


 言葉を裂く音。闇色の水柱から黒装束の影が十数体立ち上がる。嘴を象った薄桃色の仮面――喧鴉軍。刃を構えた彼らは、澪を中心に半月陣を組んでいた。


 響は苦笑し、懐中鈴を握り直す。「喧嘩の相手には事欠かないな。僕は鈴職人の家の倅だ。音で世界くらい切れる」


 先手を取ったのは影。刃が風を裂いた瞬間、響は鈴を打つ。


 ――カシャリ。


 半音の衝撃が空気を螺旋に変え、仮面の鼓膜を粉砕した。水飛沫が宙で静止し、時間さえ鈍ったかに見える。が、安堵は一拍。澪の細腰にいつの間にか漆黒の鎖が絡み、湖底へ引き摺ろうとする。


 「やめろ――僕から大事な音を奪うな!」


 怒声と同時に鈴を強打。音刃(おとは)が鎖を一閃し、響と澪は渦に呑まれ横転した。冷たい湖水が衣を透かし、澪の肩が月光に晒される。濡れた銀髪が頬を撫で、鼓動が肌伝いに重なった。


 「み、見ないで……」澪の頬が紅潮し、震える手で胸元を押さえる。


 しかし水の冷たさに縮こまる彼女は無意識に響の上衣を掴み寄せ、鎖骨に冷えた掌を当てた。胸板と濡れ衣の摩擦が異様に生々しく、響の呼吸が一瞬止まる。


 「君が無事なら、それでいいさ」声が掠れた。惚ける余裕はなくとも、澪が安堵の息を漏らす振動が響の胸へ伝わる。刹那、湖面が再び波立つ。喧鴉軍は後退しつつも、湖中央に翡翠の門を開いた。


 澪が髪を払って指差す。「《無音境》から逃げるには“残響郷ざんきょうきょう”へ。でも……」


 瞳に怯えと決意が交錯する。響は濡れた前髪を払って笑みを作った。「行き先を選ぶ基準は、君の鼓動が進みたいかどうか。それだけだ」


 翡翠の風が衣を揺らし、紅い月が昇る。背後では喧鴉軍が再集結、黒羽を構えた影が波の彼方で蠢く。だが二人の足裏を支える湖面は、門の輝きに導かれて道へ変じつつあった。


 「助けられた借りは、歌で返すわ」澪が微笑む。水滴が睫毛で煌めき、夜薔薇の香りが濡れた衣の下から淡く立つ。


 「その歌を聴き損ねる前に、生き延びよう」響は鈴を掲げ、門へ一歩踏み出す。銀泡が弾け、遠ざかる喧鴉軍の影が不気味な叫声を上げた。


 翡翠の門の向こうには蒼翠の大地と琥珀の天空が覗く。予測不能な二重奏の開幕を告げるように、懐中鈴が高く跳ねて鳴った。


 ――カラン。


 その一撃が、恋と戦いと異界を繋ぐ序章の幕を、深夜の湖上で高らかに引いた。

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