005.それを愛と呼ぶには
「それにしても、ベレガディア様、最近すっごく元気になられてヨカッタですねェ!」
いつも明るいソールベルタはにこにこ顔でそう言った。
イシルミーアは「……ええ」とそれに答える。ディネルースは静かに紅茶に口をつけていた。
天気の良い日の午後、イシルミーアはディネルースと庭でティータイムを楽しんでいたのだが、そこに通りがかったソールベルタも「ボクもボクも!」と言って居座ってしまったので、ディネルースは渋々ソールベルタの分の紅茶とカヌレを用意していたのだった。
ソールベルタはカヌレに大喜びで、いくつもぱくぱくと口に放り込んでゆく。そんなソールベルタの子供っぽい陽気さに、イシルミーアはふっと顔を綻ばせた。
「なんだか小さい子みたいだわ」
ふふ、と笑うイシルミーアに、ソールベルタは一瞬ぽかんとしたが、すぐに満面の笑みで「そうですかァ?」と応えた。
「子どもといえば、ベレガディア様とイシルミーア様のお子が生まれるの、ボクすっごく楽しみにしてるんです!赤ちゃんって可愛いですよねェ、ふわふわでふにゃふにゃでなんだかイイニオイがして、ボク大好きだなァ。大好きなお二人の赤ちゃんだから余計!」
かちゃん。
カップをソーサーに置いたときに、思いがけず大きな音が出てしまって、イシルミーアははっとした。ディネルースは鋭い目つきでソールベルタを睨んでいるが、ソールベルタは気付いていないようだ。そんな様子が更に癇に障るようで、ディネルースは小さく舌打ちをした。
「ごめんなさい、こどもは……まだ」
「あ、いやいや!別に急かしてるワケじゃないんですよお。お姑さんでもあるまいし。楽しみだなーって思っただけです。ゴメンナサイ」
ソールベルタは困ったような顔をしながらぺこりと頭を下げた。
わかっている、別にソールベルタに悪気も深い意味もないってことくらい。
けれども、夫とのその行為が怖くてたまらないイシルミーアにとって、子供のことを考える余裕なんてなかった。
──だって、私はあの人を愛していないし、あの人だって、私を愛していないのだから。
イシルミーアはなんだかとても居心地が悪くなって、手元のカップのハンドルを撫ぜた。ディネルースは心配そうに「ご気分が優れないなら、お部屋に戻られますか」と声をかけたが、せっかくのお茶の時間を台無しにしたくなくて、イシルミーアはそれを断った。
「ディネルースが作ってくれたカヌレ、とってもおいしいわ。もうひとつ頂けるかしら」
「はい、モチロンです」
ディネルースはほっとしたような面持ちで、イシルミーアの手元の皿にもうひとつカヌレを取り分ける。
そんなディネルースも、ディネルースちゃあん、ボクにももうひとつちょうだい、というソールベルタの訴えは徹底的に無視していたので、そんな二人の様子が面白くてイシルミーアはくすくすと笑った。
そんなイシルミーアの微笑んだ姿を見て、二人もどことなく安堵した顔をする。
思い返せば、この国に来てから私は泣くか、ふさぎ込むことしかしていなかった。
こうやってまた笑えるようになるなんて、思ってもみなかった。いつも静かに支えてくれるディネルースと、いつも明るくて裏表のないソールベルタの二人には感謝しかない。
けれど、思い返せば──夫も、最近は全くイシルミーアに無理強いをしない。
夫はすっかり回復したというのに、寝室を一緒にしようともしない。だからといってイシルミーアの存在を全く無視しているわけではなく、必ず一日に一度はイシルミーアの顔を見に来て様子を尋ねる。イシルミーアが変わりないことを告げると、口元を少し緩めて「そうか」と言って部屋を出ていくのだ。
彼はイシルミーアの夫であると同時にこの国の王である。
妻の意向がどうあれ、彼の好きにしたっていい。妻が嫌がったところで、傍に侍らせればよい。それこそ、後継ぎが欲しいのであれば夜伽を命じればよいのだ。
けれど、夫はそうしない。
イシルミーアは最近とても不思議な感覚に陥っていた。
夫をあれほど嫌悪していたにも関わらず、今は夫のことを知りたいという気持ちが心の奥底から湧き上がってきているのだ。
──俺がサラドックを手に入れるためにきみを無理矢理妻にしたと思っているだろうが、それは違う。
夫の言葉がずっとイシルミーアの中で反芻している。
サラドックを手に入れるためでないなら、どうして?
考えても考えても、答えは出ない。
それならば、夫に直接聞くしかないではないか。
「ねえ、ディネルース。おねがいがあるの」
***
その夜、2か月ほどぶりにイシルミーアは元の寝室に戻っていた。
前と変わらない部屋。
夫も近頃はこの部屋は使わず、書斎を併設した小さい部屋を使っていたというが、ディネルースに言付けを頼み、夫に今晩からこの部屋に戻ってもらうように手筈を整えた。
緊張して、どくどくと心臓が大きな音を立てる。
夫との夜伽のことを思い出して足がすくむような感覚に陥りそうになるが、いや、あれは夫婦としては当然のことなのだ、と自分に言い聞かせる。
そんなとき、不意にドアががちゃりと開いて、イシルミーアはびくりと身体をすくませた。
夫はイシルミーアがすでにこの部屋にいたことに少し驚いたようで目を見張ったが、すぐにいつもの無表情な顔に戻った。
無言のままのイシルミーアを咎めることもせず、夫はワードローブの元へ歩み寄ると室内着を脱いだ。
明るい部屋で夫の身体を見たことはなかったが、その逞しい体には無数の古傷と、恐ろしいひび割れのようなものがある。なんとなく気まずい思いがして、イシルミーアはナイトウェアに着替える夫の背中から目をそらした。
ベッドに腰かけたままのイシルミーアに何も言わず、夫は広いベッドにもぐりこんで、そのまま目を閉じた。イシルミーアは慌てて部屋の照明を落とし、自分もベッドに潜り込む。広いベッドは二人が並んで寝ても、肩すら触れないほどだ。けれど、夫のぬくもりを確かに感じる。
しばらくの間、イシルミーアはどうしたらいいかわからなくて、間接照明にぼんやり照らされたベッドの天蓋を見つめていた。
ややあって、イシルミーアは意を決して口を開く。
「あの……もう眠ってしまわれましたか?」
「…………いや」
かなりの間があったが、夫が返事をしたのでイシルミーアは少しほっとした。夫は何も言わない。イシルミーアの言葉を待っているようだった。イシルミーアは緊張を落ち着かせるように深く息を吸ってから、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「えっと……あの、あなたが言ったことが、忘れられなくて……」
「……何の件だろうか」
「サラドックを手に入れるために、私を妻にしたわけじゃない、って…」
「ああ、そのことか」
イシルミーアは夫の言葉を待ったが、相変わらず夫は無言のままだ。イシルミーアの問いには答えるのに、自主的に何かを話そうとはしないようだ。なんだか扱いづらいが、完全に拒絶されているわけではないので、聞けば答えてくれるかもしれないと思い至り、イシルミーアは続ける。
「あれは、どういうことなのでしょうか。この政略結婚に、それ以外の意味が……?」
「政略結婚でないなら……俺の意志できみと結婚したということになるな」
「それってどういう……」
「ただ、サラドックをヴァシュニルの庇護下に置きたかったのは事実だ。周辺国にサラドックを侵略しようという動きがあった。ヴァシュニルとサラドックの単なる和平という名の大義名分ではサラドックを守り切ることが出来ない。結果的にサラドックの民衆を苦しめるはめになってしまったことは……すまなかった」
初めて夫の口から、サラドックを戦乱に巻き込んだことに対する謝罪を聞いたイシルミーアは、急に冷静な気持ちになった。
たしかに、サラドックとヴァシュニル国は戦争をした。
けれども、ヴァシュニルは絶対に略奪行為や民衆への虐殺行為は行わなかったし、投降する者を捕虜にはしたが、ひどい扱いはしなかった。
そう思うと、先ほどの夫の言葉に嘘はないように感じる。
事実、現在もサラドックは大公である父が治めており、ヴァシュニルが政治に介入することはないと聞いていた。サラドックの各地の街に、ヴァシュニルの兵士たちが駐在するようにはなっているが、その兵士たちも統率が取れており、狼藉を働く者はいないらしい。
「じゃあ、どうして私と結婚したの?」
暗闇に慣れた目で夫を見る。
夫は困ったように額を掻いて、観念したような面持ちで口を開いた。
「……きみのことを、愛していたからだ」
きみのことを、愛していたからだ。
夫の言葉に、イシルミーアはがばっと上半身を起こして、少しばつの悪そうな面持ちの夫をまじまじと見た。
「あ、あ、あなたの態度は……私を愛している男性の態度ではなかったわ!」
「うん、そうかもしれない。すまない」
夫が素直に謝罪したので、イシルミーアは口をあんぐりと開けてただ呆然とするしかなかった。
夫がちら、とこちらを見る。イシルミーアは急に夫のことを意識してしまって、慌てて布団をかぶって夫とは反対方向を向いて横になった。
心臓が早鐘のように高鳴る。そんなイシルミーアの気持ちを知ってか知らずか、夫はそれ以上何も言わず、夫もあちらを向いたような衣擦れの音がした。
「おやすみ」
夫のその言葉にすら返答できないほどイシルミーアは混乱していて、夫が寝息を立て始めてからもまんじりとも出来なかったのであった。
***
「イシルミーア様、朝です」
「んん」
いつもの通り、次の朝はディネルースが起こしに来てくれた。窓から差し込む太陽の光に、ディネルースの金糸の髪がきらめく。最近はすっきり目覚めることが多かったが、さしものイシルミーアも今日ばかりは無理だった。
いつかの日のように、ベッドの中で固く目をつぶり、頭の上まで掛布で覆ってしまう。ディネルースはそれをはぎ取ろうとしたが、「……もう少し、お休みになられますか?」と声をかけてくれた。
恐らく、かなり気を遣っているのだろう。イシルミーアは少しだけ掛布から顔を覗かせて、目を瞑ったままこくりと頷いた。
たぶん、ディネルースが思ってるようなことはなかったんだけど。
そう思いながら、イシルミーアはもう一度夢の世界へと誘われていったのだった。
大きな手が、イシルミーアの額に乗せられたことに気付き、イシルミーアの意識は急速に覚醒していった。続いて、首筋にも指の背らしきものがぴたりと押し当てられる。
──おそらく、夫だ。私がいつまで経っても起きてこないから、熱でもあるのかと思ったのかもしれない。
熱がないことがわかったのか、夫は首筋から手を放し、顔にかかっているであろうイシルミーアの髪の毛を優しくどかせた。
イシルミーアは狸寝入りが気付かれないように、どきどきしながら目をつぶって、反応しないように努めた。
夫は優しくイシルミーアの髪を撫でる。
慈しむように、愛おしげに。
あんなに恐ろしいと思っていた手が、こんなに優しいだなんて。
イシルミーアはなんだか急に涙が込み上げてきて、寝返りをうつふりをして夫の視線から逃れた。夫はそれきり、イシルミーアに触れてこなかった。イシルミーアの狸寝入りに気付いたのか、撫でる手が睡眠の邪魔だと思ったのか──定かではないが、掛布をイシルミーアにかけなおし、夫は部屋から出て行った。
うっすら目を開けて、左手の薬指を見る。
今まで嫌で仕方なかった“枷”なのに、なんだか少しだけ愛しく見えた。
***
起きたら、すっかりお昼を過ぎていたのでイシルミーアは慌てて身支度を整え書庫へ向かった。
結婚して以来、誘拐および暗殺未遂事件もあったし、そもそもイシルミーアはまだ精神的に不安定であったこともあって最低限の公務にしか携わって来なかったのだ。
しかし、さすがにそろそろ王の妻として公務に関与しなくては、国民感情や周辺国への影響が気になるのだ。
もちろん、王妃のつとめをサラドック公国で学んでこなかったわけではない。
しかし、新興国を取り巻く情勢は日々変化しているのだ。時事を知り、このヴァシュニル国のことだけでなく、ヴァシュニルを取り巻く周辺国のことをよく知ることも王妃のつとめである。
イシルミーアは書庫にこもり、その日は一日中読書に耽った。
早く、この国にふさわしい王妃にならねば。
王妃たる自覚、のようなものが自分の中に芽生えていることには気付いたイシルミーアだったが、それ以外の感情が芽生え始めていることに、イシルミーアは気付いていないのであった。