001.人質
サラドック公国は伝統的な美しい街並みと豊かな自然に囲まれた小さな国で、イシルミーアはその国を治める大公の家に生まれた公女であった。
両親は一人娘であるイシルミーアのことを大層可愛がった。
いつかはイシルミーアも婿を取り、サラドック公国を治める立場になるのだから、たくさんの教養と知識を得られ、繊細で豊かな感受性を育める環境を両親はイシルミーアに贈った。
そんな両親の期待に応えるかのごとく、イシルミーアは高潔で、優しく、知性のある女性になるため、日々努力を惜しまなかった。
そんなサラドック公国に暗雲が齎されたのは、イシルミーアが17歳になった頃だった。
白を基調としたサラドック公国の迎賓館に似つかわしくない黒衣の男が一人、ホールを歩く。
その男が歩を進めるたび、身に纏った物々しい甲冑がガシャン、ガシャンと擦れあい、不吉な音がホールに響く。
周囲の者は皆、一言も声を発しない。
誰もが息をすることすら恐れているかのようであった。
緋色の髪から、黒く大きな角が伸びている。
その角から伸びた硬質化した皮膚が、顔に大きなひび割れのような傷を作っている。
闇色の目に、水宝玉のような虹彩だけがやけに煌めいていて、イシルミーアは目を奪われた。
明らかに、人間ではない異様な存在が、目の前にいる。
恐ろしさと、なんとも言えない奇妙な現実味のなさがイシルミーアを包んでいた。
男はイシルミーアの両親が座る玉座の前に来ると慇懃に礼をしたが、ちっとも畏っている風には見えないな、とイシルミーアは思った。
「私はベレガディア。ヴァシュニル国の王だ」
イシルミーアの思ったとおり、ベレガディアと名乗った男は、サラドックの大公――いわゆる王――の父にご機嫌伺いなんてすることなどなく、威厳に満ちた声でそう言った。
ヴァシュニル国というのは、ここ数年で興り、急激に成長している国だ。
今では植民地を増やし、国境はじわじわとサラドック公国に近付いている。
そんな国の王がお供もつけずに、一人で乗り込んでくるなんて。
どうせ、この国のことも植民地にしたいのね。
こんな小国、一人で乗り込んできたって怖くないなんて、思っているんでしょ。
イシルミーアは心の中でそう悪態をついた。
「サラドック公国の大公に問う。我がヴァシュニル国の属国となる意志は固まったか?」
威圧するような声色で、男は唸るように言った。
玉座の上で父が――大公が、違う意味で小さく唸る。
すでに、この男がサラドックを属国とすべく手を回していたことをこの場で知ったイシルミーアは、心の奥底から沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。
誰にも心配をかけるまいと、父は隠していたのだ。
しかし、それはかえって悪手でなかったのかとイシルミーアはそんな父にすら怒りを覚える。
こんな重大なこと、お父様一人で抱えておくべきではなかったのよ。
目を丸くして、男と父を見比べる母の姿からも、母ですらそんな重大なことが寝耳に水であったであろうことが伺えて、それが更にイシルミーアの憤りを煽ったのであった。
「だが……しかし……いや……」
いつになく歯切れの悪い大公は、今や顔面蒼白で、額に浮かぶ冷や汗を何度も拭う素振りをした。
しかし、それを見つめる男はただひたすらに冷静で、大公を真っ直ぐ見つめている。
「そんな……属国なんてとても……それに……」
父が口籠もりながら、ちら、とイシルミーアの方を見たので、途端にイシルミーアはとても嫌な予感がした。
「ヴァシュニルの属国となり、その証として公女を我が妻として送り出す。公女を差し出すだけで、サラドックの民の安全と自由と命を保証すると言っているのに、何が不満なのか、是非お聞かせ願いたいものだな」
男は表情ひとつ変えず、それに、イシルミーアのことは一瞥もくれずにそう言ったものだから、イシルミーアははじめ、何を言われたのかいまひとつ理解が出来なかった。
「属国ですって?妻……ですって?」
イシルミーアの驚きを含んだ声は、水を打ったように静かな迎賓の間に厭に響き渡った。
イシルミーアの一声を機に、ざわざわと臣下たちにも驚きと戸惑い、そして怒りが伝播する。
しかし、そんなことはお構いなしに、男は「ああ」とだけ言った。
イシルミーアは怒りに燃えた。
この男は何を言っているのだろう。
イシルミーアは思わず立ち上がった。
激情のままに男を罵る言葉を吐きかけたが、爪が掌に食い込むほど拳を固く握りしめてそれを堪えた。
父と母が驚き、慌ててイシルミーアを抑えようとしたのが視界の端に映ったが、イシルミーアはそれに気付かないふりをしたまま男を憤怒の眼差しで睨めつけた。
男は動じることもなく、静かにイシルミーアを見つめ返している。
「我がヴァシュニル国は少々新しく……歴史の浅い国なのでな。サラドックのような、小さくとも由緒正しい、歴史ある国との縁談は不可欠なのだ。外交を知らぬほど、無知な公女でもあるまい?」
「無論ですわ」
「それなら話が早い。大公との交渉はもう飽いた。人質に取られるのは公女、あなた自身だ。あなたが国の存亡を決めたとて異存はあるまい。さあ、ここで宣言してもらおうか。サラドックはヴァシュニルの属国となるか?」
卑怯だ、この男は。
退路を断たれたイシルミーアは口惜しさに唇を噛んだ。
こんな男の妻になるだなんて。
ヴァシュニル国がどんな国かも知らない。
上手く息が吸えなくなって、イシルミーアは落ち着くためにぎゅっと目蓋を閉じると、ふと、愛するサラドックの自然や、街並みや、人々の顔が浮かんで消えていった。
私の言葉ひとつで、この国の命運が決まる。
イシルミーアが未だかつて経験したことのない、恐ろしい岐路だった。
「……サラドックは」
イシルミーアが口を開こうとした刹那、ざわつく迎賓の間に大公の言葉が響く。
その途端、誰もが息を呑んで、大公の言葉を待った。
「サラドックは、ヴァシュニルの属国にはならない」
ふり絞るような言葉だった。
その途端、臣下から歓声があがり、拍手とともにそうだそうだと同意し、そして男を罵る言葉も交じり合う。
男は臣下たちを軽蔑の眼差しを以て睥睨すると、イシルミーアと、そして大公を見た。
「交渉決裂という訳だな」
男は外套を翻し、初めてこの場に姿を現した時と同じように、不吉な鎧の音を響かせて迎賓の間から退出した。
そして、その夜、ヴァシュニル国は、正式にサラドック公国へと宣戦布告したのであった。
「よいのだ、イシルミーア、私がすべて悪いのだ」
父はただ、そう言った。
***
それから1年あまりの月日が経ち、ヴァシュニル国とサラドック公国の戦火は愈々どうすることも出来ない状況へと突入していた。
元々、サラドック公国は武力をあまり持っていなかった。
しかし、ヴァシュニル国は急激に勢力を伸ばしているだけあって武力に優れていたので、サラドックとその差は歴然であった。
サラドックの国も人も、長く苛烈な戦火に疲弊しきっていた。
イシルミーアは、大好きな国と国民が傷付くのをこれ以上見たくなかった。
「お父様……お母様……。私、ヴァシュニル国へ行くわ。それで、この馬鹿げた戦争が終わるのなら」
父と母は静かに泣いて、今まで頑として縦に振らなかった首を、ようやく小さく頷かせたのだった。