時を超えた手紙
下宿先の一軒家の部屋で僕はごろりと横になって、京都の観光地という本をじっと見ていた。
京都は学生の街というだけあって、僕のような学生が多い。つまりは、大学受験と合格それに合わせて上京として京都にやって来るのだ。上京とはよく言ったものであるなと思うが、実際の所、京都の大学に通う学生の大部分は、京都を中心とした近畿地方が大半だ。つまりは、学生の街とはいうものの、その大半は近畿地方の学生の街、であるにすぎない。
かくいう僕自身も近畿地方のとある田舎から出てきたので、とやかくは言えないのであるが。
しかし、それであっても学生の割合が多いのも事実だ。
学生の街は、出身地がどこかとは問われないのだ。少なくとも、大学卒業までは。
とにもかくにも、せっかく、田舎から出てきたのであるから、京都ライフというか学生ライフをエンジョイしたい。
「おい。苦学生」
同じ下宿の高橋が無礼にも声をかけずに、襖を開けてから声をかけてきた。
この高橋という男は、京都大学の医学部に所属する学生であり、家も裕福、かつ京都市内にあるというのにわざわざ僕のように貧乏でボロボロな下宿先に転がり込んでいるようなもの好きである。さらに言えば、わざわざ僕と同じだけの金しか使わないと豪語する物好きだ。
理由を聞くには、苦学生を体験してみたい、というのだから、ふざけた奴である。
「なんだよ、金持ち野郎」
「そう、嘆くな。面白いものを大家の弘子さんから貰ってきたぞ」
そう言うと、高橋は、どかっと僕の隣に腰を下ろした。
なんと無礼な男かと、憤慨したが、それよりも先に、高橋が手に持っていた物に興味をそそられて怒りを口するよりも先に、興味が勝った。高橋が持っていたのは、一枚の葉書であった。ただの葉書ではなく、かなりの年数が経っているのが茶色くなった紙面から感じ取れる。
葉書を手にする高橋の表情は、興味津々でありながらも、微かな緊張が見て取れた。
「なにか、面白いことが書いてあるのかい?」と僕は興味津々に尋ねた。
高橋は葉書を読み始める前に、一瞬私を見つめた後、微笑みながら言った。
「奇妙なものだよ。葉書にはイラストがいくつかと数字がいくつか。いいかい? つまり、これは暗号だ!」
「馬鹿馬鹿しい。子供の遊びじゃあないか」
「子供の遊びだからこそ、面白いんじゃあないか」
確かに彼のいう事にも一理があった。ともかく、体を起こして、高橋と膝を突き合わせる。
嬉しそうに高橋は笑い、葉書を僕に手渡して事の次第を話し始めた。
この下宿の大家の弘子さんは、僕達が下宿しているボロ屋の向かいに住んでいる。夫婦ともに同い年の高齢であるため、下宿している僕たちによく色々な頼みごとをしてくる。ほとんどは肉体仕事であり、そういう所から見ても、うまく、下宿している学生を使っているのだろうと思えた。
今日も例に漏れず、高橋は弘子さんに頼まれて、倉庫の整理をしていた時、はらりと倉庫で見つけたそうだ。
それをくすねたあたりが、この高橋の人間性を伺い知ることが出来る。
「ともにかくにも、この葉書。シンプルなデザインだ」
宛先もとくに書かれておらず、ただ、一文章「めひさしれゆのゆね しくにか」とだけある。
その書かれた文字は、拙いもので子供が書いたようであるのが感じ取れた。おそらく、小学生くらいであろうか。
「こんな訳の分からない羅列から何がわかるって」
「おいおいおいおい、苦学生。これは比較的簡単だよ。これはシーザー暗号だ」
「シーザーというと、ユリウス・カエサルか?」
「そうとも。その彼が用いたいくつかの順番で文字をずらすシンプルなものだよ。問題は対応表だが……」
高橋は部屋をぐるりと見まわすと、僕の鞄を指差し、ノートを出すように頼んできた。それにこたえる形で僕はノートを一冊と、あわせて、鉛筆も手渡した。それに、高橋はばばばっと文字を書き込み、線を作っていく。気が付くとページにはカタカナの五十音図と、アルファベットの順番の表が出来ていた。
「シーザー暗号は、当該文字を数字いくつ分か動かす事でできるんだ。たとえば、『いぬ』を三文字ずらすと、暗号として『おは』になる。問題は何文字ずらすか、だが」
「総当たりか? なら」
「そんな必要はない。よくて9文字だろう」
確信に近い表情を見せる高橋に対して僕は、それまたどうして、と聞いた。
すると、自信満々に。
「これを書いた人間は、特に暗号を解く手がかりを葉書に残していない。と、いうことは、お互いの共通事項があって、それをもとにしているという事だ。例えるなら年齢、もしくは学年とかが数字としては候補としては上がるだろう。つまりは、総当たりでも時間はかからない」
ペン先でいくつかの文字を叩いていく。そううまくいくのだろうか、と思っていたが、すぐに答えは見つかった。
ふなおかやまてまつ かいたん
船岡山て待つ かいたん
「六文字だ。小学校六年生? いや、六歳? ともかく、シンプルなことだな。では、行こうか」
「行くってどこに。それと、かいたんってなんだよ」
「船岡山だ。そして、かいたんは、階段を意味する。せっかくだ、こういうのは、実地で意外と何かあるかもしれん。お宝があれば小遣いになるぞ」
最後の一言は少し魅力的に聞こえた。部屋の隅に放った観光雑誌を見る。もともと、今日は一日、市内の観光地を見に行こうかと思っていたところだ。そう考えると、貧乏学生の小遣い目当て云々は置いておいて、おのぼりさんの観光として一日を過ごしてもいい。
僕は適当に着替えると、高橋に連れられて下宿先を出た。
船岡山までの道のりはそれほど遠くはない。というのも、船岡山は、京都市の街中にあるからだ。街中に山があるというのは、僕としては奇妙な感覚があった。僕の住んでいた田舎は、都会は都会として山のようなものはなかったりした。丘や山というようなハイキングスポットみたいな所は、本当に、都心部を離れる必要があるからだ。
それに対して、京都は、街中に山があるのが少し面白かった。
「こんな山になにがあったのかね。待つって」
「まぁ、待てよ。意外と何かあるかもしれん」
と、高橋に言われるままに、僕は船岡山を歩き回った。
が、何もめぼしいものはなかった。強いて言えば、建勲神社を参拝できたのは良かった。
「織田信長の幽霊にでも頼んでみるか? 何かヒントをって」
船岡山にある階段を降りながら、高橋に聞いてみる。高橋は首を横に振った。
「織田信長について知っている限りで言うと、こういうのに協力してくれるとは思えないけどね。ともかく、階段だ。階段に何かがあるんだ」
「そこまで必死に何をしたいんだか」
「面白そうだからだよ。京都に住んでいて、こんな風に謎解きを出来るとは思っていなかった」
高橋は葉書を手にしながら階段をとととっと降りていく。
その姿を見て、僕は一つ、呆れにも近いものを感じた。
この高橋という人間には、面白さ、が全てなのだ。自分が感じ取った面白さを全てにおいて優先するのだ。
「高橋くんやないですか」
階段の上からそう声がして、振り返ると大家の弘子さんがいた。動き易そうな上下にスニーカーと、如何にもなハイキングスタイルである。不思議そうな顔で僕と、階段下にいる高橋を交互に見ながら首をかしげる。どうしてここに、というような質問を投げかけてきそうな予感がしたが、それよりも先に、高橋が手に持っている葉書に気が付いた。
遠目からであろうに、それが馴染みのある葉書であったのだろう、すぐに気づいた大家さんは高齢とは思えぬ俊敏な動きで、階段を駆け下りると、高橋の手から葉書を取った。
「なに、人の物を持ち出してるの」
顔を真っ赤に大家さんは、そう、孫の歳ほど離れた高橋をしかりつけた。
高橋は高橋で「いや、その、ちょっと面白そうだったんで」と悪びれる様子は一切見せない。
そうだ。よくよく考えると、これは大家さんの家から出てきた物であったのだ。言ってしまえば、窃盗である。
そして、もっと言ってしまえば、この暗号の意味を知っているのであろう。
「あの、大家さん、この葉書の意味、教えてもらってもいいですか?」
と、僕は詰問している大家さんに聞いてみた。
すると、これ幸いと高橋は、僕の後ろに隠れるように立ち回り、「そうですよ! その葉書が出てこなければ、僕も興味を惹かれなかった! 手伝ってと言われて、手伝ったのは僕です!」と、自分の事を棚に上げた調子のいいことを口にしだした。呆れたので、ずいと体をずらして、高橋を前に押し出したが、それでも、高橋は自分の正当化を止めなかった。
が、少なくとも大家さん自身も手伝ってもらったという負い目があったからか、怒りは少しおさまった様子である。
ここではなんだから、と大家さんは一旦話を切り上げて、家に招き説明する、ということになった。
僕たちは大家さんに連れられてやってきた道を戻っていった。なかなかに危うい所を回避できて高橋は油断しきっていた。
「まったくもって、言ってくれればあれやったのに」
客間に通された僕たちは、珈琲を淹れてもらい、それを前に座っていた。
「この手紙はね、私が小学校六年生頃に貰った手紙なのよ」
「あー、だから、シーザー暗号で六文字なのか」
「そういう事ね。これをもらったのは、小学校六年生の秋くらいかしら。金木犀の香りがあちこちでしていたのを覚えているわ。どこの誰が渡してきたのか、わからなかったけども、船岡山で待つっていう暗号になっていた。それに気が付いたのは、働きだしたくらいよ」
「え」
「おおよそ五年から十年はほったらかしにしていたことになるわね」
「えぇ……」
高橋が少し呆れた声を出した。
言ってしまえば、暗号を長期間放置していたことになる。そして、さらに言うならば、暗号であれども、葉書を放置していたことにもなる。そのような状況であれば、送り主としては十年近くもあの葉書の通りに、船岡山で待っていることになる。
「あの、暗号には気づいてどうしたんですか?」
「あぁ、そう。それからその当時の彼氏と、一緒に行ったわ。船岡山に」
「差出人は、待っていたんですか?」
だとすると、かなりの最悪のパターンである。
大家はゆっくりと首を横に振った。
「さすがに待ちくたびれてしまったのでしょうね。心当たりある場所を通ったのですが、誰もおりませんでしたよ」
「それは、まぁ。しかし、何用で呼び出したのでしょうかね」
「子供のすることで、かつ、人目を憚ることというのですから、恋の話でしょうよ」
大家はそう言った。であれば、その待ち人というのは、船岡山で待ちぼうけを食らったことになる。しかも、おそらく、それが恋の話であるというのであれば、告白なり何なりの気持ちを準備していたであろうに、それを、果たすことなく、年月が経ってしまったのだ。
言葉にしがたいものがそこにはあった。
珈琲をすすっていると、「帰ったぞ」と大家さんのご主人の声が玄関方向から聞えて来た。
矍鑠とした様子の老爺は、食品でいっぱいになったスーパーの袋を両手に提げている。
「おやおや、葉書の差出人が来ましたよ」
大家は笑いながら珈琲をすすった。
何のことかわからない老爺は、疑問符を顔に浮かべていたが、テーブルの上に置かれた葉書を見つけると、顔を真っ赤にする。
「お、お前、まだ、そんなの持ってたのか」
「そりゃ、私宛の葉書やしね」
大家は、小さく笑った。
呆気に取られているのは老爺だけでなく、僕と高橋もであった。
それを感じ取った大家は、笑いながら僕たちを一瞥した。
「結局、この人、自分で家にやってきたのよ。で、私に告白をしたのよ」