16 ◆元英雄のおっさん、中卒に襲いかかる(?)◆
「む……」
朝、事務所のドアが開く音を聞いて、俺は目を覚ました。俺もベテラン冒険者。寝ている間であっても、感覚は研ぎ澄まされているのだ。
さて、これはいわゆる、事務所荒しというやつだろうか……ふふふ、運の悪いやつめ。まさか所長の俺が、事務所に住んでいるなどとは夢にも思わなかったのだろう……ほんと、俺も子供の頃は夢にも思わなかったけどな……大人になった自分が、アパートの家賃を払えずに追い出されてるなんて……。
それはさておき、俺はそっと物音を立てぬよう、枕元にあるナイフを掴んだ。対モンスター用の、厚みがあって迫力満点のサバイバルナイフ……これでちょっと頬をペシペシしてやれば、そのへんのチンピラなんて、一発で震え上がるだろう。
近所ではちょうど、年度末恒例の道路工事をやっている。俺はその音に紛れるように身体を動かして、事務所の奥にあるベッドから起き上がると、そっと衝立の陰に隠れて、侵入者を待ち伏せした。
果たして、侵入者はしばらく事務所内を物色した後で、こちらに向かって来た……衝立の向こうに何があるのか、確かめに来たのだろう。
次の瞬間、俺はバッと素早い動きで衝立から飛び出して、侵入者の首に腕を回してガッチリとロックし、ナイフの冷たい刀身を、そいつの頬に当ててやった。
「動くな。大人しくしろ……ん?」
威圧する意志を込めた、低い声でそう言った俺だったが……すぐに俺は、自分の腕の中にある顔に対して、見覚えがあることに気づく。
次の瞬間、不知火灯は悲鳴を上げていた。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
一分後……そこには、アカリに対してひたすらに謝り倒す俺の姿があった。
「いや、すまん、ほんとにすまんかった」
「おおおおおおおおお犯されるのかと思いました! 三日三晩犯され続けてボロ雑巾のように捨てられるのかと思いました! なんてことするんですか!」
「いや、でもな……一言もなしに入ってくる、お前も悪いだろう」
「はあ? 声なら何度もかけましたよ! 私は一時間も前にここに来て、ケンイチさんが寝てるのを見つけたのに、起こそうとしても起きなくて、しょうがないから事務所の中を掃除して、コーヒーを入れて、事務所の前の掃き掃除までしてたんです!」
「そ、そうなの……?」
え? そこまでしてたのに、俺って起きなかったの……? ベテラン冒険者としての研ぎ澄まされた感覚は、一体どうしちゃったのかな……?
「ついでに言うと、この大都会で、鍵を開けっぱなしにして寝るなんておかしいと思います! あまつさえ、声をかけられても起きないってどういうことですか!? もし私が泥棒だったら、どうするつもりだったんですか!?」
ボロクソに言われてしまう俺。さすがにムッとなる……え? それは逆恨みだろって? うるせえ黙れ!
「な、なんで会って二日の十五歳からそんなことを言われなきゃならんのだ……大体、熟睡も冒険者としての能力のうちなんだよ。物音がしても起きないほどに熟睡することによって、今日の疲れを明日に残さず、万全の体制で次の冒険に備えることができるんだ」
「へえ……そういうものですか」
明らかに疑っている様子のアカリ。この話題はまずい。さっさと切り替えよう。
「んなことより、なんだお前、その格好は?」
「え? この格好が何か? 動きやすい服装で来いって言われたので、こうしてみたんですけど」
言って、手を広げてポーズを取ってみせるアカリ。
うーん……俺はファッションには疎いので、何て言うのかわからない……わからないが……
「確かに動きやすそうだが……なんか、山ガールみたいだな」
「山ガール?」
「昔、そういう言葉が流行ったんだよ」
「……エロい言葉ですか?」
「ちげーよ! 俺をなんだと思ってるんだ」
「すいません、さっきのをまだ引きずってて……で、この服装じゃダメなんですか?」
「ダメってわけじゃないが……まあいい。足りない物は、買いそろえればいいさ」
「か、買いそろえる、ですか……?」
顔を引きつらせたアカリを見て、俺は不思議に思う。
「なんだ? 何か不都合でもあるのか?」
「わ、私……お金ありません……」
「なんだ、そんなことか」
俺はやれやれと肩をすくめて言った。
「んなこたあ、お前が心配することじゃねえよ……さて」
悲鳴が上がってからしばらく経ったが、工事の音で悲鳴がかき消されたのか、警察が来る気配はない。ここを離れても問題はないだろう。
「今日は忙しくなる……早めに出るぞ」
「あー……」
何か言いたそうなアカリ。
「今度はなんだ?」
「コーヒー……せっかく入れたので、飲んでからいきませんか?」
「……まあいいだろ」
アカリはポットからマグカップにコーヒーを注いで、俺に渡してくれる。
「カフェイン入りとノンカフェインがあったんですけど、カフェイン入りで良かったですよね?」
「あ、ああ……」
「砂糖とミルクは?」
「いらない」
そう言ってマグカップを受け取った俺だったが、俺は渡されたコーヒーにすぐには口をつけず、しばらくの間、その黒い液面を見つめていた。
(最初の部下が、初めて入れてくれたコーヒー、か……俺も今日からは、本当に「所長」になったんだよな……)
なんて、俺が漠然とそう思っていると……不意に、アカリからじっと見られていることに気がついた。
「な、なんだよ?」
「べっつにー? なんでもないでーす♪」
「……さっきから思ってたが、お前、新人のくせに態度がでかすぎだぞ」
「えー? そんなことないですよー?」
「ったく……」
これ以上何を言っても受け流されそうだと思って、俺は黙ってコーヒーを飲み始めた。
所長業初日のコーヒーは、ほろ苦い味がした。