あとがき
これは、『恋文:2017』のあとがきだ。クーラの書──つまり私──の中に記録された恋愛譚。その内の一つに、私は初めてあとがきを書くことにした。あとがきと言っても、ただ登場人物たちのその後を私が紙片を使い記録したものだ。私が彼らのことをもう少しよく知るために。
薄暗いワンルームマンションの一部屋。日も落ち徐々に暗さが増していく中、黒鵜カイはフローリングにクッションを枕にして仰向けに寝そべっていた。
「………」
ライダースジャケットは脱ぎ、ハンガーに掛けクローゼットに仕舞われている。彼の横にある小さめのテーブルには何も置かれておらず、生活感が感じられない。それどころか、部屋全体がまるでモデルルームであるかのように小奇麗で、人など住んでいないかのようだった。
黒鵜カイは暗くなる部屋に構わず、今度はうつ伏せになり顔をクッションに埋めた。
この部屋は彼のいくつかある拠点の一つである。そのどれもが東京周辺にあるのだが、ここが一番京都から近い拠点であった。
京都での一件の後、彼はその場に留まり京都支局長物部伽藍らと出来うる限りの必要な処理を行い(翌日までかかった)、そのままこの拠点に帰宅した。シラウオ改めトビウオを運転する気力も無く、付近に駐在していた他の機構の班に要請してバイクもろとも車で拾ってもらったのだ。
クッションに顔を沈め目を閉じてはいたものの、車で爆睡したため眠れはしない。生活リズムの大幅な乱れによって生じた気だるさが、カイの体を起き上がらせなかった。
(…腹が減った)
カイはうつ伏せのまま顔を上げ、ズボンのポケットから携帯を取り出すと慣れた手付きで出前サイトを開く。指は動かしながら、頭では別のことを考えていた。
(今回の事件、エトセトラは結局関わっていなかった…終わってみれば単なる機構内のトラブル、トラブルと一言で言えるような規模じゃなかったが、ともかく日本の中だけで完結できて良かった)
決定ボタンを押す。携帯の電源ボタンを押して手を離すと、再度カイはクッションに突っ伏す。
(あんだけの火力の異端が野に放たれたら、世間一般に隠していたことがバレちまうだけじゃ済まねえ、下手すりゃ戦争が起こる。それがわかっていたから、物部伽藍は京都支局を贄にしてでも自分たちだけでなんとかしようとしたんだろう)
長時間の活動のせいで頭が重い。そもそもカイは健康な方ではない。異能力での相当の無茶をしたツケが回ってきていた。
(精神の書…いや、クーラの書だったか、あいつは大人しく捕まってくれたらしい…ご丁寧に衣鳩ヒロマサの記憶を消し、ついでに高校の担任と生徒全員の記憶まで改竄して、だ。何故そこまで協力的なのか、少し不気味だがまあ今は良しとしよう…八瀬童子は再び京都支局の元に収まった……となると、目下の心配は…)
ここでカイは寝落ちた。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
オールバックから二三本の髪束を額に垂らしつつ、カイはのそりと立ち上がる。もう部屋は真っ暗になっており、カイは手探りで部屋の電気をつけた。
(何分寝た…?いや今はいい、それより腹が減った)
そのままカイは廊下を通り玄関の扉を開け、宅配のピザを受け取る。暴力的に食欲を刺激するチーズとソースの匂いに期待しつつ、カイが部屋の方に向き直ると、
「出前でピザって、ベタ過ぎてダサいね」
目の前に逆さまの女の顔があった。
その女の顔をカイは必要最低限の動きで避けると、部屋に戻りクッションに座って机の上にピザを広げた。
その直後、逆さまの女、すなわち桃は頭から廊下に落ちた。桃は数秒床にへばりついて沈黙すると、頭を押さえて顔を上げる。
「無視はないでしょ無視は!!」
「テメエなんだってここにいやがる」
あぐらでピザを食べながらカイは聞いた。その目は決して油断しておらず、現に手元には何時でも応戦できるよう例のカッターが用意されている。頭を押さえて涙目になっていた桃は、訴えるような口調でカイに言葉を投げる。
「…責任を、取れ」
「…は?」
カイは眉を顰め、次のピザに手を伸ばす。
「お前のせいで…お前のせいで私は…!」
「死ねなかった?」
「………」
「…そうじゃないだろ」
(死ぬつもりで、あの世で母親にでも会うつもりで…あのバケモンに向かっていって、死にきれずに中途半端に周りの人間との縁だけ切って結局行くあてもなく…ってところか)
カイはピザを飲み込んだ後、鼻で笑って言う。
「八つ当たりにもほどがあるが…で、テメエはどうしたいんだ?テメエは俺にどうして欲しいんだ?何かあるからわざわざこんなとこまでつけてきたんだろ?」
その言葉に桃は拳を握り込み、沈黙する。そして躊躇いがちに口を開く。
「私は…」
その直後、なんとも言えない奇妙な表情をした桃は、ゴトリと額を打つように床に突っ伏す。同時に、桃の腹の虫が鳴き声をあげた。
「………お腹が空いた…寝る場所が欲しい…あとお風呂入りたい」
「………」
その様子を見たカイは、数秒沈黙した後思わず笑ってしまった。
(人のことベタ過ぎてダサいとか言って、こいつの方がよっぽどベタじゃねーか)
毒気を抜かれたカイは座っていたクッションを引き抜き、テーブルの横に置いた。そして次のピザに手を付けながら言う。
「…早くしねえと無くなるぞ」
その様子を伺っていた桃は重い体を引っ張り上げるように立ち上がり、おずおずとテーブルまで進むとクッションにぽすんと収まった。カイが言い忘れていたように告げる。
「そうだ、狭いからテメエ寝るのは天井な」
「はぁ!?」
その様子を見届けた私の紙片は、カイのズボンの右ポケットで活動限界を迎え、散り散りになった。
………
暦史書管理機構京都支局旧アーカイブ、書列102-24辺り。
(これと…あとこれもか。良し、こんなもんで一旦戻ろう)
本棚から数冊の古書を抜き出した七堂は、それらを脇に抱える。下を見やると、自分の登ってきた恐ろしいほど長い梯子と、10メートル以上続く本棚の谷底が見えた。
(下見たらダメだこれ…くそぉ、アーカイブの絡繰がお釈迦になってなければこんなことしなくて済むのに…)
旧アーカイブの絡繰とは、木製の歯車式蔵書取り寄せシステムのことであった。製作者はとうの昔に亡くなり、内部構造は複雑怪奇を極め、修理できる人間が今のところいないため現在は使用できる状態にない。彼女がわざわざ10メートルの梯子を登り本を手にしているのは、そういう理由からであった。
七堂は梯子で下まで降りることを諦め、新たに本棚から頑丈そうな本を取り出すと、自分の横の空間にその本を据えて能力を発動させる。すると、彼女が手を離してもその本は自由落下をすることなく、ゆっくりと並行を保ちながら下へ進んでいくようになった。彼女の能力は触れた対象の速度を操るものである。先刻の愛絶との決着の際も、その能力で物部祓を移動させるなどの活躍をしていた。
ボロボロの和装束の裾を踏まぬようたくし上げ、「ほっ」という掛け声と共にその本の上に飛び移る。バランスを崩さないように左手で足場にした本を掴みながら、本棚の谷底へと降りていった。
「…七堂。君は時々とんでもなく行儀が悪くなるな」
降りていった先には、しかめっ面の京都支局長、物部伽藍がいた。
「あっ…!そっか、そうですよね、すみません!!」
七堂は降下のスピードを速め、ある程度降下したところで本から飛び降り着地し、能力を解除して自由落下してきた本をキャッチした。
「旧アーカイブの絡繰が壊れてしまった状態で、無理を言って重要書物の回収を頼んだのは私だが…回収対象ではないとはいえ、その本も重要文化財級の書物なんだ、丁重に扱ってくれるとありがたい」
怒られてシュンとしてしまった七堂を置いて、伽藍は自らも古書を数冊小脇に抱えながら旧アーカイブの一本道を進んでいく。小柄な彼女の纏う和装束は元々は見事なものだったのだろうが、先の戦闘で七堂以上にボロボロになってしまっていた。それでも何層にもなる布は彼女の体の首から下を完全に覆い隠している。
本の塔を一本ずつ両手に抱え、七堂が伽藍に追いつく。後ろから伽藍の首元を見ると、襟足辺りが未だ青く染まっているのが見えた。
「伽藍様、その髪…」
言われると、伽藍は本を抱えていない方の手で首から髪を持ち上げてみせた。外側からは目立たなかったが、髪の内側は鮮やかな青に染め上げられている。
「後遺症のようなものでね。今は完全に愛絶の支配からは逃れているんだけど、力に晒された時期が長過ぎた…まあ、これはこれで良いんじゃないかと私は思うんだけどね」
興味深そうに染まった髪を眺めていた七堂は、軽い調子で言う。
「意外と可愛いかもしれませんね、それ。インナーカラーって最近流行ってるらしいですし」
「そういうことじゃ…いや、そういうことで良いのかな」
七堂の返答に首を傾げる伽藍。二人はそのまま一本道を進み、巨大な観音開きの扉を通って地下通路に出る。どこまで行っても変わらない板張りと行灯の通路を曲がり進み、木造の昇降機に乗り込む。七堂は本の塔を昇降機の床に置いた。
しばしの沈黙。昇降機の唸りだけが聞こえる。思い出したように、七堂が口を開いた。
「…この昇降機に、祓様と乗りました。今と同じように、二人並んで…」
伽藍は古書をなぞっていた手を止め、七堂を横目で見る。
「私はあの時、祓様を止めることが出来ました。あの時点では愛絶からの距離も遠く、そもそも愛絶からの支配の程度も高くなかった。私は、思考、発言に関してはある程度の自由がありました。全力で抗えば、この昇降機の時点で祓様に気づかせることも出来たはず」
うつむく七堂の顔は、彼女の髪に隠され見ることが出来ない。
「けれど私はあの子を止めなかった。…あの子は伽藍様と違って普通です。私の中ではいつでも泣き虫の祓様なんです。でも、やっと普通の生活を送っていたあの子に、私は異端と相対することを選ばせた…それが、今でも正しかったのかなって、結果は関係なく、あの場の判断として…祓様の一番の付き人として」
耳を傾けていた伽藍はふっと笑うと、呆れたような顔で七堂に返す。
「私にそれを言うのか?」
七堂はパッと伽藍の方を向いて、焦りで顔を赤くしながら否定する。
「いやいやいや違うんです…!伽藍様のことを言ってるわけじゃ…!」
「違っても違わなくても、私が祓に過酷な役目を押し付けたことは変わらない。鍔を持たせ、祓を愛絶に対する保険にしたのはこの私だ。…そしてきっとお前と私は、共通の理由をもってあの子に『そういう役回り』を任せたはずだ」
伽藍は七堂の目を真っ直ぐに見て、告げる。
「それは信頼だ。違うか?」
ガコン、と鈍い音と共に昇降機が止まり、扉が開く。伽藍の真っ直ぐな言葉に七堂は息を飲んだ。伽藍はまばたきで視線を外すと、どこか遠くを見るような目で話す。
「私は祓を誰よりも信用している。あの子はお前が言う通り普通で、泣き虫だ。でも重要な時だけは、あの子は泣かない。…そもそも、中庭の蛇を危険だと思って素手で殺してしまうような子だ、なんだかんだ私の妹だということなのさ」
そう言って楽しげに口の端を上げ、昇降機の扉から廊下に出る伽藍。伽藍が歩いていく建物は所々大きく崩れた所があり、そこから夜明け前の冷たい清浄な空気が流れ込んでいた。
七堂が本の塔を抱えながら伽藍に追いつくと、伽藍はわざと明朗に告げる。
「そして七堂、お前もあの子を信用している。それとたぶん、祓に鍔を任せた私のことも。…正解なんて誰にも分からない、だけど、私達はお互いに信用しあっていたんだ。その結果の是非はまだ出すべきじゃないが、その理由くらいは認めても良いんじゃないかと私は思うよ」
その言葉は七堂の心のわだかまりを和らげたらしく、七堂は照れくさそうに微笑んで「…はい!」と頷いた。
そこで唐突に伽藍が足を止める。
「そしてもう一人、私の信用する人間がもうすぐ到着する」
二人は建物の崩落した部分に差し掛かっており、見上げると夜明け前の澄んだ空が見える。その中を騒々しいヘリコプターが一機、こちらに向かってきているのがわかった。
「別件でたまたま近くにいたところを、愛絶再封印のために呼び出した。…イデア研究の第一人者、万年白衣の変人少女、セーラ・シュタインだ」
ヘリコプターの開いたドアから伽藍たちを見つけたセーラが、手を振った後ふざけてピースとウインクを決めた。
そこで活動限界を迎えた私の紙片は、七堂の背中側の帯に挟まれたまま、ボロボロと崩れて消えてなくなった。
………
(私はここに居てもいい人間じゃない)
常之浦高校二年D組、なんの変哲もない教室の左端後方の席で、祓は冷えてしまった指先をこする。
指先が冷えたのは、寒さのためだけではなかった。修学旅行明けの『普通の一日』を過ごして、彼女自身の精神と日常との間に決定的な違いを感じた。そのことが、彼女の頭を底冷えさせていた。
(私は昨日世界の終わりのような破壊をこの目で見た。瓦礫の山をよじ登って、倒れてきた建物に吹き飛ばされた。普通の、この教室にいるような人たちなら恐怖で動けなくなるくらいの異常な事態…)
帰りのホームルームが終わり、各々が騒がしく帰宅や部活の準備を始めている。飽きるほど見た、『普通』の光景。その中に、彼女も溶け込んでいる。超常の力も、異常な肉体も持たず、悩みなんかを抱えながらも、普通に生きていく者たち。彼らと祓は何の変わりもない。そう思っていた。
(それなのに、どうして私はあの場で動けた?何の力も持っていないのに?)
早めに帰宅の準備を済ませた者が教室を出始める。祓は手は動かしながらも上の空で、疑問を頭の中でぐるぐると回転させる。
(私はたぶん、オカシイんだ。今までバレないように、自覚しないように、『普通』を装ってきたけどもうそれはできない。皆と同じ『普通』にはなれないことが分かってしまった。もう一度前と同じように装うことが、どれだけ空虚で後ろめたいか、今日一日で嫌というほど実感した)
部活へ向かうだろう友人たちが、バッグとラケットケースを背負いながら祓に声を掛け手を振った。祓も返事を返したが、うまく笑えていたかには自信がなかった。ただ、『普通』はまだ自分に挨拶してくれるのだということに、祓は少しだけ安心した。
(それでも、この場所に残りたいと願ったのは私だし、それをお姉ちゃんは許してくれた…この『普通』からまだ離れたくない気持ちは変わらない)
祓は手を速めてバッグの中に荷物を放り込み、帰宅する友人たちの流れに遅れないように急いで立ち上がる。そこでふと、祓は動きを止めてしまう。頭の中で嫌な考えがのたうつ。
(だけどそれは、この『普通』にとって、良いことではないかもしれない。異常な出来事がいつあの時みたいに私の前に現れるかわからない、そうなった時に私は今ある『普通』を脅かしてしまうことになる。だから私は……)
表情に出ないように、葛藤を体の中に押し留める。沼の底で息を止めているような感覚。この息苦しさを紛らわせようと、祓は無理矢理足を動かして歩き出す。その視線の先に、ある男子が入ってきた。
衣鳩ヒロマサ。廊下から呼ぶ友人に返事をし、荷物をまとめて席から立とうとしている。
彼は昨日、祓と同じく京都支局にいて、祓の目の前まで落ちてきて、祓にお守りを投げ渡したはずの男だ。だが彼がそのことを話す素振りは無く、祓には全くもっていつも通りに過ごしているように見えた。
十中八九記憶でも消されているのだろう。昨日のことを問い詰めようとも思ったが、意味のないことだ、と祓は話しかけることを断念しようとした。
(………)
それでも、体が衣鳩の方へ向かうのを祓は止めることができなかった。祓は進路を変え、衣鳩の元へと歩いていく。自分が何を聞きたくて、自分が何を確かめたいのか。戸惑う衣鳩の前に立った途端、その全てが抜け落ちていくのがわかった。自分が何故今衣鳩に声を掛けたいのか、その理由もわからないまま、祓は小さく息を吸った。
廊下から滑り込んだ隙間風が、祓のスカートのポケットから紙片をさらう。活動限界を迎えた紙片は、繊維にまで解けて空気に溶けた。
衣鳩ヒロマサは『恋文』の主人公だ。凡庸で臆病、臆病故に感情の機微を読み取る能力が人より長けており、臆病故に自分で決めることをせず、人に流されやすい。私は彼を御することなど簡単だと思った。私好みのハッピーエンドにすることなど、容易だと。
だから、私が彼の行動を操作するために脳に直接送った念波、つまり彼に見せたビジョンを弾き飛ばされた時、私は衝撃と共に思い知らされた。
『私は何も知らない』のだということを。
記録すべき恋愛譚に、私が干渉し結果を捻じ曲げようとすることは本来あってはならない。自分で決めたその信条を、私はいつの間にか忘れてしまっていたようだ。私は愛絶とそう変わらないことをしようとし、そして拒絶された。そうして気付かされた私は、今せめてもの罪滅ぼしのようにこの文章を綴っている。
彼のその後については敢えてこのあとがきには書かなかった(もちろん紙片で観測はしていたけれど)。彼の物語はあれで幕を閉じて、それより後のことは私が記録する余地は無い。それが彼、『恋文』の主人公に対するけじめというものだ。
ただ一つ、願わくば彼が再び私を手にとらんことを。その時、やっと私は彼の物語の続きを記録することが出来るのだから。