崩れたアリバイ
翌朝。日が昇るより早く村に戻った凛は、瞬間移動を駆使して、どうにか他人に見られることなく、家の中に入り込んだ。
まるで今起きたかのようにムシロを壁にかけ、枕を部屋の隅にやり、伸びをしながらのれんを捲ったのだが。
「……昨晩はよく眠れたか、リン殿?」
ムスっとした顔のルビィが、凛をお出迎えした。
不穏な空気を感じつつも、凛はルビィを怒らせた覚えがない。
夜中の間に村で何かあったのだろうか。
「……何かあったんですか?」
「何か、あっただと?」
ルビィはズカズカと歩み寄ると、赤茶色の髪を掻き毟り、凛を睨みつけた。
「何も、なかったから! 私は怒っているのだ!」
「な、何もって……」
「リン殿! リン殿は昨晩、どこに行っていた!?」
凄まじい剣幕に、凛は動揺する。
「ど、どこにも行ってませんけど」
「嘘を吐くな! 私は見たぞ、昨晩リン殿の寝床には、誰もいなかった! 便所かと思って暫く待ったが、一向に戻ってこなかった!」
ルビィは怒鳴りながら、ボロボロと涙をこぼし始めた。
凛はさらに困惑する。何故泣いているのか、全く分からない。
この世界の人間は、夜に人が消えると、不安になるのか――。
そこまで考えたところで、凛はようやく騒ぎの理由に合点がいく。
魔物が平気で生息する世界。
鍵も扉もない生活で、夜間いきなり人が消えたら、魔物に襲われたと疑ってもおかしくない。
昨日接してみて思ったが、ルビィは責任感の強い娘だ。
自分が村に呼んだ人間が、夜いきなり姿を消した。もし魔物に襲われていたら。そんなことになれば、自分を責めるに違いない。
勝手に家を出ていたと明かせば、ルビィは凛に危険が及んだのではと、不安に駆られるに違いない。
これは、家から出ていないということで、押し通したほうが都合が良さそうだ。
「……天井も、見ましたか?」
「天井だと?」
「ええ、天井です。たまに俺、夜に天井にへばり付いて寝るんですよ」
「……何でそんな、虫みたいな真似を」
「えっと、身体を……鍛えるため? です……」
きょとんとした顔のまま、ルビィは涙を溢れさせ、目だけは凛を睨みつけている。――不思議な表情になっていた。
ルビィは混乱した様子で、肩で息をしていたが。
ぐしぐしと眦を擦ると、くるりと背中を向けて歩いて行った。
「……とにかく、リン殿が無事で良かった」
「ご心配をおかけして、すみません」
「全くだ! 天井にへばり付く趣味があるなら、最初に言っておいてくれないと困るではないか! 私がどれだけ、どれだけ――――もういいっ!」
肩を怒らせ遠ざかるルビィを見送ってから、凛は胸を撫で下ろす。
何とか誤魔化せたようだ。
しかしやはり、このまま村に滞在するのは、色々と不都合が生じそうである。
ここは出来る限り早く、サロンギアの村を出るということで計画を進めた方が良さそうだ。
やれやれと肩を回すと、後ろからにゅっと伸びてきた手が、凛の顔をガシっと掴んだ。
「――え」
「ルビィのかたきー!」
「あだだだだだっ!」
ぐにーっと両側の頬を引っ張られ、凛は驚きのあまり「瞬間移動」でその場を逃れた。
視界がブレた程度の、微かなテレポート。超常現象によるものだと、疑われることはないだろう。
「おー。ボクの腕力から逃れるとは、流石はルビィの目に留まった男の子だねえ」
地面に倒れ込み、声のする方を見やる。
ルビィやミアと比べてやや黒髪気味の女が、ニヤニヤと笑いながら凛を見下ろしていた。
「顔を合わせるのは初めてかな。ボクは第5狩猟隊の隊長をやってるミガサだよ。ルビィから話くらいは聞いてるんじゃないかな?」
むっちり豊満な肉体をルビィと同様のビキニアーマーで支えたミガサは、ニヤついたまま凛に近づいてくる。
遅れて、背筋に冷たい汗が流れる。触れられるまで、背後に誰かいるとは気づかなかった。
暗殺部隊の部隊長。その役職は、伊達ではないようだ。
「きみもボクと似たような技を使うって聞いて、ちょっと興味を持ってたんだ。そんで、夜中にどうしても会話してみたくなってね。ルビィに呼んできてもらおうと思ったら、部屋にいないって大騒ぎさ」
「ご迷惑をおかけしたようで、すみません」
「はっはっは。謝るならボクじゃなくてルビィの方に頼むよん。ルビィってばずーっと、きみのこと探して村中駆けまわってたんだからね」
想像していた以上に、お騒がせしてしまったらしい。
後で顔を合わせたら、改めて謝罪しておいた方がいいかもしれない。
「しっかし天井に張り付いていたとはねー。そりゃルビィも見逃すわけだ」
「ルビィさんには、悪いことをしちゃいましたね」
「にゃははん。でも結局、ルビィの早とちりだったんだから、きみが責任を感じることはないんじゃないかな」
ニマぁっと口角を吊り上げ、ケタケタと笑うミガサ。
何がそんなにおかしいのかと思っていると、彼女は凛のすぐ隣に身を屈め――。
「良かったね。ルビィが天井まで確認してなくて」
冗談めかした語調で、耳元に囁いてきた。
「な、何のことやら」
「ボクはちゃんと確認したよ。天井の隅々まで、明かりをかざして。……部屋の壁を登るくらい、わけないからね」
「…………」
「夜の間ずっと天井に張り付いていられるきみなら、壁を登るのがそれほど難しくないことくらいわかるだろう? 壁登りすら出来ない人が、凹凸のない天井に張り付けるわけないもんね」
アーマー越しの胸を押し付け、ミガサはふぅーっと耳朶に息を吹きかけた。
生温かい吐息に、怖気が走る。
「まあ、わけは聞かないでおくね。……きっときみは、本当はボクよりすごい力を持っている。分かるんだ。多分きみが本気でボクを倒そうとすれば、今だって簡単に遂行できる」
「…………」
「サロンギアの狩猟者の本能を、舐めないで欲しいな。きみの傍にいると、さっきから身体が疼いて仕方がない。ルビィが参っちゃうわけだよ。ボクだってさっきから、ドキドキしっ放しなんだからね」
うっとりとした声音だが、それが演技か本心か、悟るだけの経験は凛にはない。
「無駄な争いを好まないきみの性格を、有難く思っておこう。でも一個だけ、苦情を言わせてもらおうか。……あまりルビィに、妙なことを吹き込まないでおくれよ。あの娘は純粋だから、きみの言うことなら疑うことなく鵜呑みにしちゃうからね」
耳元に弾ける荒い吐息から逃れるように立ち上がると、ミガサも一緒になって腰を上げた。
「きみはこの村にいない方がいい。強者に惹かれるサロンギアの牝にとって、きみという存在は騒ぎの素だ」
「俺も、出来るだけ早くこの村を出るつもりでした」
「だろうね。でなきゃ夜にいきなり姿を消したり、ルビィにあんな冷たい態度をとることもなかっただろうし」
ピッタリと身体を寄せ、吐息のかかる距離で凛を見つめるミガサ。
本来女に密着されると男として喜ばしいものだと思っていたが、ミガサの場合緊張と圧迫感しか与えてこない。
「きみの印象が悪くならないように、どうにか村を出る方向に話を持って行ってあげよう。……なぁに、心配はいらない。これでもボクはエリート部隊の部隊長。村長ほどではないにせよ、発言力はある身分なんだよ」
「ケルベロスのことは、どうするんですか?」
「ケルベロスは、ボクが退治したことにしよう。代わりの死骸なんて、いくらだって用意できる。暫くはミアのことも特別に監視することにしよう。そうすれば、彼女が危険に晒されることはない。……ボクより強いきみが、手負いのケルベロス程度に手間取ったりしないだろう?」
ミガサの提案は有難い。
村から出ないことには、凛もこの世界で暮らしていくかどうかの算段が付けられない。
彼女の言い分から推察するに、凛の味方かどうか云々以前に、ミガサはミガサで凛の存在を疎ましく思っているのだろう。
だが手を出せば、やり返される可能性が高いと踏んでいる。だから、暗殺部隊の部隊長が、交渉という平和的な所業によって、凛を懐柔しようとしているのだ。
確かに凛が本気を出せば、この瞬間ミガサをバラバラにすることも出来る。
部屋中に残像を作って埋め尽くせるほどの速度で、瞬間移動を連続して使用出来るのだ。
最初に背後に立たれた瞬間――あの時喉を掻っ切られなかった時点で、ミガサが勝利する道は完全に途絶えていた。
「つまり、敵対する必要はないということですね」
「うん。きみだって余計な労力は費やしたくないだろうし、ボクも今の生活が気に入ってるからね。強い者同士で潰し合うなんて、何より愚かなことさ」
「ミガサさんとは、話が合いそうです」
「ありがとう、きみみたいな魅力的な男の子にそう言ってもらえるのは、すごく嬉しいよ。……でもボクがきみの立場だったら、天井に張り付いてたなんて馬鹿馬鹿しい嘘はつかないだろうケド」
キシシっと歯を擦り合わせるようにして笑い、ミガサはパッと凛から離れた。
「心配しないで。きみを村から追い出すとはいえ、ルビィを傷つけるようなことはしない。彼女はボクの親友だからね。そこは安心していてほしいな」