残された時間
メモを片手に大通りを巡った凛とアルディラだったが、文字の勉強は思うように進まなかった。
「あれは何じゃ?」
「えーと、『酒場』ですか」
「そう思うのなら、入店してみるがよい。まず間違いなく、変な顔で出迎えられるぞ」
「……あ、婦人服屋かココ」
店の横を通ると、ウィンドウに真っ赤なドレスが飾ってあるのが見えた。
ガラスに似た素材の壁には、凛とアルディラもその姿を映している。
アルディラは呆れ顔で、ウィンドウに映った凛を見やっていた。
「じゃあ次。アレは何と読む?」
八百屋らしき露店に立てかけられた札を指さされ、凛はさりげなく視線を巡らせる。
すぐ傍に陳列された商品を見やり、自信満々に回答する。
「『アプリア』ですね」
「可哀想に……。無一文じゃから、値段という概念が浮かんでこないんじゃの」
カンニングすることも念頭に入れて、わざと意地悪な問題を出したらしい。
とはいえコレは別に、凛が無気力だとかアルディラの教え方が悪いというわけではない。
どの文字も軽やかに崩され、この世界の文字と接し慣れていない凛にとっては、グチャグチャっと適当に書いたようにしか見えないのだ。
図形か記号として覚えれば良いと思っていたが、甘かったようだ。
習ったことのない外国の文字は個々の区別がつかないのと同じで『酒場』も『アプリア』も『定休日』も、どう読めば良いのか分からない。
おかげでせっかくのメモも、役に立ちそうになかった。
「その識字力でよく外国暮らしをしようと思ったの……」
意気揚々と凛の腕を引き表通りを駆けまわっていた頃の元気はどこへ行ったのか。
二人とも識字の勉強への意欲をなくし、ただ意味もなく通りをぶらつくだけになった。
「……少し疲れたの。そこの酒場で休憩しよう」
「俺無一文ですけど、大丈夫ですか?」
「心配いらん。2人分の酒代くらいならなんとなかる」
アルディラの発言を信用し、近くの酒場で休憩タイムにする。
景気のいいことを言っておいて、二人とも注文したのはアプリアの搾り汁だった。
まだ夕暮れ前だからか、客の数は少ない。
馬鹿騒ぎをするような粗野な輩もおらず、店内は静かな雰囲気に満ちていた。
「意外と治安がいいんですね」
「そうでもないぞ。日が落ちれば、血気盛んな輩たちがそこらで大暴れじゃよ。……まあこの店は、店主が真面目な男じゃから、素行の悪い輩は滅多に寄り付かんがの」
丸テーブルに置かれた木工細工を指でなぞり、アルディラは慈しむように目を細める。
窓から漏れる午後の日差しも柔らかく、時間がゆっくり過ぎていく感じだ。
いい雰囲気の店とは、こういう店のことを言うのだろうか。
頬杖をつき、木製のコップを傾けるアルディラ。
物静かな時に浸っているその姿は、穏やかで実に絵になるなと凛は思う。
見つめている凛の視線に気づいたのか、アルディラは頬を染め、薄く含み笑いを浮かべた。
幼い顔つきに微かな大人っぽさを感じ、凛は思わず胸が高鳴る。
木工品を撫でていたアルディラの手に、指を伸ばす。
さっきまで並んで繋いでいた手だが、触れた途端、痺れるような温もりが弾けた。
「……綺麗ですね」
「年寄りをからかうもんじゃない」
「いえ、この木工細工。開いた花弁まで、こんなに細かく削り出すなんて」
「耳まで真っ赤になっておいて、よく言うわ。そんな素直な反応で、よく妾を誤魔化そうと思ったの」
慣れないことはするものではない。
凛は手を引っ込め、アルディラから目を逸らす。
落ち着いた雰囲気がそうさせたのか。柄にもないことをしてしまった。
「身体を求めておけばよかったと、後悔しているんじゃないかの?」
「いやそれはないです。流石に幼女同然の身体に欲情しないので」
「むぅ。少しは照れろ。無理に強がっても、得なことはないぞ」
「もし俺がアルディラさんの身体に欲情するなら、路地で出会った時に本気で求めてますよ」
コップを煽り、ドロッとした搾り汁を喉に流し込む。
見た目はリンゴそのものだったが、リンゴジュースと比べて甘みもなく、舌触りも悪くスカスカしている。
アルディラが青森産のリンゴを絶賛したのも、今なら分かる気がした。
「…………」
沈み始めた太陽が、店内に赤い光を放つ。
眩しさに目を細めつつ、凛はずっと一つのことに思考を傾けていた。
アルディラとの出会いで、引っかかっていることがある。
最初に違和感を覚えたのは、身分証の発行を引き受けてくれた時だった。
確信したのは、この店に入り――一緒にアプリアの搾り汁を楽しんでいる時だ。
「何じゃ、ジロジロ見て。どうしても我慢できなくなったら、今からでも遅くないぞ。誠意をもってお願いすれば、考えてやらぬこともない」
コップを空にしたアルディラは、給仕の女性を呼び、お代わりを注文した。
一緒にどうかと問われたが、凛はまだ半分程度残っているので遠慮しておく。
疑惑を口にするのは簡単だ。
今ここで、どうしてあんなことになっていたのか、はっきり問い質せばいい。
もしかすると矛盾点を感じているのは凛だけで、理路整然とした解答が得られるかもしれない。
それに越したことはない。
「あー、やはりアプリアは美味いの!」
口の周りにアプリアの搾り残しをくっつけ、満足げに息を吐く。
「飲みながら言うのもなんじゃが、お主に貰ったアプリアには敵わんな。アレは規格外の甘さそして初めて体験するほどの瑞々しさじゃった。気が向いたら、どこで買い求めたモノか教えてくれんかの?」
「機会があったら、お教えしますよ」
「そうか。楽しみにしておるぞ」
結果三杯のアプリアジュースを飲み干したアルディラは、大満足といった様子で店から出た。
ぽっこりと膨らんだお腹を撫で、アルディラは名残惜しそうに件の酒場を何度も何度も振り返っていた。
やがて道の外れまで来ると、アルディラはくるりと身体をこちらに向けた。
「じゃあの。今日は楽しかったぞ」
「こちらこそ、身分証の発行だけでなく、観光案内までしていただいて。とても感謝しています」
「妾も――お主に感謝しておる。久しぶりに若い男と遊べて、楽しかった」
沈黙が、二人の間に芽生える。
絶妙な空気。二人して別れの挨拶をしたのに、どちらもそこから離れようとしない。
アルディラはアルディラで、路地に入ろうとはするものの、結局すぐに回れ右して凛の前に戻ってくる。
凛も人目に付かない場所を目で探しつつ、何だかんだ理由をつけてその場に留まっている。
「…………」
「…………」
黙ったまま、お互いにけん制し合う。
ともあれこのままでは埒が明かない。
逡巡する弱さを振り切って、凛はアルディラに近づく。
やはりあの疑問は問い質した方がいい。
万が一このまま彼女と再会する機会がなかったら、勇気を出して聞かなかったことを、凛はきっと後悔するだろう。
「のう、お主」
だがしかし、先に口を開いたのはアルディラの方だった。
胸当ての中をゴソゴソと漁り、アルディラは見覚えのある木版を取り出す。
両手で大事そうに持ってから、彼女は観念したように、それをずいと凛に向けて差し出した。
「すまんが、コレを預かってくれんか」
アルディラが差し出したのは、彼女自身の身分証のようだった。
凛はそれを受け取らずに、温度のない目線で彼女を睥睨した。
「……いつまでですか」
「明日の昼――いや、朝を迎えたら、ソレを持って役所に出向いて欲しいのじゃ。さっきお主の身分証を発行してくれた男に渡してくれれば、それでいい。それ以上のことは、考えなくていい」
震えた手で突き出されるそれを、凛は受け取ろうとしない。
いつもへらへらした凛には珍しく、口は真一文字に結ばれ、眼差しは酷く冷たかった。
「受け取る前に、俺からの質問にも答えてくれますか?」
「……ああ、何じゃ?」
「何故お金があるのに、アルディラさんは――最初に俺と出会った時、路地で行き倒れてたんですか?」
アルディラの目が微かに見開かれる。
凛がずっと疑問に感じていたのは、そこだった。
いくら付き合いの長い友人のお願いとはいえ、身分証の発行が無料でこなせるはずがない。
彼女は確かに、凛の前で金銭を支払った。
その時は単に、食料を買い求めるには足りない少額だったのだろうと自分を納得させたが、酒場に誘われた時に疑いは色濃いものとなった。
「俺はてっきり、アルディラさんはお金がなくて――空腹で倒れているのだと思っていました」
金欠の原因が浪費か追剥ぎか、その辺りは分からなかったが。
リンゴを与えて復活したところから、食べる物に困っているのだろうと、そんな印象を抱かせた。
だが彼女は、所持金があった。酒場で飲み物を凛の分含めて4杯も飲めるほどの、充分なお金が。
「…………」
目の前ですっぽんぽんになって背中を晒した時、暴行された跡は確認出来なかった。
暴漢に襲われたようでもない。
それでは何故、アルディラはお腹を空かせて――人目に付かない路地で倒れていたのか。
「……何も考えていないような顔をして、意外と鋭いんじゃの」
諦観したように、アルディラは天を仰ぐ。
「それをこのタイミングで尋ねてくるということは、大方の想像はついとるんじゃろう?」
「ええ。……それも一刻を争う事態だということを、さっきの発言で確信しました」
しかし凛には、それを想像することしか出来ない。
何故なら凛は、この世界の常識を知らない。あらかじめその瞬間を知る術があるのか。またはそれを知るのは異常なことなのか、判断しかねていたから。
「……後処理を任せようとまでした相手じゃ。お主になら、話してもいいかもしれんの」
アルディラは腰に付けた袋を開けると、そこから小さな砂時計を取り出した。
今も僅かに砂を零すそれを大事そうに手で包み、アルディラはそれを凛に見せつける。
「コレは妾の、寿命を示している」
凛の予想が当たった。
やはりアルディラは、死ぬタイミングを事前に知っていた。
「この砂時計の砂が全部こちら側に落ちれば――妾は、死ぬ。それは抗えん事実じゃ」
気丈に振る舞っていたが、とうとう限界が来てしまったか。
崩れ落ち、嗚咽を漏らすアルディラ。
彼女の持つ砂時計には、ほんの僅かしか砂が残っていなかった。