竜の目を持つ者
身分証の発行は、すぐに済んだ。
特殊な木版に血を垂らし、内部に埋め込まれた特異な鉱石に馴染ませる。
血液と反応した鉱石は内部で別の物質に変化し、二度と元の鉱石には戻らない。
変化した物質は適合する体液と接近すると、僅かな光を発する。それで本人確認が出来るそうだ。
説明を脳内で反復しながらも、凛は内容をほとんど把握していない。
どういう原理なのかアルディラに聞いたが、分からないと言われた。
「国や役所の使う妙な道具は、ほとんどが賢者や魔女といった偏屈人間が発案したものじゃからな。凡人には理解できないのが当然じゃ」
魔女という言葉を口にした瞬間。アルディラの顔が少し強張ったように見えた。
しかしすぐに表情を戻すと、アルディラは「ところで――」と凛の顔を見上げた。
「お主、文字すらも書けないのか」
「すみません。アルバトロスには来たばかりなので、文字の勉強はしていなくて」
「異国の文字でもいいと説明したじゃろうに。まあどっちみち妾が翻訳するのじゃから、かかる手間はそう変わるわけではないがの……」
登録や名前の確認は、凛が口頭で説明し、それをアルディラに記してもらったのだ。
使われている文字は英語の筆記体と酷似していたが、解読することは出来なかった。
苗字は明かしていない。名を聞かれ「リン」と答えたら、それ以上は聞かれなかったからだ。
ちなみにアルディラは、この世界に存在する『文字』なら、異国のものでも失われた古代文字でも、読み取ることが出来るらしい。
「まだ年若い頃――傷ついたワイバーンを救ったことがあっての。その時に、竜から授かったのじゃ」
赤紫の瞳が片方、じんわりと黄色く滲んでいく。
アルディラの言う“竜”は、フロンドロイアの大森林を管理する“竜”とはまた別種の個体だそうだ。
この世界には統括する地方の名を持つ“竜”が7つ存在し、自身の名を課された区域を管理し守っている。
実際に巨竜が森林を守っているのかと思いきや、そういうわけではないらしい。
元の世界における“神”と同等の扱いをされているようだ。
竜は「竜の神殿」と呼ばれる場所に存在していると言われているが、歩いたり空を飛んだり地面を掘ったりしてたどり着ける“場所”ではなく、「神殿」という概念であるらしい。
神様は天界から人々を見守っている。その教えに近いようだ。
一説には普段は宝玉へと姿を変え、自身の従えるワイバーンたちに守られているとも言われているようだが。
竜を祀る神殿――竜の神殿とは別の、教会的な場所だ――で祈りを捧げる人々は、その説を邪教として忌み嫌っているらしい。
竜は現世に実在せず、人々が不幸に陥った時に信ずる者たちの前に現れるもの。それが定説となっているのだとか。
アルディラに目を授けた竜も、実際に彼女の前に姿を現したわけではない。
手当てしたワイバーンから「竜からの授かりものがある」と神託を授けられたらしい。
「何でも良いから試しに書いてみい。流石に故郷まで割り出すことは出来ぬが、この“目”が偽りではないことを知らしめてやろう」
「構いませんけど……。俺が普段使ってる文字って、こんなんですよ」
渡された紙片に適当なことを日本語で書いて手渡すと、アルディラは自信満々に紙片を眺め――やがて不快そうに眉をひそめた。
「『つるぺたロリババア』ってのは妾のことか?」
「読めるんですか!?」
「じゃから言ったろうに! それにしても何じゃこの、くねくねしたのとカクカクしたのと不自然に混ざりおって。どこの文字か知らんが、覚えるのが大変そうな文字じゃの」
紙片をくるくる上下左右に持ち替えながら、面倒くさそうに鼻を鳴らす。
試しに漢字を書き加えて見せたが、アルディラはそれも難なく解読した。
文章ないしは単語単位で認識しているようで、一つ一つの文字がどういった意味を成しているかまでは分からないそうだ。
「アルディラさんの目って、個人が創作した文字でも読めるんですか?」
「流石にそれは無理じゃが――過去に誰かしらが盟約や契約に使用した文字なら解読できる。盟約や契約の類は、竜の目を通すからの。要は竜が『知っている』文字は、妾にも読めるという寸法じゃ」
アルディラの話が真実なら、過去にこの世界に、日本から転移もしくは転生した人間がいるということだろうか。
思案に耽る凛の表情を、どう捉えたのか。
アルディラは繋いだ手をキュっと握り締めてきた。
「まあ妾も、言いたくないことを無理に聞き出そうとはせん。その身分証があれば、少なくともアルバトロスでは不都合なく過ごせるじゃろ」
出生の秘密を暴かれたくない。アルディラは、凛の不明瞭な振る舞いをそう結論付けたらしい。
二人の間に、微妙な沈黙が漂う。
気を利かせるのも悪いと思い、凛は区切りをつけるため、アルディラに向けて深々と腰を折った。
「色々ありがとうございました。身分証も手に入りましたし、もう大丈夫です」
「ああ、達者でな」
もう一度軽く頭を下げ、少し進んだところで――不意に後ろから、服の裾を掴まれた。
「――と、黙って行かせると思ったか」
今さっき別れたはずのアルディラが、すぐ後ろにいた。
「お主さっき、この国の文字を書けないと言ったであろう」
「言いましたけど……」
「一応確認しておくが、文字を読むことは出来るのか?」
振り仰ぎ、近くにあった酒場を見やる。入口に立てかけられた看板を指さし――。
「『いらっしゃいませ』で合ってますか?」
「『相席の女性半額』って書いてあるんじゃが……」
ジトっとした目で見上げたアルディラは、やれやれといった様子で肩を竦めた。
「そんな気はしてたんじゃよ。あんな不可思議な文字を書く男子が、この国の文字を読めるわけないと……」
全てお見通しというわけか。
サロンギアのミガサといいアルディラといい、随分と察しのいい異世界人たちだ。
それか凛の嘘がお粗末で、分かりやすいだけだろうか。
「今の読み違いを見て確信したわ。お主みたいな子供が――」
「俺一応20歳越えてるんですけど」
「茶化すでない! 妾からしたら20歳など赤子と同義じゃ! ――いいか、よく聞くのじゃぞ。今お主は妾が『相席の女性半額』と読んだのを、何の疑いもなく信じたじゃろう」
改めて看板を見やる。確かにそんなことを、あんな目立つところに書くだろうか。
指摘されてみれば、少しおかしい気がしてきた。
「アレは本当は『本日定休日』って書いてあるんじゃよ」
言われて気付く。そういえば、誰もその酒場に入ろうとしていない。
成程と首肯する凛に、アルディラは分かりやすく頭を抱える。
「そんな鈍臭い人間、悪い奴らにすぐカモにされるぞ。宿代を高く請求されたり、酒場だと偽って盗賊の隠れ家に連れ込まれたり……。考えただけで恐ろしいわ」
身体を抱いて震えてみせるアルディラに、凛はへらっとした笑顔でサムズアップしてみせた。
「大丈夫ですよ。俺お金持ってませんし、逃げ足だけは早いんで」
「しかも無一文とは……。何か妾、今更じゃがとんでもない輩と関わってしまったような気がしてきたわ……」
地面に手を着いて崩れ落ちるアルディラ。
だがすぐに立ち直ると、アルディラは強い眼差しで凛を見上げた。
「メモをとるものはあるか?」
「え、ええ。さっきお借りした紙片が……」
「なら付いてこう! 妾が街の中を案内してやる。生活に必要な言葉が書かれた看板を妾が読んでやるから、そこにメモしておくのじゃぞ!」
ぐいぐいと凛の手を引きながら、大通りへの道を進むアルディラ。
想像以上に強い力で、凛は彼女にされるがままになってしまう。
「何でそこまでしてくれるんですか……?」
「アプリアのお礼じゃ! 死にかけの女に生きる希望を与えたツケ――高くつくと思え!」
荒っぽい言い草だったが、アルディラの口端は嬉しそうに吊り上がっているようだった。