9話
俺は女を知らない。
知らぬまま、俺自身が女になった。自分でも何を言っているかよくわからないが、つまり俺は結局女というものをよく知らないのだ。
冒険者として剣だけに生きた男時代。男の意識のまま、体だけ女にされて親友のパーティに入った今。
未だ俺は、女性という生き物をまるで理解できていない。
「本当にかわええなぁ、フラッチェは」
柔らかな肉の感触が、俺の身体を包む。艶めかしい吐息が首筋を濡らす。
何だこれ。
「ふぁっ……」
「ふふふ、スケベな声出して。しゃーない娘やなぁ」
修道女の手が、俺の身体をまさぐる。撫でるように、舐めるように、からかうように。それに合わせて、俺の身体が弾けるように跳ねる。
じーん、と頭が痺れて何も考えられない。
「さて、もうええやろ。ウチとエエコトしよっか、フラッチェ……」
一糸まとわぬ姿で俺のベッドに訪れた修道女は、そう呟いて俺の衣服に手をかけた。
何だこれ。何だこれぇ!?
そんな、淫夢のような展開の数時間前。
「無いの?」
「今は、その……無いですね」
レックスは渋い顔をしている。張り切ってやって来たは良いけれど、どうやら今は無いらしい。
「じゃー出直すか……」
「何かあれば、またこちらから連絡させていただきますね」
受付の人は申し訳なさそうに笑っている。レックスは愛想笑いを返し、そして踵を返した。
何が無いのかと言われたら、それはつまり。
「依頼が無いんでしたら、仕方ないですよ」
「まーそんな日もあるわなぁ」
せっかく仲介所まで仕事を探しに来たのに、良い依頼が無かった。それだけである。
別に俺達が掲示板に張り出されているような雑用依頼を受けても問題ないのだが、その辺の依頼は底辺冒険者の貴重な食い扶持なので、あまり良い顔はされない。
俺も一応、生前は『仲介所指定の冒険者』だったからその辺はよく知っている。簡単な仕事しか受けられない、手負いの冒険者や新米冒険者の仕事を奪っちゃいかんのだ。
「帰れ帰れ! 人の皮を被った悪魔レックスめ!」
「あんな頭の弱そうな女の子を騙して、良心は痛まないのか!」
「果たし状使えばあの剣士ちゃん釣れるかな……」
ただでさえ、レックスは嫌われ者である。今もこうして、他の冒険者から罵声が飛び交っていた。
嫌われていると言うか、単に嫉妬されてるだけな気もするけど。
「これ以上ここに留まってもストレスが溜まるだけだな。撤収するぞお前ら」
「せやなー。ほらフラッチェ、飴ちゃんあげると言われても、絶対に知らない冒険者から勝負受けたらアカンで? 怖ーい目に遭わされてしまうから」
「念の為、手を繋いで歩きましょうかフラッチェさん。これで勝手に勝負を受けたりしないでしょう」
「私はどれだけ軽く見られているんだ」
そして。どうやら先の一件のせいで、私の扱いがアホの子になってしまったらしい。
カリンはからかってるだけだと思うけど、メイは割と本気で心配してそうだ。解せぬ。
「そう心配せんでも、俺以外にゃそう簡単に負けんだろフラッチェは。騙されて足元を掬われない限り」
「あれ、そうなんですか?」
仲介所からの、帰り道。俺はメイに手を引かれながら項垂れていた。
カリンの言う通りだ。俺は反省しないといけない。あんなに簡単に、挑発に乗せられるとは情けない。
聞いたことがある。弱いと煽られて挑発に乗るのは、心のどこかで『俺は弱いんじゃないか?』と言う不安があるからだ。ちゃんと自分の実力を信じていれば、あんな挑発に乗ったりはしないはず。
もう俺は挑発に乗らない。俺は強いんだ、レックスを倒す男なんだ。
「言ったろ、俺様が強すぎるだけって。んー、フラッチェって仲介所の指定冒険者だったんじゃね? それくらいの腕はある」
「え!? フラッチェってそんな強いのん?」
「……まぁ、貰ってたな」
「じゃ、じゃあフラッチェさんって、あの怖そうな冒険者さん達よりずっと強いの?」
「アイツら程度じゃ俺様の剣を受けた瞬間に吹き飛んで気絶するわ。まがりなりにも俺様と剣を合わせられるのは、フラッチェが力を逃がすのが上手いからだな。それも、異常なくらい」
「非力な剣士は、敵の剣の受け方をしっかり考えないと勝ち目がない。見ての通り私は非力だからな、それだけは得意だ」
「つまりまぁ、そんなにフラッチェを苛めてやるなって話。剣の腕に自信があるからこそ、俺様のあの挑発に乗ったんだろうさ」
レックスはと言うと、俺が凹んでいるのを察したのかそんな事を言い出した。なんだか、レックスにフォローされるのは新鮮な気分だ。俺が男のままだったら憤死するまで煽られてただろうに。
「て、てっきりフラッチェさんも剣士見習いなのかと」
「馬鹿言え、一流の剣士だよ。フラッチェが男だとしても、この腕なら欲しがるパーティは多いだろうな」
「剣の強さはよーわからんわぁ。フラッチェは腕も細いし体格も華奢やから、てっきりそんな強ないんかと思てたわ」
「…………くすん、くすん」
やっぱり弱いと思われてたんだなぁ俺……。毎日毎日、レックスにボコボコにされてるもんなぁ。
これでも、レックス以外の剣士に黒星は殆どないのに……。
「まぁ、俺様の方が100倍強いけどな!!」
最後にレックスが調子に乗った事を言ったので、背後から股間を蹴りあげてやった。
残念なことに目標物が小さかったため、クリティカルヒットはしなかったみたいだが。
「そうなんか、ふぅん……」
その時。修道女の目が怪しい光を帯びていた事に、迂闊な俺は気付いていなかった────
アジトに戻ってから。
「なぁ、フラッチェ。あれだよな、証文破り捨てられたけど約束を無効にするとは言ってないよな?」
「ひぃっ……来るな、この色情魔……」
「わ、分かった。そこまで嫌なら良い、すまんかった……」
自分の部屋に帰ろうとした俺に、エロ猿が背筋も凍るような事を言い出した。
乗せられたからには夜這われても抵抗せんけど、その後しめやかに自刃する。俺にはその覚悟がある。
「そこまで嫌かぁ……。うん、すまんかったなフラッチェ。もう二度と言わんから」
「頼むぞ、お前。そもそも、剣に生きるものが異性等と軟弱なものにうつつを抜かしていいのか? どんな剣の達人でも、油断しているところに襲撃されたら即死だぞ? もし私が暗殺者なら、お前は殺されてしまう訳だ」
「フラッチェに不意をつかれても多分勝てるなぁ」
「上等じゃねぇか! 試してみるか!?」
「落ち着きなさい。そう言うとこだぞお前」
華麗に煽られて熱くなりかけた俺の頭を、レックスは諫めるように軽く撫ぜた。
「煽って悪かったよ。そんじゃまた明日な。ちゃんと裏庭来いよ?」
「おう。そうだな、そこで思い知らせてやれば良いか」
「抜かせ」
……レックスの野郎。完全に俺を下に見てやがる。なんと言うか、大人の対応を感じる。
でも実際、今の筋力差じゃどうしようも無いんだよな。一回でも奴の剣を受け損なえばそれで負け。完璧にかわして反撃しても、筋力差で負け。
うーん。今日は少し筋トレして寝よう。
そして、深夜。ほどよく汗をかいた俺は、樽に汲んでおいた水で汗を拭いた後ベッドに入った。
寝る前は瞑想やイメージトレーニングする事が多かったけど、たまには身体を動かすのも悪くない。体が熱を帯びてしまい寝つきにくいのだが、程よい疲労のおかげでベッドがいつもより心地よい。
至福の微睡みを楽しみながら、俺は夢想する。やつの重厚な剣筋と、その理想的な受け筋を。
奴の剣は武器であり盾なのだ。そのあまりの大きさに、大抵の反撃手段では手首を返すだけで弾かれてしまう。
剣を躱しながら、同時に間合いを詰めないと。横や後ろに跳んで避けてはいけない、前に突っ込んで躱すのだ。
突っ込みながら、反撃をするのがベストだろう。だが、奴の剣をいなすのに俺も剣を使っているから、反撃するとしたら手段は徒手になってしまう。これでは、力負けするだけ。
いや、いっそ反撃せずに突き抜けるのはどうか。突っ込み躱した後は走り抜けてレックスの背後を取るのだ。
奴の装備は重い。剣を翻すのだって手間がかかる。一方こっちは身軽だから、切り替えなんて一瞬だ。絶対俺の方が先に攻撃できる筈。
そして、俺の先手攻撃を鈍重なレックスに受けさせる。これ、かなり勝ち目があるんじゃないか?
良いかもしれない。レックスの隙をあえて反撃せず、地の利を取る為に利用する。そうだ、これだ。なぜ俺は今まで思いつかなかったのか。
ああ、明日が楽しみだ。剣を背中に突きつけられて悔しがるレックスの顔が目に浮かぶ。
ああ、あわよくばそのまま連勝して力関係が逆転したりして────
ガタン。
寝る前に幸せな妄想をしていた俺は、部屋の中に何かが閉じられる音を聞いた。具体的には、俺の部屋のドアが開いて閉じられる音だった。
……今の音、何だ。待て、誰か俺の部屋に入ってきてないか? こんな時間に、ノックもせず?
ミシ、ミシ。
そして、次は俺のベッドが音を立てて軋みだした。何か、重たいものがベッドの上に乗っかったみたいだ。何だろうな?
おい。嘘だろ、アイツ。しないっていったじゃん。夜這いしないっていったじゃん。
目がぐるぐると回るのを感じる。息を殺したままテンパる俺は、その侵入者相手に声すらかけれず硬直していた。
……まって。嘘つき。おい馬鹿やめろ、早まるな。お前が欲情している相手は男だぞ。目を覚ませレックス、こんどからホモレックスと呼ぶぞお前。
肩が、誰かに掴まれる。びくん、と恐怖で体が震える。
ヤバイ。掘られる。
抵抗しない約束だから、首を刎ねることもできない。終わりだ。おしまいだ。
ナタル、すまん。お前より先に大人になってしまう。というか、そろそろ彼氏の一人くらい連れて来いよナタル。
等と、思考が混乱の極値に達した俺の背中から。艶かしい吐息とともに、聞いたことのある方言が囁かれて。
「こんばんはぁ、フラッチェ」
聞こえてきたのは、女の声だった。良かった、レックスじゃない。
ふぅー、流石に舌の根乾かぬうちから約束を破ったりしないみたいだ。レックスじゃないなら、夜這いされても何の問題も無いな。
よかったよかった。
「ウチや、カリンや。夜這いに来たでぇ? 一緒に熱い夜、どうやろか……?」
……。で、何これ?