第五章⑦
前崎と中原は、立てかけてあった5号室の壊れたドアを動かすと、部屋の中へ足を踏み入れた。
俗に言う、死臭のようなものは感じなかった。気温の低さに加え、割れた窓が常に換気の役割をしているからだろうか。けれど、そこに残る凄惨さは一ミリも変わらない。
冴和木の遺体を隠すように床へ広げられた毛布の周辺には、流れ出た血液が乾燥してへばりつき、窓際では、雪と共に割れて散らばったガラス片も光っている。
その荒れた様子に、後ろで中原が息を詰まらせたのが分かった。
「大丈夫か?」
「は、はい」
前崎の心配に、中原は口を押さえながらこらえるように頷く。
「足元、気をつけろよ」
二人は痕跡を踏まないよう、慎重に飛び石伝いでベッド脇まで移動した。
比較的綺麗なままのシーツには、人の温もりがそこにあったことを示すように皺が刻まれ、枕の上には、5号室のタグが付いた部屋の鍵が、ぽつんと残されている。
「そうか……今思えば、これも不自然だったんだ……」
「というと?」
前崎は枕を指差す。
「いいか。普通この、枕の『上』に大事なものを置いて寝るやつはいないだろ? 大抵は横か上か、あるいは、その下だ」
「そう言われれば、そうですね」
おそらくこの鍵は、密室であることを匂わせるために、犯人がわざと見つけやすい位置に置いたのだ。
「あれ? 前崎さん。その、枕の『下』なんですが、何かありませんか?」
しゃがみ込むような姿勢でベッド周辺を調べていた中原が呟いた。見ると、確かに枕とシーツの間に、何かが挟まって、僅かながらに盛り上がっている。
前崎がそっと、枕を持ち上げてみると……そこには、長方形でピンクの柄をした手の平サイズの物体があった。
一瞬、手帳か何かかと思ったが、取ってみると、樹脂製のカバーを取り付けた携帯電話であることが分かった。
「これ、凜華さんのものですよね?」
「たぶん。ベッドで横になりながら操作していたのかもしれない。ロックは……掛かっていないみたいだ」
前崎は携帯電話に残されたデータ類を調べ始めた。少し気はひけるが、今はそうも言っていられない。
携帯は圏外だから、使える機能は限られている。何かをしていたとすれば、アラームの設定や、メール・メモ機能による文章打ち、もしくは、写真といったところだと思うが、めぼしいものは見当たらない。
「どうです? 何か、手掛かりになるようなものは?」
「いや、特には…………ん? なんだこれ」
「どうしたんですか?」
中原も携帯画面を覗き込む。そこに表示されていたのは、フォルダ内に残された、一つの録音データだった。
保存日時は、前崎たちがこの古民家に泊まった二日目を指し、時刻は0104~0112となっている。つまり、一日目の就寝に当たる、深夜1時04分~1時12分までの録音記録ということだ。
「こ、これって! 凜華さんが亡くなる前のもの、ってことですよね?」
緊張した声で中原が言う。
「記録したのが、彼女自身ならば、な。…………聴いてみるか」
前崎は慎重な手つきで、その音声データの再生ボタンを押してみた。
ボリュームを上げると、ノイズにも似た風鳴りの音に混じって聞こえてきたのは、冴和木の落ち着いた声だった。そこからは、これといって切羽詰まった様子は窺えない。録音の内容は、今回の日程から始まり、他大学の前崎、中原と出会ったことや、トレッキングをして疲れたこと、古民家での食事や、部屋が寒いなど、多少の愚痴を交えた他愛もない回想のようなものだった。
「たぶん、これは合宿の記録だな」
「今のところ、特に、何か起きた様子はないですね……」
「ああ……」
ところが、そんな冴和木の一人話もそろそろ終わろうかという時だった。唐突に、それとは異なる、板を叩くような乾いた音が響いたのだ。
その直後、
『こんな時間に誰よ……もうっ』
冴和木の不快そうな声に続き、ガサリという布団を捲ったような音を最後にして、その録音は終わりを迎えていた。
「ま、前崎さん! 今のって、もしかして犯人が――」
興奮する中原の横で前崎も表情を厳しいものに変えていた。
「さっきのところだけ、もう一度聴いてみよう」
ボリュームを最大にすると、二人は携帯の小さなスピーカー部分に耳を近付ける。
するとやはり、『コンコンコン』という、ドアをノックする音が、確かに記録されていた。しかし――、最後まで聴き終えたところで、中原はがっかりしたように重いため息を吐く。
「駄目ですね……肝心の、犯人を決定づけるものがありません……。名前とまでいかなくても、せめて声が入っていれば……凜華さんの部屋を訪ねた人が判るのに……」
しかし、前崎は集中力を切らしていなかった。再び、その録音データを再生する。そしてそれを三度聴き終えたところで、神妙に言った。
「これは……いけるかもしれないぞ」
「えっ?」
前崎はきょとんとする中原の肩を掴むと、彼女の耳元に顔を近付け、
「頼みがある」
そう言って、囁くように、自分の考えを伝えていった。




