第四章⑦
「ど、どうしましょう、前崎さんっ……」
中原の焦る声に、前崎は唇を噛み締めた。
「仕方ない……。心苦しいが、こうなったら全員の荷物検査をしよう。身を守るための武器として、誰かが部屋へ持っていったくらいならまだいいが、これがもし犯人の仕業だとしたら、危なすぎる」
「そうだな……それぞれの疑惑を晴らすためにも、必要なことだ」
自分の選択を支持してくれた相羽に僅かながらの勇気を貰い、前崎は二人と共に台所を出た。それと同時に、外の様子も調べようと考えていたことを思い出してしまう。
すなわち、冴和木が殺されたときと同じような、巨大な足跡が庭先にあるのかどうかという点についてだ。
足跡と鉈の行方……どちらを優先するかという点は悩みどころであったが、外はまだ雪が降っていて、ともすれば手掛かりが消えてしまう可能性もある。それに、足跡の確認だけならば、すぐに済ませることが出来るはずだ。
「――すいません、相羽さん。先にちょっとだけ、外の様子を見てきてもいいですか?」
「ん? ……ああ。それは、もちろんかまわないが……」
前崎は礼を述べると、小走りで玄関へ向かった。そして、あがりかまちに腰を掛け、自分のスノーシューズを履きかけるが……――その動きが、途中でぴたりと止まった。
――おかしい。何かが、変だ。
前崎は、視界のどこかにある違和感の正体を逃すまいと、感覚を研ぎ澄ませた。クモの巣が張った天井、ヒビの入った土壁、斑模様に飾り込んだ石造りの玄関土間、そして、その一角に積み上げられた燃料用の薪……それら一つ一つに注意深く視線をめぐらせると、ようやくその正体に気がついた。
それは。
――靴だ。靴が足りないんだ!
玄関に並べられた靴を数えてみると、そこにはなぜか七足分しかなかった。当初のメンバーの数は八人。これでは、一足分が足りないことになる。
「何かあったのか?」
「どうしたんです、前崎さん?」
硬直していた前崎を不審に思ったのだろう。心配そうに相羽と中原が声を掛けてきた。
「靴の数が、足りない」
「靴? ええっと、1……2……3……4……」中原は指をさしながら一足ずつ数えていく。「あれっ? ホントですね……」
「二人とも、自分の履いてきた靴は?」
前崎が鋭い口調で確認する。
「えっと……、私の分はありますよ」
中原が自らの防水シューズを指させば、相羽も並んでいる靴に目を走らせる。
「俺のも、ちゃんとあるぞ。その端のヤツだ。隣は、確か……哲也の物だったはずだ。見覚えがある」
「一番派手な赤いブーツは、凜華さんが履いていたものでしたよね?」
前崎の呟きに、相羽が頷く。
残っている二足に関しては、三人とも、どれが誰の物かまで定かに記憶していなかったが、そのデザインとサイズから、明らかに女性物であることは間違いなかった。
「と、いうことは……」
「竜真、か?」
「そうなりますね……」
「あいつ、どこかへ行ったってことか? まさか、一人でここを出ようとしたのか!」
「それは、分かりませんが……」
前崎は急いで靴を履き、玄関戸を開けると、外へ出て辺りを見回した。
曇天の空からは小雪がちらほらと降っていたが、積雪は一時のピークを過ぎて二十センチほどになっている。
昨夜の猛烈な風で白く均された雪に、何か不審な痕跡がないかと、玄関前の周囲を念入りに探るが、目立った物はない……。しかし、更に調べる範囲を広げると、右向かいに建つ納屋に、何か、一つの足跡が伸びていることに気がついた。それは、古民家の外側をぐるりと回るようにして、裏手に消えている。
――あれは……!
「お、おい、前崎くん――」
「ま、前崎さんっ! どこへ……」
相羽と中原の声を無視して飛び出すと、前崎は積もった雪を踏み抜きながら、納屋へ走った。防寒着も着ずに外へ出たため、突き刺すような寒さが一気に全身の皮膚を刺激する。靴の中には、砂塵のような細かい雪が入り込み、靴下をジワリと濡らしていく。それでも構わず、白い息を後方へと流しながら足跡に近付いた前崎は、その形を見て表情を引きつらせた。
標準的な人間の足跡の一・五倍はあろうかというサイズ、そして、そんな楕円形の足跡の先端には、三叉の爪跡もついている。
冴和木が死亡していた日に見たものと全く同じ足跡が、くっきりと残っていたのだ。
「前崎くん! 何か見つけたのか!?」
後を追いかけてきた二人も、すぐに前崎の見ているものの正体に気がついたようで、声をわななかせた。
「こ、これは……あのときと同じ足跡か……?」
古民家の裏手から点々と伸びる一本のラインは、扉が閉じられた納屋の前で消えている。つまり……今、この中にその正体がいる?
前崎はそっと近付くと、両引きの鉄扉の中央に出来た僅かな隙間から奥を覗いてみたが、案の定、暗くて何も見えない。
「どうする……?」
低く抑えた声で、相羽に選択を委ねられる。
「…………」
ありえないとは思う。だが、もし万が一……本当に、この中に神話のミノタウロスのような化け物がいたら、どうすればいい……?
赤黒い筋骨隆々の身体に、闘牛のような鋭い顔。振りかぶる巨大な斧が首筋に……。
いつかの夜に見た悪夢が、脳裏をよぎる。
――いや、そんなわけはない……!
前崎は幻覚を消すように、大きくかぶりを振った。
「……開けてみましょう」
「…………念のため、中原くんは離れているんだ」
何かを言いたそうにしていた中原だったが、恐怖で言葉が出なかったのか、震える吐息を零しながら、二人を心配そうに見た後、納屋から後ずさるように距離を取った。
その間に、前崎と相羽は、鉄扉の左右にぴたりと張り付き、取っ手部分に手を掛ける。
「いくぞ……」
相羽が空いている片手でサインを作り、5……4……3……と、一秒ごとにその指を折っていく。
そして、最後の指が折られた瞬間、二人はタイミングを合わせて鉄の扉を思い切り引いた。
ガリガリガリッという、砂を巻き込んだような音を鳴らしながら、錆びたレールの上を鉄の扉が滑ると、陽の入らなかった真っ暗な空間から、塵と共に得体の知れない何かが、煙のように噴き出した気がした。
けれどそれは、恐怖心が見せた幻覚だ。二度三度と咳を零しながら、かき消すように手で振り払う。
開け放たれた扉によって入り込んだ外の光は、這うようにして、納屋の中を照らしていく。
それを頼りに、様子を窺った前崎の目が真っ先に捉えたのは、コンクリの床面に大きく刻まれた×印だった。その印の中央には、薪割り用の斧が不自然に置かれている。
そこから更に視線を奥へ向けたとき、今度は、中央部にぶら下がっている何かに気がついた。
ゆっくりと視線を上げていくと……前崎は、その正体に愕然とした。
「蕪木、さん……?」
「た、竜真っ……!」
そこには、納屋の梁で首をくくった蕪木の姿があったのだ……。だらんと垂れ下がった右手には鉈を持ち、足には鉄の鉤爪がついた、板草履のようなものを、その靴越しに縛りつけている。
「前崎さん? 何があっ……! ――きゃあああっ!」
訳の分からない状況に呆然としていた前崎は、中原の悲鳴で我に返った。
「と、とにかく、竜真の身体を降ろさないと! 前崎くん、そっちを支えていてくれ!」
「――は、はい……っ」
相羽は納屋の奥へ走ると、プラスチック籠に括り付けられていたロープを解いた。
途端、蕪木の脚を抱えていた前崎の両腕に過重が掛かり、無抵抗にぶら下げられていた彼の身体がゆっくりと地面に横たえられると、すぐさま、その状態を確認してみる。が……、蕪木の顔は明らかに変色し、口からは舌が飛び出さんばかりに伸びていて、これだけ見ても、完全に、手遅れであることは明白だった。
――なぜ、こんなことに……。
これで、被害者は三人目。
またしても、自分は犯人の後手を踏んだというのか……?
やるせない憤りに視線を落とすと、なにやら光る物体が、床に転がっている事に気がついた。手に取ってみれば、それはバックライトに照らされた携帯電話だった。おそらく、蕪木の身体を降ろしたときに、彼のポケットかどこかから、すべり落ちたのだろう。
何気なく目をやった画面は、メモ機能が起動されたままになっており、スクロールをしてみると、そこには――、
『遺書』
と、銘打たれた文字が書き込まれていたのだ。




