第三章⑤
七人が居間に揃うと、それぞれの前に、お湯の注がれたカップラーメンが配られた。
インスタント特有の、フライ麺と科学調味料が混じった匂いが胃袋を刺激する。少しだけほっとした気持ちになるのは、それが、消え去った日常というものを感じさせてくれるからなのかもしれない。
「そろそろ食べ頃だと思うんだけど……」
市口が割り箸を乗せた蓋の開け口に、そろりと手を掛けたとき、
「ちょっと待ってくれ」
彼女の隣に座る加藤が抑揚無く言った。
「ど、どうしたのよ、哲也」
「誰がどのカップメンを食べるか、選びなおさせてもらいたい」
「……選ぶも何も、種類はみんな同じよ?」
何をおかしなことを言っているのかと、市口は笑い飛ばそうとしたが、加藤は硬い表情を崩さなかった。
「……種類じゃない」
「え?」
「こんなこと言いたくはないがな、もしかしたら、犯人が隙をついて、故意に何かを混入させている可能性もあるんじゃないかと思ってね」
「何かって、なによ?」
眉をひそめる市口に対し、加藤は一際トーンを落とした声で言った。
「例えば、睡眠薬や、あるいは……毒、とか」
その物騒な単語が出た瞬間、部屋の空気が如実に張り詰めた。
「な、何言ってるのよ? そんなことしてないわよ!」
「葉子がやったと言っているわけじゃない。俺だってこんなこと、本当は疑いたくないさ。だが、状況が状況なんだ。陸の孤島と化したこの家の中で殺人事件が起きた今、何があっても不思議じゃないだろう」
七人の視線が、お互いの顔を反射的に見合ってしまう。
「わ、私はこの中に犯人がいるなんて、信じられないわっ」
市口は悪い思いを消し去るかのように、かぶりを振る。
「葉子。お前の仲間を思う気持ちは賞賛に値する。だが、この状況は、願望じゃ何も解決しないんだ。もしこの中に犯人がいるのなら、そいつの思い通りにさせないことだって、絶対的に必要なはずだ」
「なら、哲也が一番に選んだらいいじゃない!」
これまでの市口の温厚さからは想像だにしなかったヒステリックな怒声だった。これには前崎も驚いてしまう。
「二人とも落ち着け!」割って入るように口を開いたのは相羽だった。「これ以上議論を続けていても麺が伸びるだけだ。哲也の言うことも……残念だが、確かに一理あるし……ここは割り切って、じゃんけんでもして選びなおそう。それで哲也も納得だろう?」
「……ああ」
加藤は、むずと腕を組んで、憮然と答えた。
「それじゃあ、皆、悪いがちょっと協力してくれ」
相羽が自らの右手を囲炉裏の上に伸ばすと、他のメンバーもおずおずとそれに習って握り締めた拳を出していく。しかし市口だけは正座したまま動かない。
「おい、葉子」
「私はやらない。最後でいいわ。変なものなんて、絶対に入ってないんだから」
「……気持ちは分かるが、その行動が、かえって疑惑を生むということにもなりかねないんだよ。皆、葉子を信じてないわけじゃない。でも、ここは頼む……」
「…………」
市口は顔を赤くし、苦虫を噛み潰したように表情を歪めていたが、最終的には、あくまで納得はしていないということを示すように視線を逸らした状態で、その手を囲炉裏の上に伸ばしたのだった。
じゃんけんによってカップラーメンを取り替えた七人は、それからほとんど沈黙したように食事を済ませた。気まずい空気の中、そそくさと食べ終えて真っ先に腰を上げたのは加藤だ。口元をぞんざいに拭い、車座になるメンバーを見おろす。
「俺はこれから、外が明るくなるまでの間、自分の部屋に篭もるつもりだ。悪いが、それまで誰が訪ねてきてもドアは絶対に開けない。凜華が殺されたのは、奴が油断してドアを開けたせいだと思っているからだ……。だから、もし何か用がある奴がいるならば、今ここで言ってくれ」
そうして加藤は確認するようにそれぞれの顔を見るが、誰もが無言のままに視線を外していく。
その中で唯一、おずおずと手を上げたのが中原だった。
「あ――あの、提案なんですが……夜が明けるまで、自室には戻らず、ここで皆さん一緒に過ごすというのはどうでしょう?」
「一緒に?」
加藤が怪訝そうに聞き返す。
「ほ、ほら、都市伝説なんかでありますよね? 吹雪で山小屋に逃げ込んだ四人の遭難者が、夜明けまでの時間を凍死しないように、交代で一人ずつ夜番をするっていう……。小屋の四隅にはそれぞれベッドがあって、十五分とか二十分毎に時計回りで隣のベッドに寝ている仲間を起こして交代し、夜番をしていた者は、その仲間が使っていたベッドで仮眠を取る。そうやってスライドしながら、四人は危機を乗り切る話です」
そこで相羽が、続けるように相槌を打った。
「でも、途中でメンバーの一人が、はたと気づくんだよな。五人いないと、その方法は成立しないってことに。ホラー物の定番だ」
「は、はい。今の私たちの状況はそれに似ていて、でも一つだけ違うのは、ここに七人もいるということです。囲炉裏を囲んで同じように夜番をすれば……これ以上の悲劇も、防げるんじゃないでしょうか?」
すると加藤は自らの鋭角な顎筋を指先で撫でながら、大袈裟に鼻を鳴らし、首を振った。
「残念だが、その話と俺たちとでは、決定的に違う点がもう一つあるはずだ」
「違う、点?」
「分からないか? それは、信頼感さ。その話で四人が生き残れたのは、最低限、お互いを信頼していたという大前提があったからじゃないのか? でも今この場はどうだ? 誰が自分以外を完璧に信じられる? 敵は吹雪だけじゃない。もしこの中に殺人犯がいるとしたら、かっこうの獲物になっちまう。夜番をさせるなんて、それこそ寝首を掻かれるのを待つようなものだろう」
「じ、じゃあ、二人一組になれば――」
「同じことだ。犯人が単独だという確証がどこにある? そうでなくても、隙を突かれる可能性だってあるだろう。それでもやりたいというなら、やりたい奴だけでやってくれ。俺は参加しない」
ぴしゃりと厳しい口調で拒絶されると、中原は言い返す言葉も無く、枯れた花のようにうなだれた。その背中を市口が慰めるように優しく撫でる。
「他に話のある奴は……いないようだな。それじゃあ…………お先に」
冷ややかに言って加藤が出て行くと、蕪木もまた、それを追いかけるように二階へ上がっていってしまう。
五人の間で、嫌な沈黙が難破船のように漂う。
やがて窓に吹き付ける風雪音に混じって、
「しょうがないよ……」
ぽつりと割り切ったように言った市口の言葉が、お互いの心に生じたその亀裂の大きさを、表しているかのようだった――。




