第二章⑦
不安げな中原を残して廊下に出ると、前崎は階段脇にあるトイレの木戸を開けた。中は、臭いを抑えるための板で蓋をされた汲み取り式の便器が一つだけ設置されている。窓は換気用に使う最低限のもので、かなり小さい。内鍵が開いていたとしても、ここから出入りするのは難しいだろう。
トイレを出た後は、風呂場も覗いた。
土壁の狭い脱衣所と、タイル張りの浴室の格子窓にも、それぞれ鍵が掛かっていることを確認する。そして、何気なく風呂釜の上蓋を取ったとき、思わず眉間に皺を寄せた。
「……お湯がない」
てっきり、浴槽に溜まったままと思っていた残り湯が、全てなくなっていたのだ。よく見ると、底の穴を塞ぐゴム栓が外されている。
――誰かが抜いた、ということか……? でも、なぜそんなことを?
そのとき。
「前崎さん? こんなところに居たんですか。コーヒー出来ましたよ?」
振り返ると、脱衣所の前で中原が不思議そうにこちらを覗いていた。
「……俺は要らないと言ったはずだが?」
動揺を隠すように、ウェアのポケットへ両手を突っ込み、冷然と答える。
「せっかくなんで、お手伝いついでに私が淹れました。……迷惑、でしたか?」
「……別に、そういうわけじゃないがな」
前崎は小さく呟くと、風呂の蓋を直して廊下へ戻った。
「ところで中原」
「はい、なんです?」
「お前、風呂の残り湯を抜いて捨てたか?」
「え? ……いいえ。そんなことしてませんが……それが何か?」
「だよなあ。いや……それならいいんだ」
中原は首を傾げる。
「そういえば、さっきも皆さんに変な質問してましたけど、ひょっとして、凜華さんの件と何か関係があるんですか?」
「さてね。それはまだ分からないが、でも――」
そこで前崎はぴたりと足を止めた。
「――俺はな、いつも六時半に目が醒めるんだ。寝るのは、おおよそ深夜の零時半」
「はあ。なんですか? いきなり」
中原は突然の話についていけない様子で、きょとんとしていた。しかし前崎はそれを無視して話を続ける。
「ところがだ、昨日は一時間近くも早く眠り、起きたのも八時過ぎだ」
「だから、それがどうかしたんですか?」
「サイクルが乱れている」
「それは……環境が違ったわけですから、そういうこともあるんじゃないですか?」
「じゃあ、ほとんどのメンバーが八時以降に起きたこともか?」
「――えっ?」
「明かりの乏しい部屋ではやれることも限られるから、百歩譲って就寝時間が固まりやすいのはまだ分かる。けど、酔っていた蕪木さんは別としても、他の全員の起床時間までもが、八時前から九時過ぎの間っていうのがな……。何より、俺自身がいつもより一時間半も遅く起きてしまったというのが……何か、作為的なものを感じずにはいられないんだ」
「作為的って、どういうことですか?」
つまり、と前置きしてから、その意味を口にする。
「何か――睡眠薬のようなものを全員が盛られたんじゃないかってことだ」
「す、睡眠薬!」
思わず上ずった声をあげた中原は、前崎に一瞥され、慌てて自らの口を両手で押さえる。
「もちろん、あくまで推測だ。もしそうだとすると、納得いかないこともあるし」
「納得いかないこと? 何です?」
「冴和木さんがベッドではなく、床で亡くなっていたことさ。睡眠薬を仕込んでいたと仮定すると、どうして寝込みを襲わなかったのかという疑問が残る」
「それは……犯人が部屋の鍵を開けられなかったからじゃないですか? だから内側から開けさせたかったとか」
前崎は少し感心したように小さく頷いた。
「悪くない考えだと思うが、その場合は冴和木さんが薬で寝てしまう前に、彼女の元を訪ねなければならないという難しさがある。……犯人が自分とターゲットの冴和木さんにだけ、睡眠薬を盛らなかったという可能性もあるが、八人も居る中でそんなことが果たして出来るのかはちょっと疑問だ。それに、大前提として密室の謎も残る」
二階のドアは内側からつまみ(サムターン)を回すことでも鍵を掛けられるが、デッドボルトが飛び出すタイプであるため、ドアを閉めた状態でなければ、引っ掛かってしまう。
「……足跡の謎に、密室の謎に、睡眠薬の謎……う~ん」
中原は神妙な顔つきで唸っていたが、唐突に「あっ」と顔をあげた。
「どうした?」
「もしかして、前崎さんがコーヒー要らないって言ったのは」
「…………」
何か気づいたのかと思いきやそんなことかと、前崎は嘆息して、何事もなかったかのように話を切り上げた。




