第二章④
冴和木が降りてこないまま、朝食を食べ終えると、女子たちは後片付けのために台所へ行った。蕪木は宣言どおりと言うべきか囲炉裏の傍で腕を枕にして横になり、酒臭さの残る寝息を立てていた。その隣で、食後のお茶を飲み干した加藤が立ち上がる。
「ちょっと外の様子見てくるわ。積雪量が気になる」
「そうだな。状況次第じゃ、雪かきが必要になるかもしれんしな」
囲炉裏の火を調節していた相羽が頷く。
豪雪地帯でもあるこの地域は、家の入り口が雪で埋もれることもあるらしい。今はまだそこまでの季節ではないが、最近の異常気象では、何が起こるか分からない。
と、そのときだった。
「な、なんだ、これ!」 加藤の驚くような声が、唐突に玄関の方から響いたのだ。
前崎と相羽は顔を見合わせると、すぐさま居間を出て玄関先に呆然と立ちつくす彼のもとへ駆け寄った。
「……どうしたんですか? 加藤さん?」
前崎がその背中に問いかけるが、加藤は降りしきる雪を前に、ただ吐息を漏らすだけだ。
「おい、なんだっていうんだよ、哲也。そんなに驚くほど積もっているのか?」
「ち、違う……省吾。そうじゃない。あしあと……足跡だっ」
「足跡? 足跡がどうしたってんだ。それぐらい……」
前崎と相羽は、その意味を図りかねないままに、靴を履いて加藤の隣に立った。
そこで二人は、視線の先にある異変をようやく把握した。
「これは…………」
家の前に広がる、雪で埋め尽くされた庭に、自分たちのものとは似ても似つかない、大量の足跡が残されていたのだ。
吹きさらしの影響もあって半分以上消えかかってはいるが、驚くのはその大きさだ。一般的な成人男性の足のサイズよりも、一・五倍くらいはあるだろうか? しかも、形は楕円形で、足先と見られる部分が三叉の爪状になっている。
無数の窪みの数は、まるでこの古民家の前を何者かが物色していたかのように、動き回っていたことを示しているようだった。
「熊、なんてことは、ないよな……」
加藤が誰にともなく呟く。
「いや……熊にしては爪の形が違う。それに歩幅を見てみろ。まるで二足歩行の生物じゃないか……」
足跡の傍にしゃがみこんだ相羽が神妙な声で言う。
前崎もその考えに異論は無かった。けれど、果たしてこんなに大きな足の動物がいるのだろうかという疑問も湧いてしまう。しかも二足歩行となれば、まるで怪物ではないか。
よもや、ミノタウロスなんてことは……?
――馬鹿な。ありえない。
そんな突拍子もない考えを振り払いつつ、庭先から辺りを見渡していると、加藤が前方に指をさして「あっ」と声を上げた。見れば、無造作に付けられた足跡の中に、森の先へ伸びているものがあるではないか。
「お、おい、どうする? あれ、辿ってみるか?」
「足跡がどこへ伸びているのか、気にはなりますが……危険すぎるかと」
躊躇う前崎の意見に相羽も強く頷く。
「同感だ。正体も分からないし、ここで深追いするのは危ない。とにかく、一度家に戻って、全員に報告するべきだ」
「……分かった。二人の言うとおりにしよう」
前崎も頷いて、踵を返す。そして、大粒の雪が降りしきる空を見上げたとき、古民家の二階部分に、ふと目が留まった。
――あれ?
何かが変だ。
よく見ると、四つ並んだ小窓の中で、右から二番目の窓ガラスだけが、不自然にその光沢を無くし、ぽっかりと穴を開けていた。
「二人とも、ちょっと待ってください! あそこの窓ガラス、なんか割れてませんか?」
「「え?」」
足を止めた相羽と加藤が、同時にその視線を前崎の指した方へ向ける。
「ほ、本当だ……! いつからあんなことに……? 昨日はなんともなかったはずだが……」
「おい、っていうか、あの部屋って――」
「正面右から二番目だから……えっと……5号室……冴和木さんの部屋……?」
「間違いない。凜華の部屋だ」
この寒さの中、窓ガラスが割れているのに、そのまま眠っているとは、とても思えない。
三人は目を合わせると、次の瞬間、弾かれたように家へ走った。
「ちょっ、ど、どうしたんですか?」
靴を脱ぎ捨てながら、あがりかまちを飛び越えると、廊下にいた中原が困惑したように言う。
「中原! 冴和木さんはまだ起きてきてないよな?」
そんな彼女に対し、一人足を止めた前崎は、強い口調で確認した。
「え、ええ。何かあったんですか?」
「……冴和木さんの部屋の窓ガラスが割れてるんだっ」
「えっ? それって……どういう――」
「もしかしたら――――いや、話は後だっ。とにかく、市口さんと紙倉さんにもこのことを伝えてきてくれ!」
「は……はいっ!」
前崎がやや遅れて階段を駆け上がると、先に到着していた相羽と加藤が、冴和木の部屋の前で呼びかけを行っていた。
「おい、凜華! 返事しろ!」
加藤がねじ切らんばかりの力でノブを回しながらドアを叩くが、中からの反応は無いようだった。こうなってくると、やはり何かがあったとしか思えない。
「仕方ねえ、ドアをぶち破るっ。省吾、手を貸せ!」
「――わ、分かった」
加藤と相羽は、タイミングを合わせると、出来る限りの勢いをつけ、木製のドアに体当たりをかました。ベニヤの板材は、二度目の衝撃でミシリという音がしたかと思うと、三度目でついにそのデッドボルトの接合部付近が壊れ、加藤と相羽は勢いのまま、なだれ込むように部屋へと飛び込んだ。
「おい、凜華! なにがあっ――――う、うわあっ!」
およそ聞いた事の無い質の震え上がる声。
「な……なんてこった……」
身体を硬直させる加藤と相羽の視線の先にあったのは……。
ジャージにトレーナー姿で足をこちらに向け、どす黒い血の池の真ん中で、うつ伏せに倒れている冴和木の姿だった。細い背中には、到底似つかわしくない包丁が突き刺され、床に広がった長い茶髪の上には、割れた窓ガラスから吹き込み続けていた雪が、残酷さを助長するかのように、積もっていた。
「…………っ」
一瞬、何がなんだか分からなかった。
果たしてこれは、現実なのか?
何かの、イタズラじゃないのか?
いや、それにしてはリアル感がありすぎる。
そもそも、そんなことのために窓ガラスまで割るわけがない。
――そうだ、とにかく、安否確認を……!
前崎は息を静かに吐いて呼吸を落ち着けると、血液を避けながら慎重に冴和木の元へ近寄った。そして、彼女の青白い首元に、そっと右手を当てる。
「――――」
脈は、測るまでもなかった。
皮膚は干からびたように弾力を無くし、なにより、体温が氷のように冷たくなっていた。
「――だめだ……死んでる」
前崎は、現状を確認するように部屋の中を見渡した。窓ガラスは叩き割られたように砕けていて、掛け布団が捲られたベッドの枕の上には、部屋の鍵がポツンと置かれている。
――どうして、こんなことに……。
そのとき、遅れてやって来た女子たちの甲高い悲鳴が、後方から上がった。
「そんな……凜華!」
「待て、見ないほうがいい!」
駆け寄ろうとした市口を相羽が慌てて押し止めると、彼女は崩れ落ちるようにその場で嗚咽を漏らした。