プロローグ
……日本海に面する北陸の季節は、風の質と共に移り変わるといっても過言ではないだろう。
秋も終わりを告げた今の季節であれば、下から巻き上げてくるような冷気が、日々その強さを増していく。やがてそれが雪まじりの強い横風となり、人々の髪と、交通機関を乱れさせるのだ。
前崎玲一は、そんな本格的な冬が間近に迫るこの季節が、もっとも好きであった。
春は桜に感化された人々がそこらじゅうでせわしなくなるし、夏は異常気象による暑さとセミの声が集中力を妨げる。秋に関しては、特別嫌いというわけではないのだが、学生に身を投じていると、どうしても文化祭等の喧騒に巻き込まれやすい。……そして真冬になれば、寒さで極端に身体の動きが鈍くなってしまう。
だからこそ、その境目である今の時期が、もっとも落ち着いていられる時間なのだ。
そんな貴重な時を、前崎は一人、殺風景な大学サークル棟の一室で過ごしていた。紺のトレーナーに黒のスラックスというシックな服装で、窓辺に置かれた樹脂製の肘掛け椅子に腰を下ろし、スチールの机を前にゆったりとした体勢で文庫本のページを捲る。
部屋の角では、唯一の暖房器具である、安っぽい小さな電気ストーブが電熱線を赤く光らせ、じりじりと小さな音を鳴らす。
広いグラウンドからは、運動部の掛け声が切れ切れに響き、飛行機のフライト音が、遠くの空で木霊する。
前崎はその空間に溶け込むかのごとく、黙々と本に視線を落としていた。
しかし、そんな心地よい時間も長くは続かない。テンポの速い靴音が廊下から聞こえてきたかと思うと、まもなくしてドアのガラス窓が、その人影を映した。
「あーっ、さむいっっ!」
がらりとドアを開けて入ってきたのは、一人の女子生徒、中原沙希であった。クリーム色のセーターに、白のミドルスカート。細い脚は黒のストッキングでプロテクトしている。
中原は引き戸を素早く閉めると、セーターの両袖を握り締めながら、一目散に部屋の隅に置かれた電気ストーブの前へ移動する。それから、スカートの裾を押さえ、しゃがみこんで背中を丸めると、小動物のようにすぼめた肩を震わせた。両耳の後ろで纏めた黒髪のおさげも、寒さでぎゅっと締まっているように見える。
「ちょっと前崎さん……報告会、ちゃんと参加してくださいよ。なんで私が……」
「……報告会?」
ストーブの前に手をかざしながら不満そうな目を向けてくる中原を一瞥すると、前崎は再び手元の本へと視線を落としながら訊いた。背表紙には、『固定概念の壊し方』なる謎のタイトルが、様々なデザインを組み合わせた文字で書かれている。
「なにって、月に一、ニ回、各サークルが集まって、活動報告をするんですよ。結果次第では活動支援金が貰える重要な……って、なんで知らないんですか!?」
前崎は二年前に開校したばかりである、この『国際信越大学』の二年生、一期生だ。対して、中原はその後輩に当たる一年生……。だからこの『郷土史研究会』というサークルを作った本人でもある前崎が、報告会の存在をいままでずっと知らなかったという事実に中原が驚いた声を上げたのも無理はないと言えるだろう。
「おかしいなって思ったんですよ。夏は扇風機もなかったし、冬はこの電気ストーブ一台」
「もっと早く気づけよ……」
「一年生は色々と忙しいんですよっ。学校にも慣れてないし……。開校してまだ間もないから、そういうものなんだろうなって思ってて」
前崎は聴こえない程度に、ぼそりと突っ込みを入れたつもりだったが、中原の耳にはしっかり届いていたようで、怒涛の文句が帰ってきてしまう。
「運動部の友達に聞いて、ようやく理由を知ったんです。それで丁度、報告会が今日あるからって、試しについていってみれば……酷い目に遭いましたよ。うちのサークル、これといった実績もないから、肩身狭いし浮きまくりで……」
「別に参加は強制じゃなかったんだろ?」
「ええ、まあ。ほとんどのサークルは、大会や発表会などの後に出席するのが基本なようです」
「じゃあなんで参加したんだ……。ウチは報告することも無いのに……」
「だって支援金欲しいじゃないですか。これから寒さが増してくるのに、この小さい電気ストーブ一台って。こんなので冬は越せませんよっ」
「……ここで越冬するわけじゃないだろう」
ちなみに、唯一の暖房器具である、その電気ストーブも、去年、資料整理の手伝いを頼まれた教授の部屋から、どさくさ紛れに拝借してきた物だったのだが……それは流石に前崎も口にはしなかった。
「そうですけど……部屋の備品だって簡素だし……もう少し華やかさみたいなものがあってもいいんじゃないですか?」
前崎は常々疑問に思う。
――なぜ女子は、インテリアやアクセサリーにこだわるのだろうか、と。
確かに、手間ひまを掛けて作られた装飾品を見れば、優れた技術であると感心する。だが、それをどこかに飾り付けて常に愛でたいという気持ちは、少なくとも現時点で前崎の脳内に存在していない概念であった。
街を歩いている人の中にも、奇抜なデザインの服ばかりが目立ってしまっている場合がある。それでは服を着ているのではなく、服に着られているようではないか……。
部屋も同じだ。派手さばかりにこだわれば、結局そこにいる自分は、一つの異物になりかねない。やはり月並みではあるが、シンプル・イズ・ザ・ベスト。これこそ、本質なのではないだろうか?
もちろん、昨今の断捨離ブームを推奨するつもりはない。やりすぎれば、不便になるだけである。肝心なのは、バランスなのだ。しかしそんなことを説いたところで、目の前の人物が納得するとは到底思えないので、前崎は話を切り替えることにした。
「――それで、結局、支援金は貰えることになったのか?」
「いいえ」
中原は憮然と答える。当然と言えば当然だろう。
「じゃあ諦めるしかないだろう」
「でも、この電気ストーブ、部屋が全然暖まらないじゃないですか。近付きすぎると火傷しそうだし……スイッチ入れた直後は、プラスチック臭のような変な臭いもするじゃないですか」
「なら、自腹で新品を買ったらどうだ?」
「嫌ですよっ。私、そんなお金ないですし」
「どうしようってんだ……」
「だからっ! とにかく、報告出来るような活動をするんです。冬はこれからが本番ですし、次の報告会までに、何かしらの結果を出すんです」
拳を握り締める中原に、前崎は首を振る。
「結果って……そんな簡単には無理だろうが」
「ふっふっふっ。そこでこれなんですよ」
不敵な笑みを零しながら、スカートのポケットから中原が取り出したのは、一枚のコピー紙だった。
前崎は嫌な予感がしつつも、本を置き、手渡された紙を開いて、内容に目を走らせる。
『冬の集い――ミノタウロス伝説の考察。来たれ、未来の聡明な学者たち!』
最初に飛び込んできたのは、そんなダイエットチラシのような謳い文句のごとく、デカデカと印字された文章だった。
「……なんだこれ?」
「隣街の大学にある民話研究サークルが、ホームページ上で出していたページを印刷したものです。山間の空き家を借りた二泊三日の合宿で、参加費はなんと無料! 大学生ならだれでも参加出来るらしいですよ」
「……それで、まさかこれに参加するとか言うんじゃないだろうな?」
ちらりと見やれば、中原はその瞳を爛々と輝かせながら頷いた。
「もちろん、そうですよ。いやあ~、ラッキーですねえ。渡りに舟とはこのことでしょう」
どこがラッキーなのか。前崎にとっては、渡りたくない舟以外の何物でもない。
「俺はゴメンだね」
当然のごとく即座に反対の声を上げ、紙を突き返す。
「どうしてですか? これなら他大学との交流も含めて、活動報告として堂々と発表出来るし、ちょうどいいじゃないですか。しかも締め切りが今日までで、定員も、残り『二名』なんです。ここまで揃ったら、行くしかないでしょう」
「理由はいたって簡単だ。面倒くさい」
そもそもこのサークルを作ったのは、気を落ち着ける場所を確保したかったからだ。正直、郷土史研究会という名も、適当にそれらしく見えるものをつけただけである。だから他大学との交流合宿など、その意に反する行為なのだ。
すると、それを知ってか知らずか、中原は困ったようにため息をついた。
「でも、前崎さん。大学創設二年目で、今はまだ学生数も少なくて空き部屋があるからいいですけど、活動結果をある程度残さないと、来年にはこの部室、取り上げられちゃうかもしれませんよ?」
「…………」
これには前崎も思わず返す言葉が見つからなかった。中原の言うことにも、正直一理ある。四月に唯一入部を希望した彼女を加えたのも、そういった事情があってのことだったのだが、やはり部員二名だけでは弱いかもしれないという思いが、前崎の中にも少なからずあった。
新たな時間潰しの部屋は、探そうと思えば探せるだろうが……居心地の良い場所がなくなるというのは、出来れば避けたいことである。となれば、万が一を考えて活動の功績を作っておくに越したことが無いのは、中原の言うとおりなのかもしれない。彼女の行動原理は、ただ最新の暖房器具が欲しいだけなようだが……。
「……仕方ない……。つまらなかったら途中で帰るからな」
「ふふっ。そう言ってくれると思ってました。それじゃあ、早速、参加の申し込みをしておきますね」
心底面倒そうな前崎とは対照的に、中原は鼻歌交じりで携帯を操作し始めた――。